29.船出(1)
7月にしては珍しく涼しい夜だった。
夜も深まり、だいぶ満月が昇ってきた時間帯。川崎の工場地帯は静まり返っていた。
背の高い煙突の上から、まあるい月が煌々と照らす。
建物の周りに張り巡らされているパイプの影が、曲がりくねった幾何学的な模様を描く。
道路をはさんで、その工場の向かい側がNT研究所の敷地だ。
鉄製の大きなゲートを中心にして、左右にコンクリートの高い壁が続いている。
ゲートの下には、真っ黒のパーカーを着た加賀瑞樹が両手をポケットに入れながら立っていた。
身長に比べて少し大きめのサイズのせいか、マントを羽織っているかのようなシルエットが月明りに浮かび上がる。
フードを深く被り、表情は見えない。
その隣では、山下拓が黒のジャケットを右肩に掛け、夜空に白く輝く月を眺めていた。
薄い紫のシャツと、暗い紫のネクタイの配色が月光に映える。
「加賀、今ならまだ帰れるぞ」
山下拓が天を仰ぎながら、「下手したら、死ぬぜ」と、ぼそっと言った。
加賀瑞樹は、しばらく黙っていた。
なぜ、自分がここにいるのか。わざわざ命の危険を冒してまで、敵の本拠地に潜入する必要があるのか。
自分でも理由を上手く説明できない。
ただ、テレビに映っていた姉さんの姿が、ずっと目に焼きついているのだ。考えないようにしようと思っても、頭から離れないのだ。
―――姉さんに会いたい。
その気持ちだけは嘘偽りない、と思った。
「僕は、姉さんに会って、確かめたいんです」
加賀瑞樹は、ぽつりと言った。
「あのテレビで言っていたことは、何かの間違いなんじゃないかって」
「加賀菜月、か」
「姉さんは、こんなことするような人じゃないんです。少なくても僕が知っている姉さんは、優しくて、暖かくて、人を傷つけるようなことは絶対にしない……。だから、僕は、本当のことを確かめたいんです。もちろん、姉さんに直接会えないかもしれませんけど。でも、行かなきゃ、絶対に会えない」
「そうか。なら、止めねーわ」
山下拓は加賀瑞樹を見つめると、微笑んだ。
それに――。
加賀瑞樹は、昨日の中沢美亜が涙を流していた光景を思い出しながら、心の中で付け加えた。
―――生まれて初めてなんだ。誰かから、僕の力を必要とされたのは。
ちょうどその時、うなるような低い音が鳴り始めた。
目の前の鉄製の門扉がゆっくりと動き出し、開く。
ゲートが開いた先には、真っ赤なオープンカーを背にして、黒のロングドレスをまとい、美しく髪を盛った中沢美亜が優雅に佇んでいた。
「乗りな」
そう言って中沢美亜がきびすを返すと、長いスカートのすそがふわっと浮いた。
運転席に乗り込む姿は、映画のシーンのように絵になった。
山下拓は肩に掛けていたジャケットの袖を通すと、オープンカーの助手席に飛び乗った。
「あれ? 僕はどこに乗れば?」
嫌な予感がする。
加賀瑞樹が何度まばたきをしてみても、オープンカーは2人乗りだった。いくら自分が小柄だとはいえ、身体を収めるスペースはなさそうだ。
「すまん、小僧。私の車は2人乗りだ。ウォーミングアップがてら走ってついてこい」
中沢美亜は落ち着いた声で答え、エンジンをかけた。
すぐさま、赤いオープンカーは颯爽と走り出した。
「美亜さんって、やっぱり鬼教官……」
加賀瑞樹は愚痴をこぼしながらも、全力で追いかけた。
数百メートル、走っただろうか。
中沢美亜と山下拓がオープンカーから降り、道路脇のコンクリートの階段を上がっていた。
加賀瑞樹も階段を駆け上がり、2人に追いつく。
その瞬間、目の前が開けた。
川? いや、海だった。
正確には、工場地帯の中を網のように張り巡らされた運河である。
両岸はコンクリートの階段状の堤防で固められており、波の音はしない。
微かに塩の香りを感じるだけだ。
NT研究所は埋立地の中にあり、敷地の端は運河に面していたのだ。
「あれに乗る。NT研究所の誇る最新型の高速艇だ」
中沢美亜が指さした先には、船が停泊していた。
全長は50メートル近くありそうだ。
加賀瑞樹は、以前、テレビで放送されていた海上保安庁の新型の巡視船に似ている、と思った。
中沢美亜の後に続いて、山下拓と加賀瑞樹が乗船した。
船内に入ると、ロビーに数人の男たちがいた。
全員が黒いスーツに身を包んでおり、異様な圧迫感がある。
事前に中沢美亜から、闇夜に紛れて行動できるように黒っぽい服装を指定されたため、全員が迷わずスーツにしたとのことだった。
白いソファーに深く座って足を組んでいる男が、特に目立っていた。
燃えるような赤い髪。両耳には銀色のピアス。下側だけ縁のある眼鏡。そして、見覚えのある、髪色と同じ真っ赤なネクタイ。
