Chapter.4
12
マクシミリアンがルーカスと友人だと言ったことは真実だったようだ。ルーカスとともにミュータス城に帰城すると、マクシミリアンはいつの間にか連絡したらしいキニアスから伝わった事情を側近から聞いたらしく、彼らサラバイラ人を城に迎えに出るべく表へ姿を現していた。挨拶した兄たちは何事か話すことに熱中しているようだったが、ようやく立ち通しの妹に気付いて言った。
「彼に泊まってもらうことにした」
「父様に許可を取らなくていいの?」
「いつものことだから大丈夫だ」と兄は言う。アンは彼らに型通りの挨拶をし、公邸へ戻った。でも兄たちがアンが消えたことを認識しているのかどうかは疑わしい。ずいぶん話し込んでいたようだったから。
食事をし、シャワーを浴びた。洗い流す水の粒に叩かれ、目は自然と閉じられた。見つけなければ、という思いが、排水溝に吸い込まれる水のごとく、ぐるぐると渦を巻く。耳飾りを。見つけなければ、流されてしまう。自分を取り巻くものに逆らってきたアン・マジュレーンは、本当は身を委ねてしまえるような大きな流れに憧れのような安らぎを覚えている。強い自己意識と自由への渇望が、自分をむしろ縫い止めている自覚はある。昔から。あれほど優しいのに、強い力で自分を連れ去ろうとする瞳を、手を、私はずっと望んでいたのかもしれない……。
でも、だめよ。アンは声もなく呟いた。唇に水滴が当たる。だめ。また傷付いたらどうするの。隣国の王子だというところは、もしかしたらと希望を抱かせるに十分な身分だけれど。
もし、彼の思いの理由が『クイールカントの王女だから』というものなら。シャワーでは暖めきれない凍った恐れが、身体の芯に根ざしている。そうなったら、傷はもう塞がらない。二度と恋はできないだろう。
アンはシャワーを止め、髪を絞って身体を拭いた。自室に戻ってきて着替えをし、寝る支度をしてから、今日の分の仕事をしようとパソコンの前に向かう。コラムの仕事の一方で、クイールカントでの出来事はすべて日記帳のように記録していた。今日は色々あったから、きちんと書き留めておかねばならない。でも、彼の言葉を思い出してまた心を揺らさねばならないのかと暗澹とした気持ちで椅子を引いたとき、見覚えのないカードが置いてあることに気付いた。
折り畳まれた白いカード。私が置いたんだっけ? それとも誰かからの伝言? 何気なく開いて、その軋むような汚い文字を見たとき、アンは目を見開いて椅子を鳴らして立ち上がった。
『銀星の耳飾りを探すのを止めろ。この警告に従わない場合、無事ではいられないと思え。早々にユースアに帰国しろ』
部屋を見回す。しんと静まり返り、カーテンが動くさわさわという音に背筋が粟立った。アンは注意深く部屋に気を配りながら、扉を開けて走り出した。
兄の公邸に行くと、警備が驚いた顔でアンを引き止めた。
「兄に会わせて。お願い!」
その剣幕に押されたのか、いつもより短い時間で中に通された。しかし、導かれたのは兄の部屋ではなく客室だ。髪を乱し、肩で息をするアンを驚いた顔で見下ろしたのは、マクシミリアンではなくルーカスだった。
「夜にご婦人におとなわれるのは嬉しいけれど、その顔色だと何かあったね」
部屋に招き入れられると、ルーカスの側近であるキニアス、兄の側近のネイダー、そして兄であるマクシミリアンもおり、特に兄は目を丸くした。そして椅子にかかっていたローブを差し出した。
「そんな姿で走ってきたのか? ともかくローブを羽織りなさい」
アンは自分の姿を見下ろして赤面した。寝間着のまま、部屋が怖くて走ってきてしまったのだ。警備たちもさぞ驚いたことだろう。ありがたく、重い緑色のローブで前を隠す。ネイダーが椅子をすすめてくれ、アンはそこに腰を下ろすと、キニアスが給仕してくれたお茶を受け取った。
「それで、何かあったのか?」
アンは黙ってカードを差し出した。さっと目を通した兄の顔が険しくなる。カードはルーカスへ、ネイダー、キニアスへと渡っていく。
「警察へ提出しておこう。指紋を残すような真似はしていないと思うが」
「明らかな脅迫だね。どこにあった?」
「私の部屋の、パソコンの上よ」
「部屋に鍵は?」
「掃除をしてもらうから、かけていなかったわ」
ルーカスはマクシミリアンと顔を見合わせた。
「カードを置けるのは、侍女、侍従といった城内関係者。もしくは城にいておかしくない者。つまり城内に入れる者、つながりを持てる者ということだな。明日から警護をつけるぞ、アン。今日は車で付け狙われたんだって?」
アンは睨んだ。動きづらくなるから、言わないですませようと思ったのに。
「アンは気に入らないみたいだよ、マックス。僕がつこう。キニアスもいるし、彼女を一人にはしない。アン、兄上の警護がたくさんつくのと、僕とキニアスがいるの、どちらがいい?」
面白がる目でルーカスが聞き、怒りが解消されていないアンは、ぶすっと彼を睨んだ。「決まりだ」とルーカスはこれ以上ない笑顔で言った。
「じゃあ、明日は城下を案内してもらおうかな」
「じっとしているのが最善じゃない?」
