第52話

 市ノ瀬凪は自宅の最寄り駅へと走る電車に乗っていた。

 この時間は帰宅ラッシュから外れているため、部活で疲れた体で立っていなくて済みとても助かる。


 最近あることが凪の頭を悩ませストレスになっていた。

 そのせいか今日の部活にも集中できずに醜態を晒してしまっていたが、最後の最後で気分が晴れやかになる出来事があった。


 永瀬修。

 一週間程前、新入部員がやって来るには少し遅いこの時期に、突然マネージャーとして入部してきた一年生男子だ。


 凪は女子部に何故男子が、という疑問こそ持っていたが、基本的には修に対してあまり興味を持っていなかった。

 真面目にマネージャーとしての仕事をこなす姿には感心できるし、同じ一年生の汐莉たちに指導しているところも良く見かけるので、それなりにバスケがわかる人間である、という認識はあるという程度だった。


 しかし先程の会話で凪の修に対する印象は大きく変わった。

 自分が話すマニアックなバスケトークに普通に付いてきたことには、驚きと喜びを隠すことができなかった。


 しかも修は帰り際に駅まで送ると申し出てくれた。

 学校から駅までは明るい道しか通らないので大丈夫だと断ったが、なかなか男らしい後輩だと凪は感心した。


 凪は修との会話を思い出す。


(楽しかったな……)


 こんな風に思うのは凪にとって久し振りだった。

 自然と頬が緩んでいたことに気付き、凪は慌てて口元を固く結び、目だけで周りの様子を窺った。


 幸いにも疲れた様子でスマホをいじっている者が多数で、一人でニヤニヤしている女子学生を不審に思っている者はいないようだ。


 電車が目的の駅へと到着し、凪はいつものルートで自宅へ向かって歩いた。

 10分もかからないこの道を歩いていると、段々と憂鬱な気分が戻ってくる。


 自宅に帰れば、凪はある人物と顔を合わせなければならない。

 そのことが彼女にとって大きなストレスとなっていた。


 自宅の前にも辿り着き、玄関の扉を開けるために手を伸ばす。

 その手がためらいがちに動きを止めたが、意を決して扉を開いた。


 靴を脱ぎ、そのままリビングの方へと向かう。


「ただいま」

「凪、いつもよりも遅かったじゃない。何をしていたの?」


 リビングには凪の母親・市ノ瀬瑛子えいこが不機嫌そうな顔で立っていた。


「別に。少し練習が長引いただけよ」


 おかえりも言わずに小言を言ってくる瑛子に対し、凪は内心苛つきながらも努めてそれを表に出さずに、淡々と答えた。


「今度から20時までに帰れなさそうになったら、早めに帰らせてもらうように先生に言いなさい」


 吐き捨てるように発せられた瑛子の言葉に、凪は自分の顔がカァッと熱くなるのを感じた。


(予備校で遅くなった日は何も言わないくせに……!)


 口に出そうになるのを必死に抑え、表情を見られないよう俯く。


「凪。返事をしなさい」


 静かに、だがそれでいて鋭い口調で瑛子が咎める。

 凪はせめてもの反抗で無視してやろうとも考えたが、そちらの方が後々面倒になることがわかっていた。


「……わかった。一応話してみる」


 渋々返事をする凪に瑛子は一瞬眉をひそめたが、それ以上その話題に言及することはなかった。


「ご飯にしましょう。さぁ、突っ立ってないで座りなさい」


 凪はできるだけ心を落ち着かせようと意識しつつ、促されるまま食卓に着く。

 ほどなくして瑛子がキッチンから次々と食事を運んできた。


「いただきます……」


 凪は丁寧に手を合わせてから夜ご飯に手をつけ始めた。

 瑛子が作る食事はいつも栄養バランスが整えられた料理が並ぶ。

 それはとても素晴らしいことで凪も感謝しているが、全体的に味が薄くてあまり美味しいとは言えなかった。

 瑛子の味付けが下手なのか、凪の気持ちの問題なのかは凪自身よく分かっていないのだが。


「わかっているとは思うけど、部活を続けても良いのは学業の成績を維持出来ている間だけですからね」


 凪の食事も終わりに差し掛かっていたタイミングで、ソファに座ってテレビを見ていた瑛子が冷たい声で言った。


 その瞬間凪は心底うんざりした。

 瑛子は定期的に何度も似たようなことを言い釘を刺してくる。

 プレッシャーをかけていると言ってもいい。


「わかってる」


 凪は瑛子に聞こえる程度の小さな声で返事を返した。

 そして自分の口から発せられた声が信じられない程冷たくて、凪は自分でも驚いてしまった。


「ごちそうさま」


 食事が少し残っていたが、早く瑛子の近くから離れたくて席を立った。

 カバンを持ってリビングから出ようと扉のノブに手をかける。


「凪! まだ残ってるじゃないの!」


 瑛子が声を荒げる。

 凪はもうイライラの限界だった。


「『勉強』するの! 邪魔しないで!」


 瑛子の顔を見ずに叫び、凪は足早に自分の部屋へと向かう。

 カバンを放り投げ、勉強机に座ると腕を組んで顔を突っ伏した。

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