遭遇

 とりあえず、スライムの体当たりによってダウンしてしまった先輩に、僕は初歩的な回復魔法をかけた。


「……えっと、大丈夫ですか?先輩」


 意識を取り戻した先輩に、僕は尋ねる。しかし先輩は何も答えてくれず、むすっとした不機嫌そうな仏頂面を浮かべるだけだ。


 ………正直に白状してしまうと、この結果を全く予想していなかった訳ではない。……しかし、まさか本当にスライムの一撃で先輩が倒されてしまうとは。


「…………」


 先輩は、件のスライムをまるで親の仇かのように睨んでいる。しかし、スライムは依然呑気にもその場でプルプル震えているだけで、どこかに逃げる素振りすら見せない。


 ……この様子だと、恐らくもう先輩は格下の相手だと思われていることだろう。


 ──……参った、なあ。


 内心頭を抱えながらも、回収した先輩の得物を僕は改めて確認する。十字架ロザリオを模した両刃の剣で、手に持つと羽毛のように軽かった。


 その剣を一通り眺めて、僕は一言呟く。


「【鑑定】」


 瞬間、視界を通して、僕の頭の中に情報が流れ込んでくる。これはその名の通り、己が知りたい対象を鑑定し、その情報を出す魔法だ。


 使用者の実力や技量によって、その調べたい対象の情報を得ることができる。……だがしかし、その全てを得られるという訳ではない。


 対象が魔物モンスターや人間等の生物だった場合、その実力の開きで情報に制限があったり。または物体だった場合はそれがあまりにも特異だとすると、同じように制限されてしまい、有益な情報は得られない。


 元は希少な魔石だった武器。けれど自慢する訳ではないが、僕もある程度の実力はあると自負している。例え情報に制限を加えられたりしても、最低限の情報は得られるだろう────そう楽観的に思っていた、矢先のことだった。











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 ──────頭が、痛い。凄く痛い。まるで顳顬こめかみをギリギリと凄まじい力で締めつけられているような、頭を手で掴みそのまま粉砕しようとしているような、とにかく形容し難い激烈な頭痛が僕を襲った。


 そして同時に被さってくる、猛烈な悪寒と不快感。それらによって併発される凄まじい吐き気。


 雑音ノイズが意識を侵す。思考を乱す。知性を穢す。視界が明転と暗転を幾度も繰り返し、無慈悲に、無遠慮に僕の正気を摩耗させ、削り抉り奪い取っていく。


「ぅぐっ……おぁッ?!」


 これ以上はいけないと。これ以上は踏み込めないと。そう察知したのだろう僕の本能が、辛くも先輩の得物を宙に放り投げていた。


 宙を舞い、そのまま重力に引かれて深々と地面に突き刺さる先輩の得物。しかし、僕にその方向に顔を向ける程の余裕はなかった。


 息絶え絶えに、滅茶苦茶だった呼吸を落ち着かせる。先輩の得物からすぐに視界から外し、【鑑定】を解いたおかげか、先程までの頭痛や身体の不調がまるで嘘だったかのように消え失せていた。


 ──な、何なんだ。何だったんだ、さっきのは……!?


