第97話

(や、やっと着いた……)


 修はへとへとに疲れた体をなんとか動かして、自室のベッドに倒れ込んだ。

 重力から解放された体はそれまでと比べてかなり楽になったが、逆にこの快楽を覚えてしまうともう二度と起き上がれないのではないかという不安が襲ってきたので、上半身だけは起こすことにした。


 あれから一時間半程トレーニングに費やした。

 今日は修にとってベストな荷重の数値を測る回ということで、そこまで厳しくはなかったのだが、それでも久し振りの高負荷トレーニングは修の筋肉に悲鳴を上げさせるには充分だった。


(まだ全身がひくついてる……)


 杉浦が最後に入念にストレッチをしてくれたおかげでかなりマシにはなっているのだろうが、それでも筋肉の震えは止まらない。


 修は久々に感じる全身の疲労感を情けないと思いながらも、少しの充実感も同時に感じていた。

 前に進んでいる。そういった実感が修の気持ちを昂らせた。


 また今回はかなり優しかったが、圭吾が言ったように杉浦がスパルタだというのは本当だろう。

 時折修が弱音を吐こうとすると「まだ大丈夫だろう!?」「あと3㎝くらい上がる! 上げてみせろ!」などと言って諦めることを許さなかった。


(多分、今後もっと厳しくなっていくんだろうな)


 そう思った修は憂鬱になった……のではなく、嬉しくなった。

 杉浦に付いていけば最短距離で復帰までの道を駆け登ることができそうだ。


 そんなことを考えながら修がニヤニヤしていると、ポケットのスマートフォンが振動し始めた。

 スマホを取り出し画面を見ると汐莉からの着信であった。


 修は驚いた。メッセージが送られてくることはたまにあるが、電話がかかってくるのは珍しい。

 何か急ぎの用事だろうか。修は咳払いをしてから電話に出た。


「もしもし」

『あ、もしもし永瀬くん? 宮井です。ごめんね突然電話して』

「いや、大丈夫。どうかした?」

『実は今から自主練しようと思っててね。それで、ドリブルの練習しようと思うんだけど、何か良い方法はないかなって。ネットで調べたりも考えたんだけど、やっぱり永瀬くんに訊くのが一番良いと思って……』


 バスケのことについて、という注釈があるが、汐莉は修に対して全幅の信頼を寄せていた。

 汐莉の言葉に修はとても嬉しくなったが、実際のところはその信頼がプレッシャーだったりする。


「ドリブルか……そうだな……」


 修は汐莉の信頼に応えられるよう頭を働かせた。


「宮井さん、テニスボール持ってたりしない? お手玉とかでもいいけど……」

『テニスボール……はないかなぁ。似たような大きさのゴムボールならあるけど……』

「あ、それで大丈夫だよ。そのゴムボールとバスケットボールがあればできる練習だから」

『ゴムボールとバスケットボール? どうやってやるの?』


 電話口の汐莉は楽しそうに尋ねてきた。

 新しい練習法にわくわくしているのかもしれない。


「まずトリプルスレットのときみたいに上体を起こして膝を曲げる。そしてその場で片手でドリブルをするんだけど、それと同時に反対側の手でゴムボールを投げてキャッチを繰り返すんだ」

『? 待って待って! どういうこと?』

「右手でドリブルしながら、左手でゴムボールを下から上に軽く放り投げる。そしてそのゴムボールを左手で上からキャッチする。これを繰り返せばいいんだ」

『あーなるほど!』

「ポイントはドリブルを強くつくことと、体勢は維持したままでということ。これで違うことをしながらドリブルをする力が身に付くよ。例えば、ディフェンスの位置を見たり、味方へのパスコースを探したりね」

『それすっごく効果ありそう! さすが永瀬くん!』


 汐莉が嬉しそうな声で言った。


「まぁ、俺が考えた方法じゃないけどね……。プロ選手もやってるから効果はあるはずだよ」

『うん! ありがとう! やってみるよ!』

「うん。じゃあ頑張ってね」


 そう言って修は話を切り上げようとした。


『あ! 待って!』


 汐莉が呼び止めたので、耳から離しかけたスマホを再び戻した。


「どうしたの?」

『ちょっと気になることがあって……。永瀬くん、凪先輩と何かあった?』


 修は全身が跳ね上がりそうになるほど驚いた。

 しかし今の一言だけでは質問の真意は掴めない。


「な、何かって、どういうこと……? 別に、何もなかったけど……」


 修は若干しどろもどろになりながらもしらばっくれた。


『そうなの? なんか、お互い避けてるように見えたから、もしかしたら喧嘩でもしちゃったのかなって……』

(よく見てるな……)


 修は極力いつも通りを装っていたつもりだったし、他の部員からも怪しまれている雰囲気はなかったのでそれは成功していたとばかり思っていた。

 しかし汐莉は違和感を覚えていたようだ。

 だからといって汐莉の問を肯定するわけにもいかない。


「喧嘩なんてしてないよ! 本当に何もなかったから!」

『そう……? 永瀬くんがそう言うなら……』


 汐莉は納得し切れない様子だったがなんとか引き下がってくれるようだ。

 安心した修はそこでふと思った。自分も汐莉に訊きたいことがある。

 汐莉からの質問があった今ならこちらからも尋ねやすい。


『ごめんね、変なこと訊いて。それじゃあ……』

「ま、待って! 俺も宮井さんに訊きたいことがある!」

『……? なぁに?』

「え、えと……」


 呼び止めておいてから、修はなんと訊けばいいのかわからず口ごもってしまう。

 花火大会で寺島と一緒にいたかとストレートに訊いていいものだろうか。


 修は少し考えたあと、当たり障りのない訊き方でいこうと決めた。


「あ、あの、花火大会、伊藤さんの誘いを先約があるからって断ったって聴いたんだけど……、その、誰と行ってたの……?」


 修は自分で思っていた以上に恐る恐る訊いてしまった。

 これではその相手が気になって仕方がないという風に聴こえてしまっただろうか。


 しかし汐莉はすぐに返事をせずに黙っている。

 汐莉も何か考えているのだろうか。

 もしそうなら何を考えているのだろうか。


 修は緊張の面持ちで電話先の沈黙に耳を澄ました。

 すると少し間があったあと、すぅっと息を吸う音が聴こえ


『うーん……内緒』


 と汐莉が言った。


「な、内緒?」

『うん、内緒。訊きたいことはそれだけかな?』

「あ、うん……」

『そっか。じゃあもう練習行くね。練習方法教えてくれてありがと! それじゃ!』

「うん……」


 通話は切れ、結局詳細はわからず終いだった。

 しかしあの時汐莉と寺島が一緒にいたことは確実だ。

 修は自分の目ではっきりと確認している。


 それを隠したということは、修に知られることを嫌ったということだ。

 もしかすると「修に」ではなく、単純にあまり他の人には知られたくないのかもしれない。


 しかしどちらにせよ「汐莉と寺島が付き合っているかもしれない」という疑惑はより一層深まることになった。


(いや、そもそもなんでそんなことこんなに気になってるんだ……? 今まで他人の色恋沙汰に興味なんてなかったのに……)


 修は自身の異変を感じとり困惑した。

 しかしその理由を修が理解するには経験値が足りなかった。

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