こんなことの為に(その終)

 顔面全体がジンジンと痺れて熱い。口の中を切ったのか、舌の上に血の味を感じる。未だに重い鈍痛が背中に広がっていた。


 遅れて、自分は顔を蹴り上げられ、後ろの壁にまで吹っ飛ばされたのだと、僕は呆然と理解して。それとほぼ同時に、その声が騒々しく、喧しく部屋に響き渡る。


「さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!」


 そんな男の声に釣られて顔を上げれば、いつの間にか僕の目の前には金髪の男────ライザーが立っていた。その顔をこの上ない喜悦に歪ませ、髪と同じ色をしたその瞳が、昏く淀みながらも、爛々とした危うい光を帯びている。


「さあ立て、立てよさっさと立てって言ってんだろうがこのクソボケがァッ!!」


 言って、ライザーは左足を振り上げ。そして何の躊躇もなく、遠慮容赦なく僕の腹部に向かって振り下ろす。


 ドスッ──ライザーの爪先が突き刺さり、僕の腹部を鋭く深く、抉る。


「そうらどうしたどうしたぁ?やり返してみろよぉ?なあ、なあなあなあァッ!」


 ドスッドスッドスッ──僕が無抵抗なのをいいことに、ライザーは何度も足を振り上げては、僕の腹部へ振り下ろすのを繰り返す。その度に彼の爪先が僕の腹部を抉り、鈍痛と激痛が僕の身体を駆け抜けていく。


 ……しかし、それでも僕は動けなかった。抵抗することができなかった。そうしようという気力が、欠片程も湧かなかった。


 ──先輩……。


 ただ、そう心の中で呆然と零すのだけで、精一杯だった。


 失意の底の底、どん底に文字通り蹴落とされ。無抵抗でいる他ない僕のことを、ライザーは一方的に甚振り続ける。当然だろう。僕の事情も、心境も彼の知ることではない。もはや妄執と怨恨に取り憑かれた彼は、ただそれに従って僕を蹴り続けるだけの狂人と堕ちたのだから。


 肉を打つ、重く鈍い音だけが部屋に静かに響き。そして。


「ゴホッ……」


 唐突に腹の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた僕は、次の瞬間。喉に少しへばりつかせながら、口から血を吐き出した。吐き出された血が、床に赤い線を引く。


 内臓が傷ついている。このまま無抵抗に蹴られ続けられていれば、己の命に関わってくる。その可能性と危険性を目の当たりにした僕は────


「…………」


 ────それでも、何もしなかった。そこまで追い込まれてもなお、僕は失意の底から手を伸ばし、這い上がることができないでいた。


 そんな様子の僕を、まるであり得ないとでも言いたげに。興醒め、失望の色が混じる声でライザーが訊いてくる。


「……おいおい。何だって、そこまでなっても反撃しない?何でだ?何でなんだ?」


「……」


 彼の質問に対して、僕はやはり何も答えられない。こんな心情で己にならばともかく、自分以外の他者に何かを答えることなど、少なくとも僕にはできないことだったのだ。


 だが、そんなこともライザーが知ることではない。口の端から血を垂らし、依然黙っているままの僕を見限ったのか、彼は痺れを切らしたように舌打ちし────スッと、僕の腹部を執拗に蹴り続けていたその左足を引かせた。