 言い知れない恐怖と焦燥の感情が、遅れて僕の心に滲み出す。


「ク、クラハ?どうしたんだよ、お前?」


「……え、あ……は、はい。僕は大丈夫、ですよ。先輩」


「全然大丈夫そうに見えねえよ、顔真っ青じゃねえか。俺の剣持ったかと思ったら、すぐにぶん投げて……」


「いえ本当に大丈夫ですから。……心配させてすみません」


 そう言う僕に、先輩はそれでも心配そうな眼差しを向ける。その瞳に何処か躊躇いの色を宿して、しかし瞬かせて先輩はそれを消した。


「……わかった。お前がそう言うんなら、俺もそれでいい」


 それから僕が投げてしまったそれを、先輩は拾い上げる。……その見たこそ神聖な雰囲気を漂わせる剣なのだが、僕には酷く歪で、禍々しく恐ろしい何かにしか見えなかった。


 柄を握り、先輩が数回振るう。刃が空を斬る、鋭い音が周囲に小さく響く。


 そして、先輩は────今までずっと不自然なくらいにその場に留まり続け、プルプルしていたスライムの方へと、再度身体を向けた。


「………認め、ねえから」


 得物の切先を突きつけ、微かに肩を震わせ、先輩はスライムに言う。


「絶対に認めねえからな!?スライムなんかに負けたなんて、俺はぜっっったいに認めねえからぁ!!」


 ……それは先輩の、心からの叫びだった。そう言うや否や、先程と同じように地面を蹴って、スライムに向かって突進する先輩。


 そんな先輩の気迫に押されたのか、僅かにスライムが退く。だが逃げ出すことはなく、スライムもまた同じように先輩へと向かっていく。


「うぉぉぉおりゃぁぁぁぁあああッッ!!」


 咆哮と共に、先輩が得物を振り上げ、向かってくるスライムに狙いを定め振り下ろす────今度は、すっぽ抜けることはなかった。


 太陽に照らされ、白々とした輝きを放ち刃が、スライムに向かって真っ直ぐ振り下ろされ、そして遂に──────




 ポヨンッ────捉える寸前、スライムは跳ねてその刃を躱した。




「……へ?」


 こちらの一撃を見事に躱された先輩はその体勢を大きくを崩してしまう。そして発生したその隙を透かさず突いて、スライムが先輩の懐に飛び込む。


「ちょ、まっ……!」


 体勢を大きく崩していた為、先輩はそれを躱すことも防御することも全くできず。その結果再び無防備に晒してしまっていた腹部に、スライムの体当たりが直撃し、先輩はまた大きく吹っ飛ばされてしまった。


 再び地面に倒れてしまった先輩────今度も、起き上がる様子はなかった。











「絶対に倒してやるぅ!!」


「えっ!?」


 僕の回復魔法を受け、先輩は復活すると開口一番そう叫んで、僕の制止も聞かずにスライムへと立ち向かった。そしてまた攻撃を躱され体当たりされ、吹っ飛び地面に倒れる。


 そんな行為を、先輩は幾度も繰り返した。倒されては僕に回復されて復活して戦って、そして倒される。


 そんな先輩を、僕は何度も止めようとした


「先輩待ってください落ち着いてください!僕に考えがあるんです!それを聞いてください!」


「うるせぇ!倒す!俺一人で倒す!後輩のお前の手なんか借りられるかあ!!」


「ちょ、先輩……せんぱぁぁいッ!」


 それは先輩としての誇りか、それとも意地か。或いはその両方なのか。僕の話に全く聞く耳を持たず、スライムにまた突進する先輩。そしてまた負ける先輩。


 何度倒されようと、先輩は諦めず(僕の回復魔法を受けて)立ち上がった。


 しかし現実は厳しく、辛辣で、そして非情で何処までも残酷だった。先輩の攻撃を躱しては反撃していたスライムであったが、もはや完全に格下だとその本能が判断してしまったのだろう。


「こ、のぉッ!」


 と、叫びながら。ムキになって剣を振り回す先輩。しかし、その刃がスライムを捉えることはなく。ひたすらに躱されてしまう。


 そしてその度に先輩は隙だらけとなり、さっきまではスライムも律儀に体当たりしていたのだが……今ではもう、それすらしなくなってしまった。


「動き回んじゃ、ねえッ!!」


 とにかく剣を振るう先輩。躱し続けるスライム。恐らく何かしらの介入がなければ、一生崩れるのことない均衡状態────僕は、それをただ涙を堪えて見守るしかなかった。


 ──先輩……!