「赤西さん!」
加賀瑞樹は思わず声を上げた。
「よお、久しぶりだな」
不敵な笑みとともに白い歯を見せたのは、赤西竜也だった。
以前戦った時は、最終的に山下拓が勝ったとはいえ、最後の一撃以外は赤西竜也の方が優勢だった。
戦力としては、山下拓と互角、あるいは、それ以上かもしれない。
味方としては、これほど心強い人物はいない、と加賀瑞樹は思った。
すると山下拓が、2、3秒、難しそうな顔をした後、「誰だっけ?」と尋ねた。
赤髪の男がソファーから立ち上がり、怒りで眉をひそめながら山下拓に詰め寄ると、「ああ!? 今、加賀が言っただろ!」と大声を出した。
「冗談さ。本気にするな」
勝ち誇った顔の山下拓が、赤西竜也の背中を2回叩いた。
☆
ほどなくして、加賀瑞樹たちを乗せたNT研究所の高速艇は出航した。
窓の外で、無数の灯りがきらめく。
これが単なるクルージングだったら、東京湾の夜景を心行くまで堪能できたのにな、と加賀瑞樹は残念に思う一方で、景色を楽しんでいる場合ではないと、自ら心を奮い立たせた。
「見ろよ、加賀。あれ、すげーな」
隣にいた山下拓が、闇夜に浮かび上がるベイブリッジを眺めながら興奮気味に言った。
後ろからは、赤西竜也たちの「かんぱーい」という声と、グラスが触れ合う音が聞こえてきた。
「なんて緊張感のない人たちなんだ……」
加賀瑞樹は周りを見回して、ため息をついた。
「まぁ、北海道に上陸するまで、まだ20時間以上もあるんだ。オレたちも一杯やろうぜ」
山下拓が親指を後方に向けて合図をした。
ロビー中央のテーブルの上には、フードとドリンクが用意されていた。
加賀瑞樹がオレンジジュースのグラスを手に取った時、ポンっと左肩を軽く叩かれた。
振り向くと、スキンヘッドの屈強な肉体の大男が見下ろしていたので、思わず、ぎょっとした。
何か悪いことでもしただろうか。
「坊主、こないだは悪かったな」
スキンヘッドの大男が見た目によらず優しく言った。
坊主はお前だ、と心の中でツッコミを入れつつ、加賀瑞樹が必死に脳内データベースを検索した。
3秒後、1件ヒットした。
そうだ、思い出した。
以前、赤西竜也に襲われた時に、自分が逃げ出さないように取り押さえていたスキンヘッドの大男だ。
結局は、山下拓に一撃で倒されたわけだが。
「もう済んだことですし、気にしてませんよ」
加賀瑞樹は大人な対応を返し、微笑んだ。
その後の研究所での事件の方が衝撃的過ぎて、今となっては、本当に気にしてなかった。
「それなら、よかった。俺は鴨野田。よろしく」
そう言ったスキンヘッドの鴨野田は、ゴツゴツした大きな右手を差し出した。
「僕は加賀です。こちらこそ、よろしくお願いします」
加賀瑞樹は白く細い手で握手をした。
指の太さの違いが際立った。
「坊主の活躍に期待してるよ」
鴨野田が、ちらっと赤西竜也の方に目をやった。
そして、声のボリュームを若干落として言った。
「あと、赤西さんのことも許してやってくれないか。赤西さんは、ああ見えて、けっこう部下を大切にしてくれる上司なんだよ。仕事熱心過ぎて、少しやり過ぎちまうところはあるんだけどね」
「それは、もう大丈夫です」
加賀瑞樹はバーベキューの時のことを思い出しながら、赤西竜也は後輩から慕われるタイプなんだろうな、と想像した。
「あと、室長なんだけど」
鴨野田が中沢美亜の方を見る。
「極東軍の事件以来、人が変わったみたいなんだ」
「美亜さんが、ですか?」
加賀瑞樹も黒いドレス姿の彼女に視線を移す。
「おう。昔は研究と美容にしか興味がなくて、それ以外のことは、いつも『面倒くさい』って言ってたのに。最近は愚痴ひとつこぼさないで、研究以外の室長の仕事も一生懸命やってるんだ。それに、肉体のトレーニングも始めたって噂だし」
「そうなんですか」
加賀瑞樹にとっては昔の中沢美亜の方が意外だった。
「やっぱり、目の前で所長が殺されたのが、相当ショックだったんじゃないかなぁ」
難しそうな顔をした鴨野田の頭が光った。
NT研究所の所長だった忌野正義。
あの時、極東軍の犠牲になってしまった。
もし、もっと早く自分がアビリティに目覚めていたら。彼の命を救うことができたのだろうか。
加賀瑞樹は、ふと、自分が初めてアビリティを使った時の情景を思い出していた。
☆
ロビーの中央のテーブルに用意されていたドリンクと食べ物が少なくなってきた頃、召集がかかり、全員がロビーに集められた。
みんなの中央に立った中沢美亜が大声で言った。
「今から、今後の作戦の詳細について伝える!」
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