 ドッ──かと思えば、すぐさま引いたその左足で。ライザーは僕の肩を踏みつけた。


「ふざけんじゃあ、ねえぞ……お前がそんなんじゃ、意味がねえだろうがよ……価値がねえだろうがよ」


 そんな訳のわからない言葉をポツポツと零しながら、彼は。


「俺がやってることが、やろうとしてることが全部無意味なんだよ!全部無価値なんだつってんだよッ!!」


 僕の肩を踏みつけにしていた左足を床に戻し、右足で僕の横面を蹴り飛ばした。


「がっ……」


 防御することもできず、受け身を取ることもできず。僕は床に倒され、顔面を強く打ちつける。


「なあ、どうしてだ?どうしてお前何もしない?なあ、なあなあなあ!」


 狂人の声音で言いながら、床にうつ伏せで倒れた僕の首根っこを。ライザーは無造作に掴み、彼は僕の身体を少し持ち上げ、そのままズルズルと僕の身体を引き摺る。


 僕を床に擦らせながら、ライザーが狂ったように続ける。


「この俺がわざわざ用意してやったんだ。お前なんかの為に、お前の為に手ずからわざわざ。理由ってのを。そう、お前がやり返せるように、理由を」


 その様は、まるで見えない何かに急かされ、駆り立てられているかのようだった。誰の目から見ても、今のライザーはもはや正気ではないことは、明白であった。


 ライザーは寝台ベッドの元にまで歩み寄って。そしてここまで引き摺った僕の身体を、首根っこを掴んだその腕だけで持ち上げる。


「ほらこれでよく見えるかあ?そこにあんだろ、理由が。あんなに大事であんなに大切な後輩が、理不尽にも痛めつけられてるってのに……未だ呑気に気を失ってやがる理由がな」


 そう言って、ライザーは僕の身体を前に突き出す。そうすることで僕の視界一面が、寝台の上の先輩で埋め尽くされてしまう。失神し、その痴態を存分に晒してしまっている先輩の姿で。


 ……だが、それでも。未だに僕は、何もできないでしまっている。何の気力も、もはや湧かない。


 そんな、どうしようもない僕に対して、ライザーはさらに続ける。


「だからよ、いい加減立てよこの無能。立って、拳の一つくらい振り上げてみせろよ。お前がその気にならなきゃあ……ん?んん?んんん……っ?」


 しかし、言葉の最中でライザーは不可思議そうに疑問の声を上げ、僕の顔を横から覗き込む。そして、不意に納得したように呟いた。


「ああ、そうか。そういうことか」


 それから、底冷えする程に低い声音で僕にこう言った。




「お前、




 ──……逃げ、てる……?


 そこでようやく、初めて。僕の中で何かが反応を見せた。が、ライザーはお構いなしに、堰を切ったように。その口から大量の言葉ぞうおを吐き出す。


「おい、おいおいおい現実逃避してんじゃねえぞ、この野郎。そりゃそうだな、確かに逃げたら楽だもんなぁ?逃げて、逃げて逃げて逃げて。そんで逃げ続けて目を背いていれば、受け入れなくても済む。認めなくても済む。そうすりゃあ、お前の先輩は傷つかない。砕けない。壊れないもんなぁ?ハハッ、本当に卑怯だなあ、この卑怯者め。どうしようもねえろくでもねえ糞野郎め」


 ライザーに言われ、罵られ。僕は気がつかされた。気がつかされてしまった。


 ああ、そうだ。そうだったのだ。僕は無気力を、諦めたをして。ただ、逃げていた。目を、背けていた。


 自分は間に合わなかったという、この受け入れ難い現実を。この認め難い事実を。それから僕は────必死に逃げていたんだ。


 ──そうか。そうかそうか……つまり僕は、そういう奴だったんだな……クラハ=ウインドア。


 ライザーの言う通りだ。僕は卑怯者だ。楽な方へ逃げていた、どうしようもない卑怯者。それをあろうことか、こうして彼に気づかされた。


 そのことに言い知れぬ無力感と虚脱感に呑まれ、沈み行く最中────最後に、ライザーは言った。


「一応、目の前のこれは最後までお前の────クラハ=ウインドアの先輩で在り続けたっていうのになぁ?」


 ──…………え?


