第169話

「ねぇ永瀬、ちょっといい?」


 練習終わり、そう声をかけられた修は、凪の後ろに付いていったステージ脇へ移動した。


「どうしたんですか?」


 修は凪の背中に向かって尋ねたが、凪からはなかなか返事が返ってこない。


「……? 凪先輩?」


 不思議に思ってもう一度呼びかけると、凪は修に背を向けたまま、一度だけこほんと咳払いをした。

 そして肩越しに振り返り、しかし修に目線を合わせない状態で凪はぼそりと呟いた。


「……、……と……るの?」

「え?」


 壁やカーテンである程度隔てられているとはいえ、すぐ隣のコートでは部員たちが自主練習をしている。

 ドリブル音やボールがリングに当たる音で、凪の声がほとんど聞こえず修は首を傾げた。


 すると凪は鼻です~っと深く息を吸い込んだあと、くるりとこちらに体を反転させて


「……っ、だから! 栄城祭誰かと回る予定あるのって訊いてるの!」


 と、今度ははっきりと聴こえる声で、しかもかなり勢いに任せたように言うものだから、修の体がビクッと跳ねる。


「あ、ご、ごめんなさい……。大きな声、出しちゃって……」

「い、いえ、大丈夫です……!」


 しょげた様子の凪に手を振ってフォローし、修は今凪に言われたことについて改めて思考する。


 ――栄城祭誰かと回る予定あるの


 言っている意味はすぐにわかった。

 何せ今日自分も平田に同じことを尋ねた。

 それに、修は凪が自分に対して抱いている感情を知っている。

 となれば以外にないだろう。


「も、もし空いてるなら……その、良かったら一緒に回れないかなって思って…………」


 修が何かを答える前に凪は具体的な言葉を口にした。やはり修の予想は当たっていたようだ。

 照明の光がほとんど差し込まないこの場所では、凪の表情がよく見えないが、もじもじと体を揺らせて俯く彼女は、もしかすると恥じらいから頬を染めているのかもしれない。


 しかしそんな可愛らしい仕草を見せる先輩を前にして、修は非常に困ってしまった。

 修は既に優理との約束があり、当日学祭を回るメンバーが決まっている。


「え~……っと……」


 嘘はつけないので本当のことを言うしかない。

 だが口を開いても修の喉から言葉は発せられなかった。

 言ってしまえば絶対に凪は悲しい表情を見せるだろう。

 そのことを考えると次の言葉がまったく出てこなかった。


「予定、あるんだ……?」

「う……」


 修が言うまでもなく、態度で伝わってしまったようだ。

 修の反応を見て確信を持った凪は、途端にしゅんとして肩を落とした。


「すみません……」

「ううん、仕方ないわ。私ももっと早くに言っておけばよかった……。合宿とか交流大会とかで、学祭のことなんてすっかり忘れてたもの」


 自分に言い聞かせるように言ってから、凪はふふっと力なく笑った。

 それを見て修の胸がズキッと痛む。


「……誰と回るの?」

「クラスの友達と、あと何人か……」


 修は無意識に一緒に回るメンバーをぼかして伝えた。

 何故か汐莉もいるということは言ってはいけないような気がしたのだ。


「そっか……。ねぇ、永瀬。一つ訊いてもいい?」

「はい」

「もし……私が誰よりも早く学祭に誘ってたら、永瀬は私と回ること、OKしてくれた?」


 不安そうな表情でおそるおそる尋ねてくる凪に対し、修は間髪入れずに


「はい」


 と返事をした。

 あまりの速さに凪が一瞬目を見張る。

 修自身もなぜこんなに早く答えたのか、答えられたのか、自分の感情がよくわからずに困惑してしまった。

 だが凪はそれを聴いて少し満足げに微笑む。


「そう……。それならなおさら、もっと早く動けばよかったな……」


 そう呟いて儚げな表情を見せる凪に、修の胸は先程よりも強く締め付けられた。

 凪のこんな顔を、修はこれ以上見たくないと強く思った。


「あの!」


 だから気づいた時には叫んでいた。

 凪がまた驚いた表情になる。


「俺、時間作ります。ずっとはいられないですけど、必ず凪先輩と一緒にいられる時間、作ります」


 凪がハッと息を飲んだ。


「……いいの?」


 不安と期待の入り交じった瞳で、凪はじっと修を見つめてくる。


「はい。まだ詳細な予定を組んでるわけじゃないので、何時から、とか約束はできませんけど……。絶対に時間作りますから」


 もう一度宣言すると、凪はほっとため息を吐いて右手を胸に当てた。

 そして


「ありがとう……嬉しい」


 と、顔いっぱいに笑みを浮かべた。


 普段は強気でツンツンとした姿勢を崩さない凪の、そんな女の子らしい表情に、修は思わずめまいを起こしそうになった。

 この先輩はそういうギャップで度々修を撃ち抜いてくるので心臓に悪い。


 だがそんな凪の喜ぶ姿を見て、先程までしつこいくらいに胸を襲っていた痛みは消え去り、代わりにドキドキと高鳴る胸の鼓動を、修はとても心地が良いと感じたのだった。






 コートに戻ると凪はそそくさと修から離れ、シュート練習を始めた。

