第12話
翌日は雨だった。
視界はどんよりと暗く、雨粒が傘を叩く音が鬱陶しい。
靴だけでなくスラックスの裾が濡れていくのに嫌悪感を抱きながら修はいつもの通学路を歩いていた。
こういう日は左膝がじんわりと痛む。雨で滑ってしまわぬよう慎重になってしまい、学校に着いたのは始業ギリギリだった。
今日は汐莉との練習もない上にこんな天気で、なんだか憂鬱な一日になりそうだと修はため息を吐いて教室に入った。
平田との朝の挨拶もそこそこに、筆記用具や教材の準備をしているとすぐにチャイムが鳴り、担任が教室にやってくる。
担任の
いつものようにアイスブレイクから始まる
しかし村瀬のある言葉で修ははっきりと現実に引き戻された。
「えー、篠原先生からのお知らせね。今日の体育は体育館でバスケらしいです! フロアが湿気で滑りやすくなってるから、みんな怪我をしないようにね」
修は愕然とした。いつかは来るだろうと思っていたが、こんな気分が暗い日に来なくてもいいだろう。
修の嫌な予感は的中した。今日は憂鬱な一日、いや、最悪の一日になりそうだ。
修は胃がキリキリ痛み出すのを感じながら唾を飲み込んだ。
「おい! 早く行こうぜ!」
「待てって! 体育館シューズ持っていかないと!」
昼休みに入るやいなや、数人の男子が騒ぎ出した。
昨日体育館で見た生徒のように、体育館に早入りして遊ぶつもりなのだろう。
そんな彼らを横目に、修は自席でぼーっと座っていた。
「あれ? 今日は例の用事はないのか?」
昼休みになってもいつものように弁当を食べ始めない修を見て、平田が不思議そうにやってきた。
「……ん、今日は休み」
「なんか最近機嫌良かったけど、今日はかなり悪いみたいだな。雨だし、怪我が痛むか?」
平田が自分の怪我について知っていることに修は一瞬驚いたが、よく考えてみれば「怪我をしている」という事実だけは話していたことを思い出した。
「まぁ、そんなとこ……。それに……」
朝からずっとお腹のあたりがじわじわと痛くなったり、気持ち悪くなったりを繰り返している。幸い嘔吐するレベルではなかったが、そのせいで修の気分はどん底だ。
「悪い平田。体調が優れなくて体育には出れそうにない。保健室に行ってくるから、先生に伝えておいてくれないか」
「マジか。わかった、りょーかい。……大丈夫か?」
平田が心配そうに修の顔を覗きこんで来る。
「多分、ちょっと休んだらよくなるよ」
修は平田に軽く微笑んで見せ、立ち上がる。
「じゃあ行ってくるよ。頼むな」
「無理すんなよ」
保健室へと歩き出した修の背中にかけられた平田の言葉はとても暖かかった。
「失礼します」
「あらいらっしゃい。どうしたの?」
保健室につくと少しふくよかで人の良さそうの見た目の養護教諭が迎えてくれた。
「少し気分が悪くて……ベッドで休ませてほしいんですが」
「大丈夫? とりあえずこっちに来て座りなさい」
養護教諭は修をベッドに案内した。修は言うとおりベッドの端に腰かける。
「一応熱も測っておきましょう」
修は体温計を受け取り脇にはさんだ。高性能なものなのか、20秒程で計測終了の電子音が鳴った。
「36.2℃です」
「熱はないわね。症状を具体的に教えてくれる?」
養護教諭は問診票を挟んだクリップボードを手に、いくつか修に質問をしてきた。クラスや名前等も含め、修もそれに答える。
「うーん、様子を見る他ないかしらね。希望通りベッドで休んでちょうだい」
「ありがとうございます」
修はとりあえず合法的に休めることになりほっとした。
すると突然保健室のドアがガラッと開いた。
「失礼します」
入ってきたのは生徒ではなく50代くらいの男性だ。修には面識のない人物である。
「川畑先生、こんにちは」
「こんにちは。おや、今日は先客がいるようですなぁ」
川畑と呼ばれたその男性は修を見つけるとニコッと朗らかに笑った。
「世界史の川畑です。邪魔して申し訳ないね」
「あっ、どうも。1-Aの永瀬です」
丁寧に自己紹介されたので、修も簡単な自己紹介で返した。
川畑はなんだか親しみやすさを感じる優しそうな人、という印象だ。
「ちょうどよかった! 川畑先生、私ちょっと用事があって席をはずさなきゃいけないんです。その間ここにいてくれませんか?」
「かまいませんよ。行ってきてください」
「ありがとうございます! 永瀬君、この人のことは気にせず休んでね」
そう言い残すと養護教諭は保健室から出ていった。修は初対面の川畑と二人きりになってしまった。
「さぁさぁ君は気にせず横になってなさい」
「あ、すみません。では……」
修は上履きを脱ぎ、ベッドに足を乗せた。
川畑の様子をちらりと見ると、彼は部屋の隅にある観葉植物の世話を始めた。
なるほど、川畑はこのために保健室にやってきたのだろう。先程の養護教諭とのやり取りを見るに、川畑がここに来るのはいつものことらしい。