 その言葉は、聞き捨てならないもので。今の今までずっと閉じていた口を咄嗟に開く────直前。グッと、不意に。そして一気に、僕の顔は前に突き出された。


 瞬間、僕の視界に先輩の下腹部が、ショートパンツの股間部がグンと差し迫って。そこに僕の鼻先が触れたと認識するとほぼ同時に。


「んぶっ」


 僕の顔面が、先輩の股座へと無理矢理押しつけられた。ぐちゅりと、微かに響く妙に粘ついた水音を。僕の鼓膜は鋭敏にも聞き捉える。


「そら卑怯者。たんと存分味わえよ、俺が丹念に仕込んだ雌の味ってのをよ」


 そう言いながら、ライザーは僕の顔面をショートパンツの上から、先輩の股座に沈めようとさらに押しつける。


 グリグリ、と。僕の鼻先が押し潰れながらも、先輩の股座を厚顔無恥にも弄る。ショートパンツの生地は僅かに、けれど確かに湿り気を帯びていて、蒸れていた。


 ライザーが押しつける度に、その下からぐちゅぐちゅという水音が、僕にしか聞き取れない程度に、しかし何度も響く。


「塩っぽいか?それとも甘いのか?匂いはどうだ?するか?なあ、なあ?」


 グッグッ、と。僕の顔面を押しつけながら、心底愉しそうにライザーが訊ねる。だが先輩の股座に顔面を押しつけられている僕に、そんなことを答える余裕などない。と、その時だった。




「んっ……ぁ」




 頭上から、そんな。悩ましい色香が滲んだ声が、微かにした。これまでで聞いたことのない声だったが、僕はその声音自体は聞いたことがあった。


 ──先、輩……?


「……おやぁ?おい、おいおいおい……まさかおい、感じてんのか?気を失ってるってのに?」


 まるで、聞いてはいけない音を聞いてしまったように。愕然とする僕を他所に、ライザーは少し遅れて、呆然とそう呟き────それから格好の、それも大好物の餌を見つけた獣のように、興奮の声を上げた。


「こいつは傑作だ。こいつはとんだ傑作じゃねえかよ、おい!」


 興奮と高揚に堪らずその声色を荒げさせて、より強く激しく、僕の顔面を先輩の股座に押しつけながら。ライザーは楽しくて、そして愉しくて仕方がないとでも言わんばかりに、僕の頭上から言葉を降らす。


「よかったなあ?おい。喜べ、喜べよ裏切り者の後輩。お前みたいな救いようのないクズの顔面で、お前が先輩と呼ぶその雌は気持ち良くなってやがる。揃いも揃って、全くもって、救い難い!」


「むん、ぐっ……!」


 止めろ、と。僕は叫びたかった。けれど、ライザーがそうはさせないとばかりに、僕の顔面を力強く押し出し、押しつけ続け。結果、僕の口から漏れるのは何の意味を成さない、くぐもった呻き声だけで。


 ──苦し、い……っ!


 時間にして、それは一分弱だったのだろうか。それとも、たかが数十秒のことだったのか。いずれにせよ、先輩の股座に顔面を押しつけられている最中、そうして何とか声を絞り出し叫ぼうとしていた僕は。当然、肺に取り込んでいた空気の大半を吐き出した訳で。


 僕の肺が、僕の身体が新鮮な空気を取り込ませてくれと訴え出す。このままでは窒息してしまうと、僕の頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。


 今すぐに、今すぐにでも先輩の股座から少しでも離れて、空気を吸わなければ。けれど、ライザーがそれを許す訳がない。


「ほら、もっとだ。もっと悦くしてやれよ。お前の先輩なんだろそうなんだろぉ?だったらここは後輩として、もっともっと、もぉっと悦ばせなきゃなぁ?ハハッ!」


 身勝手極まりなくそう言って、ライザーはさらにまた僕の後頭部を前へ押し出した。


 僕の顔面が、鼻と口の全てが先輩の股座で塞がれる。一分いちぶの隙すら埋め尽くされ、完全に密閉されてしまう。


 息ができない。肺に空気を送り込めない。そんな状況の最中、数秒もしない内に。僕の意識は、次第に朦朧と始めてしまって。


 ──もう、だめ……だ…………っ。


 いよいよ窒息間近となった、その時。僕の朦朧とする意識とは無関係に、そうしたところで無意味だというのに。死の危険に晒された僕の身体は、そこにあるはずもない空気を求めて。




 猶予として残された僅かばかりの体力の全てを振り絞り、思い切り。先輩の股座に、吸いついた。




「っふ、ぅあぁぁぁ……ッ」


 瞬間、未だその気を失っているはずの先輩が、そんなあられもない艶やかな嬌声をその口から散らして。それとほぼ同時に、先輩の腰がビクンと跳ねる。その勢いで、密着していた僕の鼻と口が僅かに離れた。


