第136話 何よりも大切な存在

「あ、グラジオスどうしたの? なんか寂しそうじゃん」

 雲母は天真爛漫で、空を駆ける鳥の様に、自由に世界を飛び回っていく。

 それは俺にとって憧れで、眩しくて、でも少しでも近づきたくて……いつの間にか惚れてしまっていて、心から好きになっていて……。何よりも優先すべき存在になってしまっていた。

「暗いぞ~。そんなに暗かったらエマにも嫌われちゃうぞ~」

 何故エマなんだ、雲母じゃないのか。と言おうとして気付く。これは記憶だと。昔あった事を、再度夢で見て居るだけなのだと。

 この時の俺は確か……。

――お前は軽すぎだ。

 素直になれずに皮肉ばかり言っていた。

 なんて馬鹿なんだろう。この時から既に惹かれて居たというのに。

 もし過去に戻れるのならば、戻って雲母を抱きしめたい。抱きしめて好きだと囁きたい。

 少しでも多くの時間を二人で過ごしたかった。

「あっ、心配してあげたのに可愛くないっ」

――そんな事、お前に心配してもらいたくはない。

 嘘だ。お前に見られていると分かって、緊張していただけ。

 今の俺ならどう返すだろう。

 抱きしめて、頬に口づける……いや、そんな積極的な事は羞恥心が邪魔をしてできないだろう。

 せいぜい、ありがとう、くらいか。

「い~もんね。はい、これ持つ」

 手渡されたのは使い古されたリュートで、これで雲母の為に伴奏を弾けと言うのだろう。

 ああ、確かこの後は……。

「これで大丈夫だよね」

 記憶と違う。この後は確か、オーギュスト卿の目を盗んで町に繰り出して……。

「私が居なくなっても、グラジオスは歌い続けてくれるよね」

 そう言って雲母は寂しそうに微笑む。

 もう会えない、これでお別れだとでも言うかのように。

――居なくなっても? なんでそんな不吉な事を言うんだ。俺はずっとお前と……。

 雲母の姿が透き通る様にその存在感を失っていく。

「ごめんね。私もグラジオスと一緒に歌いたかった」

――なら居てくれ。ずっと俺の傍に居てくれ。

「ありがとう」

 雲母はもう輪郭すら不確かで、ほとんど周囲の闇に紛れて見る事は出来ない。

 ただほんの少し、その気配を感じ取れるだけ。

――いやだ。行くな。行かないでくれっ。

「大好きだよ、グラジオス」

――俺も好きだ、愛してるっ! だから……。

 俺は無心で手を伸ばし、雲母の残滓を掴んで――。

「雲母、待てっ」

 目を開けば、そこにあったのは見慣れた天井だった。

 そうだ、確か俺は雲母と愛を確かめ合って……それで……。

 意識が鮮明になるにつれ、段々とその時の事を思い出していく。

「雲母……歌の……」

 雲母の話してくれた歌の内容は、まるでこれからの雲母自身を重ね合わせるような……。

「ふざけるなっ」

 雲母が俺の為に命を投げ出したなどっ。

 ……とにかく雲母に会わなければ。

 そう思って着替えるために部屋を見回すと、どこにも鎧の類が見当たらなかった。

 雲母の言葉と先ほど見た夢が相まって、胸騒ぎが治まらない。とにかく衣裳棚から適当な服を引っ張り出すと、手早く着替えて部屋を飛び出した。

「雲母!」

 廊下にはいつも居るはずの衛兵の姿が無い。声だけが虚しく辺りに響いていた。

 俺はこの世界にたった一人取り残されてしまったような錯覚に陥り、何度も雲母の名前を叫びながら廊下を横断して雲母の私室にたどり着いた。

 逸る気持ちを抑えながら、ノックをして呼びかける。

「雲母、入るぞ」

 当然の様に返答はなく、部屋の中も空っぽだった。

 俺は八つ当たり気味に扉を閉めると更に廊下を進んで賓客用の区画を出た瞬間――。

「……居てくれたか」

 扉を守る兵士に出くわした。

 ようやく人に出会えたことに胸を撫で下ろす。

「は? いかがいたしましたでしょうか、陛下」

 俺の奇妙な言動に戸惑いを隠しきれないのか、兵士は困惑した様子であった。

「いや、すまない。今日はいったい何日だ?」

 兵士の教えてくれた日付は俺の感覚と一日ズレていた。という事は俺は丸一日ずっと寝むり続けていたというわけだ。

 ……そうだ。雲母が飲ませた変なお茶は睡眠薬に近い効果があったのかもしれない。雲母は俺を強制的に休ませるためにこんな事を?