 未だ胸の鼓動が治まらない修は、他部員たちに気づかれないよう距離をとり、軽くボールに触って気持ちを落ち着かせながら皆の自主練習を眺めることにする。


 体育館に残っているのは涼以外の練習に出ていた五人と、練習終わり間際にやって来た星羅。

 菜々美は結局最後まで練習に来なかった。

 涼が自主練習をせずすぐに体育館を後にしたのは、きっと菜々美のところに向かったからだろう。


 いつもは当然のように皆残って練習しているので、二人いないだけでもなんだか違和感を覚えてしまう。

 しかし以前までのことを考えると、皆が残って練習しているという現在の状況はとても素晴らしい変化だった。


 ふと見ると、また汐莉が灯湖から何かを熱心に訊いていた。

 灯湖も真剣な表情で身振りを交えて教えており、その様子は本来あるべき先輩後輩の姿である。


 修が入部するまでは、先輩たちから熱心に指導してくれることはほとんどないと汐莉は嘆いていた。

 だが今は、誰が促すわけでもなく部員たちがお互いにアドバイスし合っている。


(本当に良い雰囲気になったな……。それに、宮井さんだけじゃなく、皆着実に成長してる)


 晶は後輩の涼にインサイドプレーのアドバイスを積極的にもらいに行っている。

 逆に涼は晶に教えることで、自分のプレーの練度が上がっている。

 優理や星羅も汐莉程ではないにせよ、この短期間の割には以前よりかなり上手くなった。


 このチームは強くなっていると、修は確信を持って言うことができる。

 それこそ、全国出場が非現実的ではないと思える程に。


(……とは言え、今のままではまだまだだ。足りないものが多すぎる)


 県内上位とやり合うためには技術、体力、思考力――その他諸々がもっと必要になる。

 修はコーチとしてウィンターカップ県予選までの日数を逆算し、効率的にそれらのレベルを上げられる計画を練らなければならない。……のだが。


(くそ……やっぱりあのことが気になって集中できない)


 修は俯いてため息を吐いた。

 頭を過るのはクラスメイトの山下のことだ。

 あんなあからさまないじめの現場を見てしまっては、それを忘れることなど不可能だった。


 練習中は常に指示や指導に追われていたため、そこまで気にはならなかったのが幸いではあったが。

 一度考え出すとそのことで頭がいっぱいになってしまった。

 平田が「なんとかする」と言ってくれたが、本当に平田一人に任せるのは正しい判断だったのだろうか。


(平田は俺が部活に集中できるようにって引き受けてくれたのに……。これじゃ意味ないよ……)


 凪のおかげであたたかく高鳴っていた胸も、いつの間にかもやもやした感覚に支配されていた。

 修はもう一度、今度は先程よりも大きくため息を吐いた。その時。


「永瀬くん」


 突然声をかけられて、修は体を跳ね上げ弾かれたように顔を上げた。

 そこにいたのは心配そうな表情でこちらの顔を覗き込んでいる汐莉だった。


「大丈夫?」

「う、うん。ちょっとびっくりしただけだから……。どうかした?」


 修はなんでもないように取り繕いながら答える。


「あ、えーと、プレーについて訊きたいことがあったんだけど……それはもういいや。それどころじゃなさそうだし……」

「え」


 そして汐莉はきゅっと眉を寄せて小声で尋ねてきた。


「ねぇ永瀬くん、今日何かあった?」

「え……な、なんで?」

「なんかね、少しだけなんだけど、元気ないように見えて。練習のときも、何回か難しい顔してたから」


 その言葉に修はぎくっとした。

 練習中はそんな様子を見せることはなかったと思っていたが、実際は表面に駄々漏れだったのだろうか。


「そ、そうかな……はは」


 修は誤魔化そうと笑みを作ったが、喉からは乾いた笑い声しか出てこなかった。

 そんな修に、汐莉は更に深刻な表情で唇を尖らせた。


「もし心配事があるなら、私にも相談してほしいな。永瀬くんは……その、大事なチームメイトだし、友達だし……。困ってるなら、ほっとけないよ」


 とても優しい言葉をかけられ、修は胸がじんとするのを感じた。

 それにこれはかなりデリケートな問題だ。

 いくら汐莉が信用できる人間とは言え、他人にべらべらと喋っていい内容ではないことは明らかだ。


 それに真面目で優しい汐莉のことだ。

 話を聴いてしまったらそれについて真剣に思い悩むだろうことは想像に難くない。

 今、汐莉にはバスケに集中してほしい。


 だから修は、汐莉に感謝の念を抱きながらも、このことについて相談するのは止めておこうと思った。


「ありがとう。そう言ってもらえるとすごく嬉しいよ。……でも、本当に大丈夫だから」


 できるだけ安心させられるように、修は努めて穏やかな表情できっぱりと言った。

 これ以上話すつもりはないということを修の雰囲気から察したのか、汐莉は一瞬不満そうな表情を見せたものの、観念して


「わかった」


 と頷いた。

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