体を起こしたまま川畑を見ていると、その視線に気づいた彼と目が合ってしまった。
「あぁ、これは、気が利かなくてすまない。カーテンを閉めよう」
カーテンとは窓脇に付属しているものではなく、ベッドの周りを囲っているもののことだ。
「あっ、いやそんなつもりじゃ……」
修は先生にそんなことをしてもらうのは悪いと思い、遠慮しようとしたが、川畑はすぐに修のベッドに近づき、カーテンに手をかけた。
そのときふと修の顔を見て、さらにじっと見つめてきた。
いきなりのことだったので修はどうすることもできず、ただ見つめ返した。
「なんだかつらそうだね」
「えっ?」
「体調はもちろんそうなんだろうが、それだけじゃない。何か悩みを抱えているんじゃないかい?」
「!」
修は驚いて言葉を失った。川畑の穏やかな瞳は、まるで修の心を見透かしているような力を感じる。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
「力になれるかわからないが、話すだけでも楽になれることもある。ここは人生経験豊富なおじさんに、愚痴ってみてもいいんじゃないかな?」
川畑は穏やかに笑い、低くて安心感のある優しい声で言った。
長年教師をやっていると、生徒の悩み事などすぐにわかるのだろうか。
いや、もしかしたらカマをかけただけだったのかもしれない。
それなら明らかに図星だという態度を表に出してしまった修は、まんまとはめられたことになる。
しかし修は不思議と、この優しそうな世界史教師に自分の悩みを打ち明けてもいいのではないかと感じた。そう思わせる何かが川畑には秘められていた。
(話してみるだけなら、悪いことはないだろう……)
修は意を決して口を開いた。
「……先生は、大切なものを無くしたことってありますか」
「大切なもの、か。この歳になるとね、大切なものはどんどん増えていくものさ。そしてその分たくさん無くした。片手では数え切れない程にね」
川畑は苦笑いをしながら遠い目をした。
「僕は……中学時代に、自分が一番大切だと思っていたものを無くしてしまいました。それは僕にとってとてもショックなことで、未だに引きずっています。心にも、体にも。でも最近、あることがきっかけで、その大切なものがまた手元に戻ってきてくれそうな気がしてるんです。でも、僕はそれが怖い。それに手を伸ばしたら、逆にまた遠くへ離れていってしまうんじゃないかって、思うんです」
川畑は黙ったままだ。無理もないだろう。修も自分で話していてよくわからない。漠然とした内容すぎて、事情を知らない川畑は意味不明だろう。
そう思っていたら川畑が口を開いた。
「永瀬君。君は一つ思い違いをしているよ」
「思い違い、ですか」
「そうだ。君はその大切なものを、無くした、と言っているが、無くしたものはもう2度と手に入らないんだ。でも君はまたその『大切なもの』を掴めるんじゃないかと思っているんだね。じゃあ、君は『大切なもの』を無くしてなんかいない。ちょっとどこかに置き忘れてきちゃっただけなんだ」
「置き忘れてきた……」
「君が恐れているのは、その『大切なもの』に負い目を感じているからじゃないかな。久しぶりに目の前に現れたものだから、今更自分が手にしていいものなのかわからない。でもそれって、君がその『大切なもの』に対して、本当に真剣に向き合っているからこそ感じる感情だと思うよ」
川畑はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で諭すように語った。
まるで修の話した言葉の裏までしっかり理解した上での言葉のようで、修は度肝を抜かれてしまった。
川畑はさらに続ける。
「もういいんじゃないかな。忘れていたことを謝って、反省して。手に取れば良いじゃないか。また前と同じように大切にすればいい。同じようにいかないなら、今できる精一杯で愛してやりなさい」
川畑の言葉は修の心にまっすぐに響いた。もしかしたら、修がずっと誰かにかけてほしかった言葉だったのかもしれない。
「あら! 何してるの二人とも! 永瀬君は休みに来たんですよ!」
気付けば養護教諭が戻ってきていた。
「あぁすみません、話し込んでしまいました」
川畑は立ち上がりカーテンに手をかけた。
「先生! ありがどうございました」
「こちらこそ、話してくれてありがとう。大切なものが君の元に戻ってくることを願っているよ」
そう言ってウインクし、カーテンを閉じた。
川畑の言葉で憑き物が落ちた、とまではいかない。さすがにそんなに簡単な問題ではない。しかし修は少し勇気が貰えた、と思った。
あとは自分次第だ。
最悪の一日は、ちょっとだけ最悪でなくなりそうな気がしてきた。
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