 いや、ならば雲母があんな別れを告げるようなことをする理由がない。

 結局は情報が足りず、判断が出来かねる状況だった。

「雲母がどこにいるか知っているか?」

 部屋の出入りを見張っているのなら、外か中か程度は分かるだろうという思惑だったのだが……。

「雲母様は、敵陣へ……」

「なんだと……?」

 思いもかけぬ、いや、実に雲母らしい答えを聞いては居ても立っても居られず、思わず走り出してしまった。

 



 兵士たちにオーギュスト伯爵の居場所を聞いて回った挙句、俺はロイ・モンターギュ侯爵の執務室に駆け込んだ。

 一番始めにここに来る事を思いつかなかったのは失敗だった。

「オーギュスト卿、ロイ卿、どうなっている!」

「陛下……!」

 慌てて立ち上がり、臣下の礼を行おうとする二人を止めて説明を促す。

 その結果分かった事は、昨日雲母が敵陣に一人で乗り込んだ事と、それから一度も攻撃が無い事、偵察の報告によれば、何やら慌ただしい様子で厳重に警戒しているとの事だった。

 間違いなく雲母が何かをしたのだろう。だが、それによって得られたのは

「以上が全てになります。申し訳ありません、陛下。王妃様をお止めする事が出来ず……」

「気に病むな、オーギュスト卿。雲母はやると言ったらやる。あれは決して止められんからな」 

 結局この砦に雲母がどうなったのか知る者は居ないという事だ。ならば俺がするべきことは一つしかない。

「卿らはこのまま守備を固めて居てくれ」

 それだけ言い残して立ち上がると……。

「陛下!」

「おやめください!」

 オーギュスト伯爵が直接追いすがり、ロイ侯爵には素早く扉の前へと回りこまれてしまう。

 二人共に悲壮な表情で俺の道行を遮っている。

 言葉はないが、明確に行くなと告げていた。

「オーギュスト卿、離してくれ」

「絶対に、離しませぬ」

 オーギュスト伯爵は俺の肩に右手を置き、左手で俺の左袖をしっかり握りしめている。

 何かあった場合に即座に取り押さえられる体勢だ。

 俺は正面へと視線を向け、ハイネしんゆうとよく似た顔を睨みつける。

「退いてくれ」

「お願いします、陛下。お考え直し下さい」

 ロイ侯爵は実直な男らしく俺の前に跪くと頭を垂れて願い出る。

 曲がりなりにも侯爵という立場の人間がここまでするのだ。しかも彼はこの戦争に大切な父親さえも捧げている。願いを聞き入れるべきなのは理解していた。

御身おんみがこの国の王であらせられる自覚は御有りか?」

 分かっている、そんな事は。オーギュスト伯爵に言われなくともよくよく。

 この国全ての生命と財産を預かるその責任と意味も。

「雲母は俺の全てだ……! それでもそれを捨ててこの国に尽くさねばならないのか? 何よりも、俺の命よりも大切な雲母を取り戻すことも出来ないのか?」

「それが王でありますれば!」

 ただ権力を握って好き勝手するのが王ではない。王は為政者なのだ。

 全てを取り仕切る役目を担っているからこそ民は力を預けてくれる。統治者として振舞う事を許してくれるのだ。

 それを忘れてしまった王は、いつの世も民自身の手で排斥されてきた。

「陛下、とにかく軽率な行動は決してなさいますな。我々には陛下しか残されておりません。御旗を失ってしまえば我々は路頭に迷ってしまいます。どうか……どうか」

 ただ欲望のままに動く俺は、間違いなく愚王の誹りを免れないだろう。晩年、享楽にばかり耽っていた先王よりも。

「…………分かった」

 俺は苦渋の決断をせねばならなかった……が、全てを諦めるつもりなどない。

「特使を立てるっ」

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