九
「皆、御苦労だったな!」
敗走の報告を受けたのか、国境付近で太守バルバトス・ノヴァーが兵を率いて待機していた。
軍馬に跨り、銀色の甲冑で身を固め、名剣ネセルティーを手にしたその勇壮な姿と、素晴らしい声に必死に逃げ延びて来たダンカン達は鼓舞される思いだった。
バルバトス隊が殿軍を務め、一行はヴァンピーア城へと帰還した。しかし城へは入りきれず、オークの追撃と反撃無しと判断した諸将の考えで、兵は後方のリゴ村と更に後ろのアビオンへ分散された。
最前線ヴァンピーアへ留まることとなったダンカンは、その日は久々に湯に浸かり、身体の汚れを落とし、新鮮な肉と野菜を喰らって充分に寝たのであった。
二
カンダタは決して名剣ではないが、大枚を叩いて買ったダンカン自慢の片手剣だった。
その刃は赤黒い血錆で汚れ、刃はすっかりなまくらに成り果てていた。
ダンカンは城壁の上で腰を下ろし、バケツに組んだ水で濡らした布で刀身を拭き、砥石で刃を磨いていた。その隣には副官のイージスがいる。イージスもまた戦で汚れて鈍くなった剣を愛でる様にして砥石を走らせている。
「思えば運に見放された戦いでしたな」
「そうだな。最初の雨さえなければ、あるいは」
ダンカンは嘆息した。
「敵にシャーマンでもいたのやもしれませんな」
「シャーマン?」
「ええ。天候を操れるほどの力を持つ者のことですよ。巫女や祈祷師と言った方が分かりやすいでしょうかな」
「そんなもの当てにはならんだろう」
「確かにそうですな。勝負は時の運と言われますしな」
と、言ったところでイージスが立ち上がって敬礼した。
見上げれば、太守バルバトス・ノヴァーの息子グシオンが立っていた。
「おお、グシオン様」
ダンカンは慌てて立ち上がり敬礼した。
「このようなところに如何なる御用事ですかな?」
ダンカンが問うと若者は端正で物静かな顔を向けたまま言った。
「エルへ島へ行く」
「エルへ島?」
王都生まれのダンカンには知らない場所だった。
「南の港町エイカーの先にある島ですな」
イージスが言った。
グシオンが頷く。
「何故その様な場所に?」
ダンカンが尋ねると若者は応じた。
「俺は恋をした」
「は?」
ダンカンはしばし頭の中で今の言葉を反芻しそして驚いた。
「恋ですか? あの恋愛の?」
「そうだ。彼女は俺よりも年嵩だが、美しい。あれほど身も心も美しい人物を見たのは初めてだ」
ダンカンは聞き役に徹した。物静かだった若者が雄弁に語っているのだ。それに恋だ。正直、幼い頃から知っている自分の子供の様だった青年が恋をしたというのだから、興味が無いわけでも無かった。
「彼女は人間と、かつて魔物と言われ対峙していた者達との絆を深めようと尽力している。俺は彼女に恋をし、その姿勢に心打たれた」
ダンカンは頷いた。グシオンは語った。
「俺は彼女の支えになりたい。このような若輩者だがそう思うのだ」
「そうでしたか。御立派な御相手のようですな」
「ああ」
グシオンは頷いた。
「ダンカン」
「はっ」
「父の事、頼むぞ。それを言いに来たのだ」
「お任せ下され。この命に代えましても」
ダンカンが再び敬礼すると若者は頷き去って行った。
「あのグシオン様が恋とは驚きましたな。意外と情熱的なところがおありだったのですね」
グシオンがいなくなるとイージスがそう言った。
「グシオン様とて一人の男子だ。恋だってするさ」
ダンカンは嬉しく思いながら言った。やがてグシオンに子供が出来ればそれは自分にとっても孫の様な存在になるだろうか。
「隊長の恋の方はいかがなされましたかな?」
イージスがからかうように言った。
「俺には恋をするなと神が決めたのだろう」
「生涯童貞を貫き通されるということですか?」
「う!? わ、悪いか? 神がお望みならばそうするしかあるまい。お前には愛する妻がいて子供だっているが、俺にはいない。そういう運命だったのだ!」
気付けば見張りの兵士達の注目を受けていた。
ダンカン分隊長は童貞らしい。そんな噂が広まってしまうかもしれない。
「隊長、隊長にだってまだまだ機会はありますよ。お前達もだぞ! ダンカン分隊長が童貞だという噂が流れたとしよう。剣に誓ってお前達のそっ首は俺が刎ねてくれるからな!」
イージスが声を鋭くして言うと、こちらを見ていた兵卒達が姿勢を正した。
「は、はいっ! 決して言いふらしません!」
「何をだ!? え!?」
「分隊長殿が童貞であるということであります!」
「声が大きい!」
イージスがわざとらしくそう言った。
「も、申し訳ございません!」
兵達は慌てて委縮した。
「まぁ、分かったなら持ち場へ戻れ。くれぐれも口外せぬようにな」
「は、はっ!」
兵達は去って行った。ここが持ち場だった兵も場の気配を読んだのか去って行った。
ダンカンは身体中が恥ずかしさで熱くなっていた。
「イージス」
「ハハハッ、まぁ、そうお怒りなさるな」
ダンカン隊随一の剛剣の使い手がカラカラと笑いを上げてそう言ったのでダンカンは溜息を吐くだけだった。イージスには借りばかりがある。彼の剣にはいつも助けられた。思い返せば今回もだ。
「おや、お早い」
イージスが城壁から下を見下ろして言ったので、ダンカンもつられてそちらを見た。
外套を纏った旅姿の者が一人、城門から出てきたところだった。
グシオン坊ちゃん……。
ダンカンは手を振りたいのをこらえた。
すると、グシオンがこちらを見上げ、担いでいた戦斧を掲げて見せた。
ダンカンは感激して声を上げた。
「グシオン様、旅の御無事をお祈りいたしております! 敬礼!」
そして恋の成就の方も。
若者がヴァンピーアを去って行く。
負傷兵を庇い、たった一人でオーク達を蹴散らしていた姿を思い出す。勇猛な上に慈悲深い人物に育った。
それが心から嬉しかった。
その背が彼方に消えるまでダンカンは見届けたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます