ダークネス・ソロウ~ぼっちでコミュ障でも暗殺者として頑張ります~

砂城

序章 凡人以下の異世界転移

第一話 始まり

 ――目の前に光が溢れた。


 どこまでも真っ白で、意識まで白く染め上げる光だ。


 最初に感じたのは土の匂いだった。次は地面に突いた手と尻で感じる冷たい土の感触。

 嗅ぎ慣れてどんな匂いかもわからない自宅の匂いではなくなっていた。


視界がクリアになり、景色の全てが変わっていることに気づく。


 明るいので時間帯に変わりはないのかもしれない。確か午後の二時頃だった。

 ただ目の前に広がる風景は、俺がいたはずの室内ではなく森だった。


 首を回して辺りを見渡しても木と土と木漏れ日が織り成す森林の景色が広がっているだけだ。

 ここがどこなのか全くわからない。困惑しか頭に湧いてこない。


 俺って確か自分の部屋にいたよな? それがなんでこんな森の中に? ってかどこだよここ。日本じゃないよな?


 などという疑問が頭の中をぐるぐると回り続けるが、かといって答えが出るわけでもない。


 ぱきっ。


 なにかが枝を踏み折る音が聞こえた。びくっと肩を震わせて音のした後ろを振り返る。


「……っ!」


 喉がひくっと鳴った。そこにいたのは狼のような獣だった。牙を剥き、赤い毛を逆立たせ、口から黄ばんだ唾液を垂らして俺を睨んでいる。しかし俺が知っている狼と決定的に違うのが、眉間にある“眼"だった。三ツ眼の赤い狼が俺を威嚇している。経験がなくてもわかる。あれは俺を敵視している。今にも襲ってきそうな迫力があった。だが地面に座り込んだ姿勢で狼から逃げようなんて無理だ。獲物を狩るために鍛えられた脚力は人間を凌駕している。


 緊張から口の中が乾き、腹の底から冷えるような感覚が上がってくる。俺の見ている前で、狼が左の足を一歩前に踏み出した。身体が逃げようとしたのか手が少し前へ動く。指先にこつんと硬いモノが当たった。自然と視線がそちらへ向き当たったのが小石だとわかる。

 そこからは反射だった。


 ただ死にたくないという本能的恐怖に従って身体が動く。小石を掴むと、腰を捻って狼の方へ投げた。野球すらまともにやったこともないヤツにしては上手くいった方だ。ちゃんと狼の方へ飛んだのだから成功と言える。軌道を最後まで見守ることなく急いで立ち上がり、足が震えていたせいで少し縺れながらも逃げようと走り出す。


 ここで、俺は最低でも二つ間違えた。


 まず適当に放っただけの石ころでは気を逸らすことも難しいということ。例えば野球でもやっていれば、顔に剛速球を当てて牽制になったかもしれない。

 そしてもう一つ。肉食動物に出会った時の対処方法として、背を向けて逃げるのは悪手である。それでは自分が追いかけるべき獲物だと示しているようなモノだ。


 故に、俺が石を投げて背を向け走り出すまでの間に相手が動くのは当然だった。


 背を向けて立ち上がるまではなにも聞こえなかった。だが走り出そうと足に力を込めて地面を蹴るまでの間に、土を掻く微かな音を耳が捉える。思わず振り返ってしまった。跳躍して俺に飛びかかろうとする狼の開いた口が猛然と迫り、やけに大きく映った。考えるよりも早く走り出す寸前だった体勢から片足で跳ぶ。裸足に地面の小石が食い込んだ。


「っ……!」


 跳んでも飛びかからんとする前足の爪に背中を浅く裂かれた。普段痛みとは縁遠い生活を送っていた俺にとって、例え掠り傷だったとしても痛みを受けるというのは動揺が激しい。受け身の取り方もわからないのでただ冷たい地面に飛び込んだ。腕で顔だけは守ったが特に腹部が痛む。飛び込んだ先に小石や枝があったのか、ずきずきとした痛みがあった。手を突くでもなく強かに打ったのでどこも痛い。


