10

 出掛ける少し前になって、雨が降り始めた。ティタスの山にぶつかった雨雲は、雪解けの、冷たい水の気配を伴って、くるりと反転するように、ミューダの街に冬と春のにおいが混じった澄んだ雨を降り注ぐ。やがてそれは霧のように細かくなり、アンが出掛ける頃には、時折晴れ間を覗かせる薄曇りの空を頭上に描き出した。大地に、たくさんの水たまりを残して。


 すっかり冷えた空気に、ブラウスにクロップドパンツという、どこにでもいるような人の服装で出掛けたアンは、やっぱりジャケットを持ってくるんだったと後悔することになった。ネイダーから鍵をもらい、私用として、兄の所有している普通乗用車を借り受け、がんがん暖房をかけたために、窓の曇りを拭き取る作業に追われることになってしまった。少しだけ窓を開けて、ユースアの街とは比べ物にならない、排気ガスが混じっていても澄んだ空気を頭の辺りで感じながら、最初はゆっくりと城の周辺を回ってみることにする。


 広大な庭と宮殿を抱くミュータス城。その周りは、通勤の車で少し混んでいる。割り込んできた車に鳴らすクラクションの数が、ずいぶん少ない、と思って微笑んだ。この街でこうなら、もっと北の方の街では、道路が混雑することも滅多にないのだ。


 そうして街に出たアンは、まず新聞を買い求めた。ありったけを。そしてそれを路上駐車した車の中で、適当な記事を見繕って読んだ。耳飾り遺失の事件は、すでにネット上の新聞記事検索で読んでしまっているため、現在の捜査状況には特に目新しいことはないことが分かった。

 クイールカントの情勢に疎くなっている自分には気付いていたので、国内の事件をいくつか拾い読みしてみる。どうやら、クイールカントとサラバイラには、国際連合加盟の話が持ち上がっているようだ。遅すぎたくらいだが、ミシア神教という少し異質な宗教を国教としている両国は、きっと政治的中立を保ちたかったはずだろう、とも考えられるので、これが善いのか悪いのかは一概には言えなさそうだ。情勢的に加盟した方がよさそうだけれど、クイールカントがそこで現在の位置を保ち続けられるというところは微妙だ。ユースア合衆国やイグレンシア女王国といった大国から介入を受ける可能性が高いだろう。


 サラバイラの記事もあった。王家の領地から金鉱脈を発見したという公式発表は、三ヶ月ほど前のことらしい。王家所有の領地における発見で、これを福祉等に使うと発表したようだ。


 そういう硬い記事もあれば、嘘か真か分からないようなゴシップ紙もあった。アンも昔から名前だけ知っている、ミシアを信じる人々が名前を聞けば絶対に顔をしかめるような紙面だ。アンとルーカスの結婚について賭けをしている話題まである。倍率が発表されていて、思わずがっくりと椅子の背にもたれてしまった。結婚する、に票が集まっているのはどういうことだ。


 新聞は帰ってから読もう。そう決めて、車を発進させる。

 帰国とはいえ、ちょっとした小旅行でもあるので、過ぎ去る景色を見るのは楽しかった。春先だから、観光客は多い。ニノの聖堂の証である、月の紋章が見え、そういえばキャサリンがいるのだから、叔父に話を聞くのもありだ、と思い当たる。耳飾りを管理していた、サンの聖堂の主教リカード公爵。彼なら、帰国した姪にこころよく会ってくれるだろう。早速、城に戻ったら約束を取り付けなければ。

 信号待ちをしていると、ふと、コック帽を被った女性が、表へ看板を出しているのが目にとまった。深緑色のひさしに書かれた文字は、そこがパン屋であることを示している。衝動が込み上げた。バターのたっぷり効いたクロワッサンもいいが、もう少し親しみのある、言ってしまえば庶民的な、買い食いができるパンが食べたい。

 アンは車を止め、パン屋に入って、いくつか軽食になりそうなパンを購入した。レジで会計をしていると、子どもたちが飛び込んできた。下町の子のようだ。

「今日はこれにしよう」

「十五個、だっけ。ミアと、シラーと、カイルと……」

 そう言って選んだパンを持って並んでいる。アンが出るとき、店員がちょっとだけ不思議そうな顔をして会計をしていた。「あなたたち、お金持ちね」と、不審さと好奇心の混じった声で聞いている。ドアベルの音に混じって、「お金持ちのおじさんが寄付してくれたんだよ!」「俺たちだけにね!」と子どもたちの高い声が、はしゃいだ音を奏でていた。