暗に誰が一緒に出掛けるものかという意思表示だったのだが、彼は意に介さない。
「おびき出すんだ。君に結婚されて困るなら、僕と一緒にいるところは気が気じゃないだろう、きっとね」
「おびき出すのはいいけど、危険な目に遭うためにデートするわけ?」
一応納得はしたが、一緒に出掛けるというところが引っかかる。不審の目で彼を見ると、ルーカスは嫌味なくらいにっこりした。
「スリルがあるね」
アンが呆れる隣で、マクシミリアンが噴き出した。
ちょうど紅茶を飲みきった。温かいお茶で恐怖心が少しだけ溶け、安堵したアンが就寝を告げると、ルーカスが立ち上がる。「送っていこう」と言い出した。今日の色々があってアンが警戒すると、無邪気な顔で行こうと促す。兄がそれは当然という顔で「おやすみ」と言い、ネイダーは頭を下げ、キニアスはついてこようとせずに微笑んで見送った。どこよりも安全な、警備と監視の目が働く城内で、アンは彼に送られるしかないようだ。
雨が降った二日間とはちがい、今日の夜空には雲がなく、雨に洗われて、澄んだ月と星が光っていた。肌寒いのは、アンの服装のせいだろう。するすると、ローブが地面を擦る。そんな服装をして、夜の庭園を歩いている自分は、まるでロマンス小説の王女のようだ、と皮肉に思った。望んでもいないのに、そうである自分がおかしかった。いつだって、そう思えば世界のすべては物語の舞台足り得るし、自分たちは主人公になれる。生きている限り、この世は物語に満ちている。風が吹く始まりを描けば物語だし、花が芽吹くことすらお伽話だ。
「僕が何を考えているか分かる?」
私たちがこうして、静かに相手の息や声に耳を澄ましながら近付けずにいることは、どんな結末を迎えるお話の一部分なのだろう、とアンは考えた。林檎の香りがする。選ばれた恋の。受け止めさえすれば、自分はきっと幸せになれるのに。アンは口を開く。
「いいえ」
「君にキスがしたい」
相手の足が止まり、アンが振り向くと、ルーカスはじっとこちらを見て、なんということはないという顔で微笑んでいるだけだ。アンにとって、唇を許すということがどれほどの意味を持っていると考えているのだろう。
「月が昇ってる……ミシアの投げた光のひとつが」
ルーカスは教典を読み上げるように言った。ミシア女神は真実を尊ぶ……と続きそうな声だ。
「だから君は僕に真実を口にしてもいいはずだよ。僕を愛してくれないの?」
アンは口を開く。
「愛されるようなことを、私にしたの?」
言ってから、後悔した。ちがう、そんなことを言いたいんじゃない。額を押さえ、俯いた。苦悩に目眩がする。彼を傷付けたいわけじゃない。
「ちがう……ちがうのよ、悪いのは私。あなたが私を好きでいてくれるとは感じているし、応えたら愛されるのは分かってる。でも、王女であることが、私に信じるという心を奪ったわ」
アンは腕を組んだ。まるで自分を抱きしめるように。
「僕が信じられないということか」
ルーカスが深く嘆息し、アンは背中を向けて腕を握りしめる。そうしなければ、泣き出してしまいそうだ。こんなにも心が揺れるのに、踏み出せない自分は、まだ十六歳の傷の上で泣いているらしい。素直になれないという現実を突きつけられて、密かに唇を噛んだ。一言言えばいい、時間をくれ、と。癒してほしいと。それでも足がすくむのは、彼の言葉が真実なのかこだわっているからだ。
そう、きっと、証が欲しいのだろう。間違いないと認められるくらい、神が示すくらい、まっすぐとした証が。
だから彼の言葉に答える言葉は見つけられなかった。
「君に何があったんだ?」
「少女時代にありがちなこと……」そうとしか言えなかった。「……いつまでもこだわっているのが馬鹿みたいなことよ」そうとしか例えようがなかった。アンは歩き始めた。冷えてきた身体に気付いたからだ。
「もうここでいいわ。おやすみなさい」
「アン」
大股で歩み寄ってくる気配がして、アンが組んだ腕を解いて振り向こうとすると、影が差した。凍り付いたアンは思った。キスされる。
竦んだアンに、けれど、ルーカスは柔らかな笑い声を降らせた。
「ここでキスすれば……」彼はそっと囁く。「きっと君は応えてくれるだろうけれど、止めておくよ。僕は君の、そのままの心が欲しいから」
代わりに額へキスされる。それも、触れたか分からないくらいの。苦しめ、という宣告に近かった。唇が合わせられさえすれば、もう迷わずにすんだのに。ルーカスは、しっかりとアンの瞳を縫い止めると、まるでけしかけるような、吠え立てるようなしたたかな声で言う。
「でも、少しでも隙を見せれば連れていく。いつまでも僕が、君の心がとけるのを待てるほどの紳士でいるとは思わないことだね。だからもう行きなさい。これ以上君を見ていると、部屋に連れ帰りたくなるから」
アンは一歩後ろへ引く。彼は動かない。目だけが追いかけてくる。何よりもものを語る瞳が、怯えた王女に、おやすみ、と囁いた。アンは、オオカミから逃げる子猫のように走り去った。
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