夢見る世界
UMI(うみ)
第1話 プロローグ
ほうほうと鳴く梟の声。さわさわと夜風に揺れる葉擦れの音。その音に交じるようにずるずると引きずるような音が暗い森の中に響く。ぴしゃりと水音が鳴った。血が滴った音だった。
若い女が一人、幼子を抱えて走っていた。いや、走っていたというのは誇張だろう。女は足に傷を負っており、歩くよりもその足取りは遅い。多量の出血により身体の感覚はもはやなかった。目も霞んできている。女の命が尽きるのはもはや時間の問題だろう。追っ手は直ぐそこまで迫っている。だが女はまだ死ぬわけにはいかなかった。この腕の中にはまだ生まれて間もない眠る幼子がいた。自分の死はこの我が子の死を意味する。
(誰か……誰か!)
女は救いを求めて祈った。いや、呪ったのかもしれない。不条理な自分の運命に。女は全てに縋り、全てに祈り、全てを呪った。
(神でも、悪魔でもいい、誰か……!)
文字通り幼子を救うためなら悪魔に自分の魂でも何でも売ってやる。世界中の人間の命と引き換えにしてもいいと思った。神がこの世界にいるのかはわからない。だが、悪魔なら。
悪魔なら存在するのだ。
その、瞬間だった。
星の光も見えない暗闇に沈んでいた森の風景が一変した。まばゆい光に女は包まれた。黒い森の姿は跡形もなくなっていた。アイリスガラスのように七色に輝く世界がそこには広がっていた。一瞬、唖然とし視線を彷徨わせる。その度に周りのまばゆく光は色を変えた。煌めく光しか見えない世界で声が響いた。
「人間の女か?俺と取引しないか」
いつの間にいたのか、目の前に黒髪の若い男がいた。両腕は銀の鎖で繋がれており、両腕を広げて膝を付いている。俯いているので表情はわからないが薄っすらと笑っているようだった。
「俺と取引しないか」
男はもう一度言った。女はようやく状況が見えてきた。
「あ、悪魔……?」
「ああ、人間で言うところの悪魔だ」
男はそう言った。
「ここは、夢見る世界なの……?」
この世界では、『世界』は眠っており夢を見ていると言われている。そしてその夢の世界には森羅万象を司る悪魔が存在していると伝えられていた。
「人間はそう言うな。いい話だと思うが。俺と契約すればその子の命は助かる。俺はここから出られる。利害は一致していると思うが」
女はがくんと膝を付いた。もはや立っていることが出来なかったのだ。迷っている暇はない。もはや選択肢などあるはずもなかった。女は抱いた子供を掲げて言った。
「この子を助けて!死なせないで!私の命でもなんでもくれてやるから」
だが男、悪魔からは無情な一言が発せられた。
「お前の命なんぞ、興味はない」
「……そんな」
己の命しか今の女には悪魔に支払う対価はなかった。
「俺の望みはその子供の全て。その子を死なせないのが望みなのだろう?決して死なせないと約束してやろう。俺の命が尽きるまで守ってやろう」
どうだ、と悪魔は持ちかけてくる。女の視力は急速失われつつあった。もはや我が子の姿すら朧気だ。意識が遠のいていくのを感じた。死ぬのだと思った。自分が死ぬのは構わない。恐れなどない。この子すら助かるのなら。
だから女は答えた。悪魔の言葉の意味を解する前に。
「いいわ。この子を守ってくれるのなら……決して死なせないと約束して」
悪魔は俯いていた顔を上げた。女にはもう表情はわからない。
「契約成立だ」
その時の悪魔の表情を女は永遠に知ることはなかった。
女はついにこと切れたのだった。
幼子が女の腕から零れ落ち、地に落ちる瞬間、悪魔は己を縛っていた鎖を易々と引きちぎり、子を捕えた。しばらくその何も知らずに眠り続ける顔を覗き込んでいたがふいに口を開いた。
「少し小さすぎるな」
そして血に塗れた女の死骸に目をやった。
「お前の母の身体を使うことにしよう」
そういえばと今更のように悪魔は言った。
「名前を訊きそびれたな」
まあ、いいかと続ける。
「お前、女か。んじゃ、お前はファムだ。ファムファタール(運命の女)のファムだ」
満足そうに悪魔は頷いた。
「俺を退屈させるなよ。んじゃ、仕事に取り掛かるか」
悪魔はそう言って女の死骸の傍らに幼子を寝かせたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます