罪喰い -Revenge-

あじろ けい

第1章 ニューオリンズ

1ー1 「天国」のバーテンダー

 ひどい頭痛で目が覚めた。ハリケーンが近づいているのだろう。

 気圧の関係なのか、ハリケーンがやってくる直前にはいつも頭痛に悩まされる。おかげで天気予報を確認しないですむようになった。天気予報よりアルの頭痛の方が確かだと近所の人間には重宝されている。「調子はどうだいハウアーユー?」は挨拶ではなく、文字通り「今日は頭痛の調子はどうだい」と聞いているのだった。

 体を起こすと右こめかみのあたりにきりりと鋭い痛みが走った。

 ベッドの淵に腰かけたまま、じっとしていると痛みは静かに引いていった。少なくともベッドから起き上がれたのだから、今日の頭痛はたいしたものではない。ひどい時には、マットレスに沈み込んでいくんじゃないかと危ぶまれるほど体が重くなり、目も開けられない。

 開けっ放しの窓から生ぬるい風がやる気なさげに吹き込んできた。かすかに雨のにおいがする。空の底が鉛色の雲に覆われていた。やはりハリケーンが近づいているのだ。

 ニューオリンズにとってハリケーンは、定期的に金の無心に来る、あばずれだがどこか憎めない女だったりする。招かれざる客だが、来なければ来ないでどうしたんだと気になるものだ。

 十月とはいえ、ニューオリンズの夜はいまだに蒸し暑い。昨晩も例外ではなかった。寝ている間にたっぷり汗をかいてシーツが水浸しになってしまった。

 ベタつく体をさっぱりさせようとシャワーを浴びる。いつもより熱めの湯を首筋にあて続けると、頭痛は少しはましになった。

 起きがけに夢をみた。内容までは覚えていない。夢とは脳に蓄積された記憶を整理する作業だと聞いてから、どんな夢をみたのか思い出そうとするのをやめた。仕事をしているせいで、どうせ、ろくな記憶しかないのだ。夢が捨てたものをわざわざ拾いあげる必要もない。

 タオルで髪を拭きながら、ベッドの下に落ちていた黒のシャツを拾う。昨夜というよりは今日の早朝に脱ぎ捨てたシャツは葉巻シガーの苦々しい臭いがした。仕事場のバーでついた臭いだ。酒と煙草の臭いはアルの体臭ともはや言ってもいい。

 アルは、フレンチクォーターにあるバー「天国ヘヴン」でバーテンダーをしている。フランス植民地時代の面影を色濃く残す一帯で、アイアンレースとよばれる繊細な細工の鉄柵をそなえたバルコニーのある建物が延々と続く。富豪の農場主たちがかつて町中に所有していたタウンハウスは、今は観光客相手のバーやレストランなどに姿を変えている。

 オーナーの好意で、アルはバーの二階部分に寝泊まりしている。シングルベッドをいれたらいっぱいの狭い部屋にシャワーがついているだけだが、寝るだけの部屋だから十分な広さである。トイレはバーのものを使用する。

 食事は外でとる。うまいものならいくらでもある町だから、金さえあれば食うのに困らない。好物はシュリンプのケイジャンソースだ。シュリンプは目の前のメキシコ湾で取れたものだから新鮮で身がプリっとしまって文句なしにうまい。淡泊なシュリンプの身にパンチのきいたケイジャンのスパイスがよくマッチして、毎日食っても飽きない。

 金がなくても食うのには困らない。ぎりぎりになれば、誰かが食べ物を恵んでくれる。羽振りのいい時は逆に酒でも食べ物でも誰にでもふるまう。損得はざる勘定だ。

 随一の繁華街、バーボン通りストリートから少し離れた場所にあるため、「天国ヘヴン」の客の大半は近所で働いている連中だ。左隣はあやしげな呪術道具が店先に並ぶブードゥーの店、右隣はマルティグラ用の仮装衣装や仮面を売る店で、その三軒先にはストリップ小屋があり、そこの従業員も「天国ヘヴン」の常連だ。

 毎晩、最後の客を見送ってから店を閉め、アルは二階の部屋にあがる。時間は決まっていない。店を閉める時間を決めるのは最後の客で、夜の早い時間の時もあれば、空が白みはじめてようやく客が重い腰をあげるということもある。昨夜は、バーで生演奏ライヴを披露した連中が遅くまで飲み明かしていた。

 日が暮れると店を開け、日の出を前に店を閉めるという生活を続けて、気づけば十五年近い年月が経とうとしている。ひとつの場所に十年以上は留まらないという信条で放浪し続けてきたというのに、ニューオリンズには長居をしてしまっている。

 目的地のある旅をしていたわけではなかった。通り過ぎるつもりでふらりと立ち寄っただけだったが、ゆきずりの関係を持った女に引きずられるようにして留まってしまった。

 ハリケーンのせいで足止めをくらったアルは「天国ヘヴン」で一晩女と飲み明かすはめになった。なにしろハリケーンが来ているのだから、長居するような客はいない。泊まる場所がないのだとぼやくと、女はそれなら二階の部屋を使えばいいと言い、酔った勢いもあって関係を持った。女はバーのオーナーだった。

 女はアルを気にいったらしく、バーテンダーとして自分の店で働いてはどうかと誘った。酒は飲める、食事はうまい、寝るところもある、気がむけば女と関係をもつことができる。まさに天国だなと、アルは女の誘いを受けた。