「ぷはッ……!!」


 ここぞとばかりに、ほんの少しばかりの湿った空気を吸い込む。何処か背徳的で、そして甘美な匂いを孕んだその空気を肺へ余すことなく送り込む。


 しかし、僕の意識はまだ朦朧としていて。手足に上手く力を込められない。そんな状態の僕を、ライザーは。


「よくやったじゃねえか。お前みたいな童貞でも、憧れの紛い物せんぱいを立派に啼かせることができて……よおッ!」


 ドンッ──一切躊躇することなく、遠慮容赦なく床に引き倒し、叩きつけた。


「がはッ……!」


 背中を衝撃が隈なく叩いて、堪らず僕は肺に取り込めたなけなしの空気を、無様にもまた宙へと吐き出してしまう。だが先程とは違って、すぐさま新たな、それも大量の空気を吸い込む。


 充分な空気を肺に取り込めた。意識も徐々に冴え渡り、視界も鮮明になっていった。……けれど、床に投げ出した手足に力が入らなかった。動かせなかった。もう……動かしたく、なかった。


 ──……一体、僕は何をしているんだろうな。


 みっともなく、情けなく。無様に乱れた荒い呼吸を、小さく何度も繰り返して。窒息しかけたことで、妙な程に冷静になった思考で僕は、呆然と訊ねる。だがそれは誰に向けたものでもない。自分にすら、向けたものではない。


「さてさぁて。もうこれで十分だろ。だから、立てよ。いつまでも床に寝っ転んでないで、とっとと立てよォッ!」


 ライザーが叫ぶ。だが、それを煩いと不快に思うことはなく。僕はただ、これまでのことを振り返っていた。


 自分が何をしているのか。自分は何がしたかったのか。ただそれだけを、確認する為に。


 その泣き顔を見た瞬間、どうしようもなくなった。その背中が鉄扉の奥に消え去るのを見届けた瞬間、いても立ってもいられなくなった。


 だから、一目散に駆けつけた。形振り構わず、必死になった。


 立ち塞がる障害の全てを、振り払って。捩じ伏せて。打ちのめして。そして、そうまでして。




 ──間に合わなかった。




 この現実が身に染みる。その事実が身を侵す。ゆっくりと、ゆっくりと蝕まれていく。


「……おい。おいおいおい、おい。ふざけんなよ。ふざけんなふざけんなふざけるな。何だ、その顔は。何だその目は。止めろ、止めろ止めろ止めろ止めろ……この後に及んでお前、その顔と目で俺を見るんじゃあねえよ」


 限度知らずに加速し続ける喪失感と虚無感に挟まれる最中、僕の意識から遠くの方でそんな声が聞こえる。しかし今になってはもう、どうでもいい。


 全部が全部、何もかもが。もはや、どうでもいい。


「…………ハッ。ここまで、お膳立てしたってのに」


 そこに込められていたのは、落胆か、失望か。それとも諦観か。あるいは、それら全部か。何処か曇って淀んでいる視界の中で、投げやりにそう吐き捨てながら、ライザーは腰から下げている剣の柄を握り、そして手慣れた動作でそれを鞘から引き抜いた。


「死ね。死ねよ。……もう、どうでもいい。だから死んでくれよ、クラハ」


 そう、言い終えるや否や。ライザーは感情が一切消え失せた表情で、振り上げたその剣を────躊躇うことなく、振り下ろした。


 部屋の明かりに照らされ、冷たく輝く刃を見上げながら。それを綺麗だなと、僕は他人事のような感想を抱く。


 その綺麗な冷たい刃が、数秒後には己の首に滑り込むというのに。あと数秒という僅かな猶予が過ぎれば、死ぬというのに。


 振り下ろされる刃が首へと到達する、その直前。ふと、僕は思った。


 ──僕は、こんなことの為に……?











「……う。違う……違う、違う違う違う」


 首めがけて振り下ろされた剣を、その刃を握り締めて。腹の底から、心の奥底から込み上げてくるものに任せて、僕は叫ぶ。


「僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!」


 バキンッ──叫んで、握り締めていたその剣を、そのまま握り砕く。砕けた剣の破片が、僕の血と共に胸に降り注ぐ。


 荒ぶり昂る感情のままに叫んだ僕を見下ろしていたライザーが、瞬間。浮かべていたその無表情から、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みに一変させた。

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