「グルル……ッ」


 低い獣の唸り声を聞いて慌てて起き上がり相手の位置を確認しようとして振り返り――眼前に狼の牙が迫っていることに気づいた。間隔は僅か三十センチほどだろうか。今から顔を背けてかわそうにも間に合わない。動物園で嗅ぐよりも酷い獣臭さが鼻についた。


 ……終わった。


 呆気ない最期だった。元々無謀だったんだ。ただでさえ身体能力で劣る人が、困惑と混乱の中で勝るはずの知恵すらも回らない状況で、獣から逃げようなどと。なんて無駄な足掻きをしたんだろうか。

 やがて来るだろう死という痛みに耐えるために目を瞑る間もなく、牙が迫る。


 そして、視界が真っ赤に染まった。


「……ぁ?」


 それが見えているということは、そしてこうして思考が働くということは、俺はまだ生きているのだろう。でもなぜ? 現に俺は今狼の臭い口の中にいるのに。だが全身に被ったぬめりとした液体と錆びた鉄に似た味と生臭い血の匂いが、狼の死を訴えてくる。俺はこんなに大量の血が出るほど怪我をしていないのか、痛みの大きさが変わっていない。強いて言うなら狼の牙が擦れるくらいだ。


「間に合って良かった」


 俺のそんな疑問に答えたのは、聞き覚えのない男の声だった。狼の赤黒い口内しか見えなかったが、ぱっくりと真っ二つに分かれていく。狼の身体が左右に落ちていき、血が降りかからなくなる。ただ臭いし唾液と血液が口や目に入っていた。我に返ってからより強く感じてしまい、唾ごと吐き捨てる。


「あっ……ごめん。これじゃ良くないな。今血を流すために魔法を使うから、ちょっと目を閉じていてくれ」


 悪意を全く感じさせない声音だ。よく見えないが好青年だろう。目を閉じたまま、今彼は「魔法」という単語を口にしていなかったかと思った。


「――《ウォーターフォール》」


 もしかしてここは剣と魔法の異世界なのかと考えている内に、ばしゃーっと大量の水が頭上から降ってきた。……水は意外と重いので、がくんと頭が下がる。ただおかげで血は洗い流せたので、感謝しなければならない。というより狼を斬って(?)倒したのも彼だろう。つまり命の恩人ということになる。

 少なくとも害意は感じないので命の危機はなくなったのかと、びしょ濡れになった身体で脱力した。一気に疲労がやってきたように感じて滅入る。


 水が収まってから目を開くと、前髪からぽたぽたと水滴が垂れてはいたが幾分か悪臭がマシになった。


「ご、ごめん。ちょっと強すぎたかな。俺もまだ勉強中で、威力の調整とかわかっていない部分があるんだ」


 そんな半端な知識のモノを初対面のヤツに使おうとしやがったのかこいつは。

 という悪態をつけるような立場でないことは重々承知だ。


「とりあえずお詫びと言ってはなんだけど、俺の持ってる服をあげるよ。下着は確か新品があったはず、だけど」


 濡れて顔に張りついてくる前髪を払ってようやく恩人の顔が見えた。目を見張るほどの美青年だ。金髪にどこぞのアイドルの範疇にないほど整った顔立ち。俺がいつも鏡で見ている顔と比べるのがバカらしくなるほどだ。身長は百八十近くあるだろう。すらりと伸びた長身でルックスがいいと来た。恰好はジーパンに白の長袖Tシャツ、その上に黒のベストだが。飾り気はないが胸元で光る銀のネックレスがアクセントになっている。シンプルで一つ一つを見ればオシャレな服とは言えないかもしれないが、全部が合わさった上で彼という美青年が着込むとモデルに見えるほどだった。