 悲しかった。もはや最弱の魔物であるスライムにすら、先輩は相手になってもらえない事実を目の当たりにして、僕はただひたすらに悲しかった。


 そうして、十数分が経った頃────遂に、先輩が剣の切先を地面に突き刺し、そのまま座り込んでしまった。


「ぜぇ……はぁ……ちく、しょ……」


 結局スライムに一太刀も浴びせられないまま、先に先輩の体力が尽きてしまったのだ。地面に座り込み、顔を俯かせ肩を上下させる先輩。……まだ、目の前に倒すべき敵がいるというのに。


 だがしかし、当のスライムはその場から動けないでいる先輩に対して、先程のように体当たりを仕掛けてくる素振りは一切見せず。プルプルと数秒震えていたかと思えば────森が広がる後方に跳ねて、そのまま滑るように去っていった。


「…………え?」


 獲物の体力が底を突き、反撃される心配もない絶好の機会チャンスだったというのに。スライムはそれを突くことなく、この場を後にした。


 そんな、想像だにしないというか、弱肉強食が当たり前であり、それが常識であるはずの厳しい自然界においてほぼあり得ない光景を目の当たりにし、間の抜けた声を漏らした僕は、遅れて理解する。


 ──ああ、そうか。あのスライム、もう先輩を獲物とすら認識しなかったんだ……。


 貴重な体力をこれ以上消耗してまで狩る相手ではないと、そう判断されたのだろう。気づいてはいけないことに気づいてしまい、遂に僕が堪えていた涙を流す────直前。




「……何、逃げてんだあんの糞スライムゥゥゥゥゥウウウッッッ!!!」




 自分の目の前からスライムに逃走(そう言っていいのかは微妙なところではあるが)され、目を丸くさせ愕然とした表情を浮かべ、一瞬の間呆然としていた先輩が、突如何かが爆発したかのように叫んだ。


 腹の底から、喉の奥から、全てを絞り出し吐き出す勢いで、そう思い切り叫んで。地面に突き刺していた剣の柄を固く握り締め、そして引き抜き。地面から立ち上がりそのまま憤怒に身を任せて、スライムが消えた森林の方に先輩が駆け出す。


 本来ならば、すぐさま止めるべきだった。今の先輩を単独で行動させるなど、以ての外であり、論外であった。


 しかし、当の僕はその様に呆気に取られてしまって。その場に硬直し、固まっていることしかできないでいた。数秒遅れて、まるで停止していた時間が動き出すように、僕もまたハッと叫んでいた。


「先輩ッ!?」


 そうして慌ててその場から駆け出し、逃げたスライムを追った先輩を、僕は追うのであった。





















「待てゴラァァァァアッ!」


 怒りとは、時に凄まじい爆発力を生み出す────その通り、先程は身動き一つすら取れなくなっていたラグナは、こちらを散々体当たりで吹っ飛ばしたり攻撃を悉く躱したり、挙げ句の果てには勝ち逃げ(少なくともラグナにはそう思えた)したスライムを追って、腹の底を焦がす憤怒に任せ叫び、木漏れ日差す森の中を駆けていた。


「どこ行きやがったスライムゥゥゥッ!」


 もはや我を忘れている様子のラグナ。今、ラグナの頭の中にはスライムのことしかなく、スライムにしか眼中にない状態である。


 と、その時。逃げ出した後すぐに追ったことが功を成したのだろうか、ラグナの視界の先にあのスライムが映ったのだ。その姿を捉えた瞬間、ラグナは叫んでいた。


「見つけたぁッ!!」


 剣を振り上げたまま、ラグナはスライムの元にまで駆け、その距離を詰めようとする。しかし、当然スライムがラグナの接近に気づけない訳がなく、ビクッと一瞬跳ねた後、そのまま逃げる──────瞬間。






 バキバキバキッッッ──突如、スライムの側にあった数本の木が乱暴に薙ぎ倒され、吹き飛ばされた。






「んな……ッ!?」


 身に余る過剰な怒りによって突き動かされ、冷静さを欠いていたラグナを止めたのは、あまりにも衝撃的なその光景と────その


 木の影から飛び出したは、勢いそのままに眼下にいたスライムを轢き潰して。その場に止まり、四つん這いの体勢から二足で立ち上がる。ただでさえ巨体であったというのに、仁王立ちしたその姿は山を彷彿とさせた。