 雨宿りのつもりで立ち寄ったバーにそのまま居ついて十五年。日々は、初日のその日から変わらない。店を開けるのも閉めるのも気の向くまま、酒も食事も女も、生理的欲求に従うまでだ。女との関係は、互いに気がむけばというスタンスのままでいる。 

 どうせ近所に目覚ましのコーヒーを買いに行くだけだと、酔っぱらっているような酒臭さの残るシャツに腕を通したところで、袖が肩口から取れかけていると気付いた。サックスとドラムが始めた酔っ払いの喧嘩を止めようとしてやられたのだ。だからシャツを脱いだのだと思い出した。いつもはバーから上がってくるなり着の身着のままでベッドに倒れ込むのに今朝は起きたら裸だった。

 クローゼットを開けて替えのシャツをひっぱりだす。色はまちまち、柄ものもあれば無地もある。その時に安い物に手を出すからそうなる。共通している点といえば、どれも袖が長い。

 夏だろうと冬だろうと、アルは長袖のシャツを着る。湿気の多いニューオリンズで長袖は拷問に近かったが、肘の内側にある傷を隠すには都合がいい。

 手っ取り早く一番手前にあった麻の白いシャツをはおり、アルは申し訳程度にボタンをはめて部屋を後にした。

 外に出るなり、「調子はどうだいハウアーユー?」と声をかけられた。バーの常連客のトムじいだ。褐色の肌に白いランニングシャツが映える。白髪交じりの胸毛に汗の粒がからんで光っていた。

 トムじいは、まだ昼過ぎだというのに店の前の縁石に座り込んでだらしなく飲んだくれていた。足元にはすでに三本のビール瓶が転がり、四本目となるビールは右手にあった。

 「天国ヘヴン」は、碁盤の目のストリートの角地にある。少し傾きかけている建物全体はサーモンピンク色で、ところどころ漆喰がはげかけている。

 建物の直角のかどの部分を切り取るような形でバーへの入り口があり、トムじいは緑色のドアを塞ぐようにして座っていた。ドアだけが毒々しいまでに艶めいている理由は、オーナーが最近になって塗り替えるよう指示したからで、元は紫色だった。

「ハリケーンが来そうだ」

「“彼女”みたいなのかい?」

 “彼女”とはカトリーナ、二〇〇五年にニューオリンズを襲った未曾有のハリケーンを指す。

 バーのあるフレンチクォーターあたりは建物が冠水する程度の被害だったが、アフリカ系の住民が多いロウアーナイン・ワード(L9区)は壊滅的な被害をこうむった。カトリーナが通り過ぎたあと、町には何も残っておらず、トムじいは住む家を失った。

 復興は遅々として進まず、観光でもっているニューオリンズから観光客が消え、仕事が失われ、最後に人が去った。

 ニューオリンズを去っていく人々にむかって、トムじいは傷ついた街を見捨てて逃げるのかと憤った。だが、住む家もなく、仕事もなくてどうして生活していけるだろうか。彼らは友人や親戚を頼っていった。トムじいも、頼れる場所や人があれば、逃げ出していった口だろう。だが、トムじいもアルも独り身で、身軽といえば聞こえはいいが、ここ《ニューオリンズ》よりほかに行く場所がなかった。

 カトリーナが街を襲う以前、トムじいはジャズバンドでサックスを吹いていた。「天国ヘヴン」でも何度か生演奏を披露してくれた。バンド仲間を次々に失っていった今は、朝からひとりでビールをあおる毎日だ。バンドを再結成するにはトムじいは年を取りすぎてしまっていた。住むところもないので、近所のストリップ小屋に寝泊まりしている。

 金がなくなると、トムじいは一張羅のイエロースーツにグレーの中折れ帽をかぶって街角にたつ。昔とった杵柄で、トムじいのサックスは耳ざとい観光客の足をとめる。結構な金になるらしいのだが、すべて酒代に消える。

 ニューオリンズはハリケーンの多い土地だが、カトリーナは数十年に一度という強大な規模のハリケーンで、甚大な被害をもたらした。住む所を奪い、職を奪い、友を奪い……人生を一変させてしまったカトリーナについて、トムじいは悪い女にひっかかって身ぐるみ引きはがされたようなもんだとぼやいていた。それまでトムじいにとって「彼女」といえば、一九八五年のベッツィを指したが、今はカトリーナだ。

 カトリーナが近づいた時にアルを襲った頭痛は様子が違った。鉄条網を二重三重に巻かれているかのような激痛が何時間にもわたって続いた。目の奥がひどく痛み、眼窩に指をつっこんで眼球を取り出したい欲求に駆られた。しまいにはベッドの脇に吐き続ける有様で、異常を感じたアルは、トムじいや近所の人々に安全な場所へ行けと忠告し、自分もトムじいに抱えられる格好で避難した。

 アルの頭痛のおかげで命拾いしたトムじいは以来、ハリケーンの季節になると、開口一番、「調子はどうだい?」とたずねる。

 六月から始まるハリケーンの季節は十月の今ごろともなると終わりがみえてくる。ハリケーンの勢いもそがれつつあるのだろう。

「たいしたことはなさそうだ」

 アルがそう言うと、トムじいは白い歯をみせて笑った。

「彼女ほどの女は他にはいないね」

 性悪女ほど忘れられないものらしい。カトリーナのことを口にする時、トムじいはまるで昔の恋人を思い出すかのように高揚した口ぶりになる。

「カトリーナに」

 トムじいは曇り空にむかって高々とビール瓶を掲げてみせた。

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