9
人混みの中にいる。ユースアの、誰も相手を見ていない人混みではない。アンの目に映るのは、古いクイールカントの街並で、歩む人々はアンがこれまでどこかで会ったような人々ばかりだ。今通り過ぎた男は副編集長のジミーのようだったし、ゆっくりと歩く老婦人はリンドグレーン夫人によく似ていた。しかし、どこか違う、と何かが警鐘を鳴らしている。よく目を凝らしていると、ざわめきの中に、頭の中で飛び込んでくる別の声たちがあるからだ。
アンが戸惑っていると、目の前に誰かが立った。アンより年下の、少年だった。そう思ったのに、アンがびくりと相手の正体に気付いて身体をすくませると、アン自身も彼と同じ年頃に戻ってしまった。十六歳。傷付きやすい、若木の頃へ。
「アン」
『アン』
「愛してるよ」
『君が王女だから』
心の声が聞こえる。ミシアの尊ぶ真実の声は、アンの頭に、いつかと同じように恋人だった彼の本音を響かせた。
「僕と結婚してくれるよね?」
『そうすれば――』
やめて。やめて、何も手に入るものなんてない。あなたが望むものは、私が持っているけれど私のものじゃない。私は、そんな言葉は望まない。そんな真実はいらない。では私は何を望むのか。
――真実の愛を!
がくんと揺さぶられるようにして目が覚めた。夢の中で叫んだからだろう。目覚めはいつもより鈍く、寝苦しい生温い空気が、夢から洩れたように部屋中に漂っていた。
こういうとき、広すぎる部屋は嫌いだ。一人きりを意識させる。空気が冷たく感じられる。アンが捨て去ったものが、この場所にはあちこち、傷付いた十六のときのまま残っている。疲れた息を吐いて、枕に顔を押し付けた。二十四にもなって、十六の傷を後生大事に抱いている自分が馬鹿のようだったけれど、その傷が今のアンを育てたのは間違いないのだ。でも、うまく癒すことができず、固執ばかりさせているのも確かだった。私はいつまで、十六の娘でいるつもりなのだろう。
こういう時は勢いよく起き上がるに限る。ベッドから出て、顔を洗い、着替えをして、化粧をした。それでも朝食まで時間があったので、庭に出てみることにした。
城のすべての人々が休まる時刻はない。いつも誰かしら備えている。アンが庭に出たことも、警備の知るところだろう。
イグレンシア風の、毎日の手入れによって同じ形に維持されている庭園は、アンの公邸の庭。兄の公邸は東洋の要素を取り入れて、まるで小さな森のようになっている。父の庭は、すでに庭ではなく森がそのままひとつ。母は花ばかりのガーデン。アンの庭は、今は足下ではヒヤシンスの青とピンクの花が盛りで、頭上では林檎の木が花で香りの道を作っていた。
林檎の花言葉は「選ばれた恋」だという。なんとはなしに思い出して、その符丁が奇妙に現状に当てはまっている気がして、自嘲の笑みが浮かんだ。
アンだって、耳飾りを見つけられるとは思っていない。でも、何かして、どうにもならないと知って自分を納得させないと、爆発しそうだったのだ。流されるままの人生に意味があるだろうか。与えられた役目だけを生きる人生は喜びだろうか。ちがう。そう思ったからアンはユースアへ渡ったのだ。すべての人から批難される覚悟で……。
さあ、朝食を食べよう。そして街へ繰り出して、人々の噂を聞いてみるのだ。アンの周りの人々の目に何の疑問に現れないのなら、別の人々の話を聞いてみるべきだろう。林檎の花の爽やかな香りを胸に満たして、アンは踵を返した。兄に車の借用を伝えておかなければならない。
警備と侍従を通して、アンは兄の公邸に招き入れられた。車を借りたいと言うと、心配そうにされてしまう。
「乗れるのか? 運転手をつけよう」
「お忘れでしょうけれど、私は一応免許取得者なの。運転手はいらないわ。一人で行きたいの」
「だったら、なるべく事故を起こさないでくれ」
「私が出掛けると事件が起こる、みたいに言うのは止めてくれない? 何の騒ぎも起こってないじゃない」
「今は、な」兄はきっと睨んだアンをいなして、電話を持ち上げた。暗に出て行きなさいと言われ、肩を怒らせて部屋を出る。その後ろで「ネイダーに車を選ぶよう言っておくから」と声がかかった。
ネイダーが扉を閉め、アンを見送りに行くと、マクシミリアンは電話をかけた。コール音は短く、すぐに相手が出た。
「やあ。今どこだ?」
『国境近くだよ』
「朗報だ。アンが出掛ける」
相手がにやりとも苦笑いともつかない顔をする気配があった。『大丈夫なの?』と、次の声が相手の、楽しいけれど複雑な心中、を表しているだろう。マクシミリアンは、庭を突っ切っていくアンを窓から眺めて言う。
「私はこれから父と話を詰める。そちらはどうだ?」
『まだ少々渋っているようだけれど、了承は得た。……君は悪い人だね、マックス』
「それは君にも言えることだ。私は妹を、君は両親を騙しているのだから」
アンが追いかけてきたネイダーに何か言って、彼を置いて一人で公邸に戻っていく。一人で行動する、というところが、妹らしい。マクシミリアンには決してできないことだ。彼女はきっと、本当に供をつけずに街へ出掛けるのだろう。
「耳飾りは見つからなくていい」とマクシミリアンは笑いながら呟いた。
「必要なのは、二国が生き残ること。私たちが君主になったときに、世界に国の名が残っていることだ」
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