「ヴボォオオオオオオオオオ゛ッ!!」


 咆哮が轟き。草を、葉を、木々を、そして森全体を激しく揺さぶる。隠れ潜んでいた野鳥たちが堪らず一斉に飛び去っていく。


「ひっ、ぁ……っ」


 ラグナの身体をその咆哮は遠慮なく叩いた。肌をビリビリと痺れさせ、腹の底を容赦なく揺らした。


「ガアアアアア!アアアアア゛ッッッ!!!」


 思わずか細い悲鳴を漏らしてしまうラグナを他所に、は次に、その場で凄まじい勢いで暴れ出す。依然咆哮を迸らせながら、ラグナの胴よりも二回りは太い巨腕を滅茶苦茶に振り回し、その度に周囲の木々をまるで棒切れのように折り砕いては吹っ飛ばす。


 その光景を、ラグナはただ眺めていることしかできないでいた。


 ──こいつ、は……。


 今や遠い記憶の断片から、奇跡的にラグナは思い出す。今、自分の目の前にいるが────熊のような魔物モンスターが一体、何なのかを。


 山のような巨体と巨腕。そしてそれぞれの四肢の先にある、鉄ですら容易く引き裂けそうな鋭過ぎる鉤爪。その全身を包む焦茶色の毛皮は見るからに硬そうで、生半可な攻撃は全て通じないだろうと如実に思わせる。そしてそのどれもが────真っ赤な血で斑模様に染まっていた。


 そして今、瞳孔が完全に開き切り、血走ったその双眸が、硬直しているラグナの姿を目敏く捉える。


「……っ!?」


 そのあまりにも凶暴で危険極まりない視線に囚われた瞬間、ラグナの頭の奥の片隅で。ガンガンと何かが喧しく鳴り響き始めた。だがそれが一体何なのか、ラグナは知らない────否、


 ──動か、ねえと。


 そう思うだけで、今は精一杯だった。こうしている間にもずっと頭の中で鳴り響き続けている、覚えのないソレにどうしようもない煩わしさを感じながら。とにかくラグナは踵を返し、この場から駆け出そうとした。


 だが、足が自分の思った通りに動いてくれない。勝手に震えてしまって、少しずつしか動かない。


 ──な、何で……ッ!!


 胸が苦しい。先程から心臓が必要以上に鼓動を早めて、無意識に何度も荒い呼吸を繰り返す。その癖、全くと言っていい程に肺へ空気が行き届かない。


 それでも、ラグナは動こうとした。こちらの言うことを聞かない足を、無理矢理にでも動かそうと力を込めた。


 すると──────カクン、と。ラグナの膝が崩れて、そのまま地面に尻餅をついてしまった。続けてラグナの手から剣が離れ、地面に落としてしまう。


「あ……っ?」


 もう、自分の行動が理解できなかった。どうしてこうなっているのか、自分はどうしてそうしているのか、全くわからないでいた。


 すぐさま慌てて立ち上がろうにも、両足に力が入らない。さっきは込められたというのに、力んだ側から力が抜けていく。咄嗟に側に転がっている剣を拾おうにも、手の震えが止まらず、これでは拾うどころかまともに柄を握ることすらできない。


 ──何だってんだよ……!何やってんだよ、俺ッ!?


 まるで自分が自分でなくなっているような感覚に、ラグナはただひたすら困惑し、そして混乱する他なかった。


 そんなラグナの一連の行動を見ていた熊の魔物が、不意にその大口を開いた。


「ゴアアアアァァァァアアアッ!」


 人間の柔い皮膚など、触れただけで破り裂けそうなまでに鋭く尖った牙が並んだ大口から、先程のと勝るとも劣らない咆哮が迸る。そして一瞬の間すら置かず巨腕を振り上げ、熊の魔物はその場から駆け出す。


 ラグナが気がついた時には、血で赤く染められた鉤爪が頭上に迫っていて。その鉤爪が一秒もしないでこちらの身体を脳天から縦に引き裂くのだと、真っ白になってしまった頭の中で他人事のようにふと思った────────その瞬間。






 ガッギィィイイインンンッッッ──その鉤爪を、突如間を割って入った剣が受け止めた。

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