 そんな人物が、申し訳なさそうに苦笑している。本当に悪気はないらしい。


「はいこれ。とりあえず俺が警戒するから、着替えて」


 ごそごそと腰の袋を漁っていたかと思うと、明らかに容量を超えているであろう衣服と下着と靴を取り出した。正直内向的な俺としては屋外で着替えて一瞬とはいえ全裸になる事態は避けたかったが、とはいえ周囲に小屋などがないので贅沢は言えない。


「あ、もし着替えにくいならこう、魔法でカモフラージュするけど?」


 俺が受け取らないことを恥ずかしがっていると取ったのか、そう聞いてくる。気遣いもできるいいヤツなのだろう。俺は首を横に振り、有り難く服を受け取った。


「じゃあ俺はモンスターが来ないように見張ってるから」


 そう言ってこちらを見ない気遣いもする。背を向け少し離れた。立ち止まって周囲を警戒している彼の背中を眺めつつ、ふと武器をなにも持っていないことに気づいた。じゃあどうやって赤毛の狼を真っ二つにするんだという話である。血塗れの内臓と骨の断面を見てしまい、あの悪臭が思い出され気持ち悪さが湧いてきて死体から目を逸らす。


 いつまでもこうしているわけにはいかないので、死体から少し離れて上着を脱いだ。びしょびしょなので肌に張りついて脱ぎにくく、力で引き剥がすようになんとか脱いでいった。全裸になると、運動しないために日焼けしていない白めの肌と締まりの悪い腹がよく見える。今まではどうせ他人に見せる機会もないかと気に留めていなかったが、狼から逃げる時に身体を鍛えていればもうちょっと上手くやれたのではないかという考えが浮かび上がってきて即座に否定した。

 服を着込み着替えを終える。靴を履く時に気づいたが、足の裏が傷だらけだ。特に狼から逃げる時に踏んだらしい小石の傷が大きい。そのまま靴を履いたので少し痛かった。未だ水の滴る髪を掻き乱して水滴を飛ばし、手櫛である程度整える。血塗れ、ずぶ濡れと比べればいくらかマシになった。衣服の着心地は少しごわごわしているような気がして違和感がある。ここが俺のいた世界でないと考えれば、技術力の差だろうか。


「着替え終わったみたいだね」


 俺が脱いだ服をどうしようか手持ち無沙汰にしていると、彼からこちらを振り返って近づいてきた。……聞き耳を立ててある程度着替え終わるタイミングを計ってたんだろうな。


 しかし近づいてきた彼にかける言葉が見つからない。いや命を助けてくれた礼はするべきだが。

 俺としては感謝の意を示すよりも先にこの状況について聞きたい気持ちが先行していた。自覚してはいるが自分勝手さが前に出てきてしまう。

 だがなんて聞けばいい? 「この世界は」などと言えば俺が異世界人であることがバレるし、異世界人だとバレることがいいことなのか悪いことなのかよくわかっていない。俺は漫画もラノベもネット小説も読むが、異世界人というだけで歓迎される世界や異世界人というだけで迫害される世界がある。迂闊にこちらから発言しない方がいいように思う。魔法を知らない様子を見せれば怪しまれるし、かといって世間話をすれば今までどこでなにをしていたのか、あの程度のモンスター(?)に苦戦するのになぜこんなところに独りでいるのか、色々と説明しなければならない。ボロを出さないためなら黙っていた方がいいのかもしれない。

 などと俺がうだうだ考えている内に、


「服、もう着れないだろうからこっちで処分しようか?」


 そう言って手を出してきた。……いつもこうだ。俺が色々考えている内に相手から話し出す。いや人見知りを自覚してる俺にとっては普通のことなんだが。

 彼に言われて手元の脱いだ服に目を落とす。服には血の匂いがべったりと染みついてしまっている。彼の言う通り処分した方がいいかもしれない。


 そう思って服をまとめて手渡すと、受け取った彼の眉がぴくりと動いた。そして驚いたように俺を見つめてくる。


「……君、もしかして異世界から来たのか?」

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