 そのまま、ぶらぶら歩いてみることにした。袋から取り出したパンにかぶりつきながら、大きな紙袋を片手にショーウィンドウを覗く。書店で、しかも古書を扱う店だ。店内にいた店主らしき男性が、こちらを見て目を丸くし、にっこりして手を振ってくれた。

 パンを食べきってしまうと、目は文具店に止まった。中をうかがってみると、古書も扱っている店らしい。アンの直感みたいなものが疼いた。ここは、絶対、素敵な文房具を扱っているに違いない。

 買ったものは車に置いて、車を近くまで移動させるべく乗り込んだ。ほんの百メートルほど動かし、駐車する。そして、はやる心で文具店のドアを開けた。

 ドアベルは、古いのだろうという低い呼び声を奏でる。棚をひとつひとつ見ていった。これで日記を書けば中世に戻ってしまいそうな、革表紙のノート。原稿用紙は、ビニールに包まれていても埃の感触がし、少しだけ黄ばんでいる。ペンはガラスもあれば万年筆もある。カラーインクの瓶にアンは震えた。なんて綺麗なルビーレッド! こんなことをしている場合ではないとは思ったが、少しだけ、と自分に言い訳をしてお土産に買ってしまうことにする。

 店を出たときは笑顔だった。美しい真紅のインクは、店主が綺麗に梱包してくれ、おまけに表紙の華やかなメモ帳までつけてくれたのだ。車中のバックミラーに映る顔はにこにこしている。


 しかし、アンはミラーに映るものに、違和感を抱いた。少し離れたところに駐車している黒い車。あの車は、アンがパン屋の前に駐車したときも離れたところにいなかっただろうか。位置を確認すると、さきほどよりも前へ移動している気がする。アンが動いた百メートル分ほど。

 嫌な感じを覚えて、アンは車を発進させた。少し走って左折し、またしばらく左折し、もう一度左折してパン屋の前の道に戻ってくると。


「嘘でしょ」


 やっぱりついてきている。ぞっとした。パパラッチか、それとも何か別の? 先頭になった状態で信号に引っかかり、アンは考えた。これは、城に戻るべき? それとも振り切ってしまえる?

 しばらく考えた。信号が変わる。アンは、アクセルを思いっきり踏み込んだ。振り切るべく一気に走り出したのだ。すると、黒い車は同じ速度で追いかけてきた。緩急をつけて追いかけられると、自分が追い立てられている気がして気が焦る。相手は、獲物をどこかの檻に閉じ込めるつもりだ。

 恐怖のあまりブレーキを踏む反応が遅くなる。これ以上は危険だと分かっているのに、止まったら何が起こるか分からない気がして、冷や汗が伝った。アクセルを踏み込みすぎている。気付いているのに、身体が動かない。

 信号がうまいこと変わってくれず、相手はぶつかるのではという勢いで追い上げてきては、他の誰も入り込めないほどの隙間を作ったり、また追ってきたりと、アンを焦らせる。かろうじて左右確認は行っているものの、これ以上は事故を起こす。


 でも、どうやったら止まれるの!?


 その瞬間、横から進んできた車に悲鳴を上げた。咄嗟にブレーキを踏み込んで、がくんとアンは前後にのめった。アンの車は、相手にぶつかることなく、寸でのところで止まっていた。

 ミラーを確認すると、黒い車両はどこかへ消え失せていた。アンは、げっそりとハンドルにもたれかかった。

 窓が叩かれる。ぎくっとしてそちらを見ると、目を丸くして驚いたし、相手も驚いていた。


「ミス・マジュレーン」

「キニアスさん……」


 では、目の前で道を遮っているあの車は。またげっそりと項垂れる。キニアスの冷静な言葉は、アンの心境には少し上滑りしていた。


「ルーカス殿下にお話してまいりますので、車を路肩に寄せていただけますか。交通の邪魔になってしまいますので」

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