フランカーちゃんと行く空の異世界

前河涼介

雷雲

 祖父イワンは言った。この世界の裏側には地面も宇宙もない永遠の空があって、そこでは飛行機たちが際限なく自由に飛び続けているのだ、と。

 ――おお、イワン、それはいいね。いい夢を見たものだ。

 そう、誰も彼の話をリアルだとは思わなかった。そして彼はいつしか人に話すのをやめ、最後には彼自身、その存在に疑いを抱きながら死んでいった。

 確かに私も小さい頃にその話を聞いたことがあったはずだ。けれど彼が語るのをやめてから、そんなことはいつの間にか忘れてしまっていたのだ。

 そう、私自ら「空の世界」を目にしたその時まで――。



 ………



 雷雲が近づいていた。

 自機と飛行場を結ぶ進路のちょうど中間あたりに流れ込もうとしている。このまま直進すれば雲の中の乱気流に突っ込むことになってしまう。

 高度800m。

 上昇して迂回するより雲底の下をくぐる方がよさそうだ。

「カティ、300まで高度を下げよう」

 ヘッドホンから無線越しのデニスの声が聞こえた。彼も私と同じことを考えていたらしい。

 左後方、二番機の位置にSu-30が一機。彼の操縦だ。後席にはカメラマンを乗せている。乗員ではなく、私が乗っている試作機、Su-35SMを綺麗に写してもらうためのお客さんだ。今はその撮影が終わって基地に戻る途中だった。

 Su-35SMは先代のSu-35S(試作機でいえばSu-35BM)と比較してハードウェア的な進歩は見かけに表れるほどではないが、ソフトウェアの更新によって兵装の柔軟性、センサーフュージョン[1]、電子戦能力は倍加している。

 500mほど降下、眼下に休耕地の雪原が流れる。

 雷雲は低い。一個の雲塊がカーテンのように地面を摺って真横から滑ってくる。

 思いのほか流れが速い。

 デニスに合図して右旋回、雲を避ける。

 ウェイポイントから外れたぞ、と航法システムのアラーム。リセットして直進。

 しかし雲は巨人の手のように追ってくる。

 進路を塞がれた。

 左右、後方にもすでに逃げ場はない。空が見えなくなっていた。デニスが私から距離を取る。約300m。接触を避けるためだ。

「少しの間だ。耐えてくれよ」私は乗機に呼びかけた。

 雷雲に突っ込む。視界が真っ暗になり、機体が激しくシェイクされる。

 雷。紫の稲光が皸のように頭上いっぱいに覆いかぶさる。

 そして下降気流エアポケット。凄まじいマイナスGがかかり体が真下に引っ張られる。

 尻が浮いた!

 HUDの速度計と高度計がぐるぐる回り、失速警報と墜落警報が同時に鳴り始める。

 地面に叩きつけられる前に抜け出さなければ!

 とっさにイジェクトレバーを引こうとしたその時、ぱっと視界が開けた。眩しさに目が眩んだ。

 ???

 まだ飛んでいる。

 しっかり飛んでいる。

 水平儀をチェック、かなり下を向いている。

 ピッチアップ、水平に戻す。

 低空を飛んでいたはずなのに地面はどこにも見当たらない。

 僚機もいない。

 相変わらず墜落警報。しかし見たところ当面その心配はない。警報のリセットボタンを押す。

 変だ。

 とにかく最大限の警戒を。

 オートパイロットを入れると機体は上昇しながら緩く左バンクして10°ほど変針した。航法システムのウェイポイントはまだMFD(多機能ディスプレイ)に表示されている。機体はその線上を進んでいる。

 なぜ上昇する?

 高度計を確認すると「ゼロ」を指していた。

 変だ。もう1分以上仰角15°で上昇している。ゼロなわけがない。

 高度は確かに変わっている。なのに高度計が回らないということは、高度計が壊れているか、あるいは外の気圧があらゆる高度で1気圧を保っているかのどちらかだ。高度計は外気圧で高度を標定しているわけだから、そういうことになる。

 ……高度による気圧変化がないって、どういうことだ?


 レーダー警報。3,4秒ごとに「ボー」と短い断続音。RWR(レーダー警報装置)のインジケータを見る。

 1時方向、戦闘機のレーダーだ。強度は弱い。同型機クラスなら距離約200km。まだ探知。追跡ではない。つまり相手はこちらに的を絞っていない。敵性かどうかもわからない。

 レーダーを起動、機首のイールビス・フェーズドアレイレーダーがSCAN《スキャン》モードで走査を始める。その視野は左右各120°上下60°に及ぶ。レーダーアレイ自体の走査角は上下左右各60°だが、アレイ基部が左右に60°ずつ物理的に首振りしてやや後方に回り込む範囲まで探知を可能にする[2]。

 すぐに相手を捉えた。MFDのレーダースクリーンに四角いシンボルが映った。TWS(スキャン中トラック)モードに切り替える。このモードでは走査角が各60°に狭まる代わりに最大30目標を追跡――つまり高度、速度、針路といったベクトル情報を得ることができる。

 1059km/h、針路168(5時方向)。距離149km、相対高度マイナス885m

 IFFコンタクト――フェイル[3]。

 味方ではない。

 一体何者だ? こんなところで交戦なんてありうるのか。いや、このおかしな空間はきっともはやモスクワ近郊ではないのだ。何が起きても不思議はない。

 私は逡巡を振り払った。

 相手も今のでこちらに敵意を向けるだろう。

 ガン/ミサイル・セーフティ・オフ。

 フルアフターバーナーで加速上昇。速度の伸びがいい。大気が濃いせいか。エンジンが普段よりパワーを出している。

 彼我距離100kmを目安に水平に戻す。

 相手も増速して上昇したので高度差はほとんど広がらず約1000m。まだこちらが上。

 こちらは短距離ミサイル2発、しかもシーカーだけで炸薬・推進剤のない模擬弾しか積んでいない。機関砲は150発全弾実包だが、ミサイルレンジでは丸腰も同然だった。

 戦う決心をしたのはいい。だが生き残る見込みがあるのか?




―――――


脚注

[1]情報統合。自機レーダー・赤外線センサー、データリンクなどから取得した情報を統合し、重複なく単一のディスプレイに表示する機能のこと。基本的には敵味方のユニットシンボルを使って情報を整理する。地上目標を除外、驚異度の高い目標のみ表示、などのフィルタリング機能も含む。


[2]フェーズドアレイレーダーはそのアレイを構成する素子ごとに電波パルスの発信タイミングをずらすことによって任意の方向にパルスを打ち出すことができる。つまりレーダー波が常にアレイ正面に飛んでいくわけではない。これにより従来型のパラボラアンテナに不可欠だった首振り/旋回機能を省くことができる。


[3]IFFは敵味方識別信号装置のこと。特定形式の電波信号で応答することで味方を識別する。それ以外の形式、あるいは応答がなければ所属不明機となる。

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