第53話

 目覚まし代わりに使っているスマホから、穏やかなアラーム音と不快感を掻き立てるバイブレーションを感じて永瀬修は目を開いた。


 ゆっくり手を伸ばしてスマホをとり、アラームを止める。

 すると一通のメッセージが届いていることに気づいた。

 受信日時はつい先程、送り主は凪だ。


『お父さんにあんたのこと話しておいたわ。

 水曜の放課後なら優先的に予約がとれるみたいだけど、どうする?』


 修が整形外科を探しているという話をきちんと医師である父親に相談してくれたようだ。

 明日なら修としても都合がいい。早速返事を返すことにした。


『ありがとうございます!

 ではそれでよろしくお願いします!』


 最後にバスケットボールの絵文字を付けて送信完了。

 修は体を起こして呻き声を上げながら伸びをした。


 昨日の出来事があって修は凪との距離が大分縮まったように感じていた。

 部の問題に関することにはあまり進展はなかったが、部内の人間関係が親密になるのは良いことだ。


(さぁ、今日も頑張ろう)


 修は布団から出て身支度を始めた。






 今日はあいにくの雨だった。小降りなので傘を差しておけば足元もそこまで濡れないレベルではあるが、通学路はどんより暗い空気が漂っている。


 七月に入ったとはいえまだ梅雨は明けていない。

 通学路を歩く人々はまるで空模様がそのまま貼り付いたような顔で視線を落としている。


 だが今の修は違った。

 雨だろうがお構い無しに顔を上げてテンポ良く歩を進める。

 その顔には微笑さえ表れていた。


 汐莉の試合を見て以降、気弱で繊細だった心は鳴りを潜めている。

 汐莉には感謝してもしきれない。

 そんな風に思いながら学校の玄関をくぐると、下駄箱前に当人がいた。


「おはよう宮井さん」

「あ、永瀬くんおはよう!」


 汐莉はサイドテールを揺らしながら、満面の笑みで修に挨拶を返したので、修も釣られて頬が緩んだ。

 早朝からこんな笑顔でいられる人間はそういない。

 こういうところからも汐莉の『強さ』のようなものを感じる。


「膝の具合はどう? 怪我してる時って、雨の日は痛むんじゃない?」

「おかげさまで好調だよ。滑らないように気をつけてなきゃだけどね」


 修の怪我を気遣う汐莉に、修は心配無用とばかりに明るく答えた。


「そっか! それは良かった。病院の件はどうなってるの?」

「あぁ、それなら市ノ瀬先輩に相談してみたよ。明日先輩のお父さんの所に行ってみる」

「良い診断が聴けるといいね!」

「うん。でも、診断結果がどうであれ、俺がやることは変わらないよ。約束だからな」


 どんな結果でもプレイヤー復帰の為に全力を尽くす。

 汐莉との大事な大事な約束だ。


 汐莉は少し驚いたような顔をしたあと、柔らかく微笑んだ。


「そうだね……。約束……」


 そう呟いた汐莉の姿は、修の目にはとても嬉しそうに見えた。

 修は何故か気恥ずかしくなって、汐莉から視線を逸らす。

 するとその先に歩いていく凪の姿が見えた。


 修は怪我の話を早速父親に通してくれたことの感謝をするために、声をかけることにした。


「市ノ瀬先輩! おはようございます!」

「おはようございます!」


 修の声で汐莉も凪に気付き、大きな声で挨拶をした。

 眼鏡着用で髪を下ろしている、非部活モードの凪がこちらに振り向いた。


「おはよう二人とも。元気良いわね」


 そう言った凪は逆にまったく元気がないように見えた。

 表情がとても暗い。いつもはキリッとした鋭いつり目も今は瞼が三分の二程しか開いておらず、その切れ間から覗く両目は真っ赤に充血していた。


「凪先輩、寝不足ですか……?」


 汐莉が心配そうに尋ねる。


「……いいえ。さっきちょっと目を擦り過ぎたかしら。心配いらないわ」


 凪は拒絶するように答えた。

 修も心配だったが、恐らくこの事を追求しても凪は答えをはぐらかすだけだろう。


「先輩、診察の件、早速お父さんに話してくれてありがとうございます」

「別にどうってことないわ。メッセージでも送った通り、明日の四時半から五時くらいに行ってちょうだい。場所は『市ノ瀬スポーツクリニック』で調べればわかるわ」

「はい、わかりました」

「今日は予備校で部活行けないから。二人とも頑張ってね」


 それじゃ、と軽く手を振って凪が歩き去る。

 その背中に向かって二人は挨拶をして見送った。


「……凪先輩、なんだか元気なかったね」

「うん……」


 今の凪は昨晩あんなに楽しそうに話していた人と同一人物とは思えないような様子だった。

 あれから何かあったのだろうか。






「じゃ、また部活で」


 A組の教室の前で汐莉と別れ、修は教室へと入る。

 するとこちらをじっと見ている平田と目が合った。


「なんだよ」


 修は不審に思いながらも平田に近づき、挨拶もせずに尋ねた。


「修、お前宮井さんと一緒に登校してきたのか?」

「はぁ? そんなわけないだろ。下駄箱でたまたま一緒になっただけだよ」

「マジで?」

「マジで」

「はぁ~、よかったぁ……。いや、別に良くはないんだけど……」

「? 何言ってんだ?」


 深いため息を吐き安堵したかと思えば、今度は悩ましげに顎に手をやる平田を修は訝しげに見つめた。


「いや、まぁちょっと、色々あってなぁ」


 歯切れの悪い平田に更に修は困惑した。

 何やら悩んでいるようにも見えるが、こんな平田を見るのは初めてだ。


「なぁ修。実はもう宮井さんと付き合ってるとか、そういう感じ?」

「はぁ!? いや、何言ってんだよ! それこそそんなわけないだろ!?」

「落ち着け修! 声がでかいって!」


 平田の言葉にハッとして、周りを見回す。

 教室内は静寂に包まれ、クラスメイトの視線はすべて修に集まっていた。


 修が咳払いをすると、それを合図のように各々会話へと戻っていく。


「なんでそういう話になるんだよ?」

「だから色々あるんだって。マジで付き合ってないの? ほんとに? けっこう一緒にいるとこ見かけるけど……」

「ほんとだって! 部活一緒だから割りと仲良いって程度だよ!」


 そんなことで付き合っていると疑われるなんて、汐莉にとっても迷惑だろう。

 修は自分がしっかり否定しておかなければと思い、小声ながらも口調を荒げた。


 平田が見定めるかのように修を見つめてきた。

 修はこの目を逸らしたら負けだと思い、じっと睨み返す。


「……わかった、信じよう」


 平田は観念したように両手を上げて言った。

 しかし平田の態度に修の困惑は広がるばかりだ。


「信じようって……。これ一体どういう話だったんだ?」

「悪い。それはちょっと言えない」

「はぁ~? なんだよそれ?」


 修は少し怒り気味に言った。わけがわからない。


「ほんとにごめん。友達のプライバシーに関わることなんだ」


 平田は両手を合わせて頭を下げる。

 彼は義理堅い性格であるのは修もわかっていたので、ここまで頑なに口を閉ざすということは彼なりの理由があるのだろうと理解した。


「わかったよ……」


 かなり胸の中にモヤモヤが残るが仕方がない。

 修はそれ以上の追求を諦めて自分の席に着いた。

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