CODE109 どこにいても、必ずきみの色を見つけだす(2)
病院の中庭を荒れ狂った渦が、急速に縮み始めている。
病棟の揺れもおさまった。全員避難を完了し、この場から離れているはず。このまま渦が消滅すれば、これ以上人的被害が増えることはない。
でも、あいつがいない――
ついさっきまで隣にいたやつが、俺の前で、粒子に変わって、消えた。
『……さん……』
ふいに、手元から音声が届いた。
ノイズ交じりの小さな声。映像はなし。でも、俺には誰の声なのかはっきりとわかる。
『
心臓がぎゅっと締めつけられる。会いたい、会いたい……!
このまま下がれば、俺も避難すれば、またきみに会える。
でも、あいつがいないんだ。
「美弥ちゃん」
消えゆく渦の中心に視点を固定したまま、無意識のうちに応答していた。
『甲斐さん! 大丈夫? お兄もいる?』
折賀は、折賀は……
いや、ちょっと待て。
渦の中に、ある。渦の漆黒に溶けそうで溶けない、強いダークブルーの光の粒が、確かに見える。
折賀――!!
丸まっていた背を伸ばし、俺は勢いよく立ち上がった。
「あいつまた暴走しちゃったんだよ! 俺、また置いてきぼりで……でも、ちゃんと連れて帰るから!」
『え、どこ――』
音声が途絶えた。俺自身が渦へ近づいたから。
俺は足の力を抜いて、今にも消滅しそうなその『色』に手を伸ばす。俺の体が、あいつの暴走とは比べ物にならないくらいのスピードで引き込まれていく。
闇しか見えない。瞬間の激痛。
どこが上か下かもわからない。
でも、なぜか、
意識だけははっきりと残っていた。
美弥ちゃん、ごめん。俺までこんな無茶して。
俺たちは、三人そろってないと幸せになれないんだよ。
俺よりもずっと長い間、きみの幸せを願い続けたあいつを。
手放すなんて絶対にできない。俺が嫌なんだ。
絶対に、二人できみのところへ帰るから。
もしダメだったとしても――たとえ肉片になっても、原子の一粒になっても。
必ず、きみのもとへ飛んでいくよ。
◇ ◇ ◇
ん……
なんだ……? 何か、見える。
って、体いてえ……痛いのどこだよ……
……痛みが、ある?
顔の辺りが、チクチクする。動くとさらにチクチク。
指先が何かをつかんだ。
なんだこれ? 草みたいな――
いきなり、目の中に大量の視覚情報がどっと流れてきた。
青い空、茶色の土。遠くまで広がる緑の丘。
派手な原色のシャツを着た大勢の人間がいる。
車の荷台の上で、土色の道の上で。派手に踊ったり暴れたりしてる――黒人の群れ。
次に聴覚。
けたたましく響く歌声。歌ってるのは黒人の若者たちだ。
それから、適当な楽器の音、車のスピーカーから響く力強い叫び――
――そして、悲鳴。
「なっ……!?」
若者たちが、細長い何かを振り回してる。振り上げて、別の人間に叩きつけている。逃げようとした人間は、一度でも叩かれると動きをやめ、あとは叩かれるままに体を振動させるだけ。長い刃がどんどん汚れていく。叩くたびに、濡れるような嫌な音が聞こえる。あれは、
このシーンを知ってる。直接見たことはないのに、まるで見たことがあるくらいに知ってる。忘れたくても絶対忘れられない。ルワンダだ。
なんで?
足に力を込め、立ち上がった。
すぐ横を、子供が走っていく。
数人の若者たちが追いかけて、子供を捕まえ、そのまま地面に押し倒した。中年の男が来て、何かを
若者たちに体を押さえつけられ、何も言わず、ただビクビクと体をふるわせている男の子。
中年の男が、近づいたかと思うと、子供の腕めがけて鉈を――
勝手に体が動いた。ただただ、この先を見たくなかった。
俺は男の下半身にタックルをかまし、倒れたその顔面を思いっきりぶん殴った。
自分でも驚くぐらいの大声を上げて、周囲がひるんだすきに子供をかつぎ上げて走り出した。
何やってんだ俺。折賀じゃあるまいし、すぐに追いつかれるに決まってる。
でも運が味方した。一台のデカい車が目の前に停まって、中から軍人っぽい人たちが銃を構えて出てきたんだ。
国連軍。
彼らは暴徒に手を出すことはできない。でも、ひとりの子供の窮地を救うことくらいできるよな?
俺は彼らに、子供を助けてくれるように訴えた。ところが子供は押しのけられて、俺の方が引っ張られた。数人の軍人たちの質問攻めにあうが、英語じゃないからよくわからん。フランス語?
押しのけられた子供に、またさっきのやつらが寄ってくる。
冗談じゃねえ!
俺は軍人たちをかわして、子供の前に立ちはだかる。
飛び交う怒声。決して発砲しない軍と、畏れ知らずの暴徒が睨み合う。
ピリピリと張り詰める空気の中、指揮官らしき人が、俺と子供を車の中へ招き入れた。
「きみは勇敢だな」と、英語で聞こえた。
背後からは、暴徒たちの雑言。
その中で、中年男が「ハレド!!」と叫んだ。
車が動き出した。
――が、男たちの暴虐は止まらなかった。
大勢の若者が集まってきて、前をふさいだ。
何人もの男たちが、棒のようなものを振り上げ、車体にいっせいに叩きつけた。
◇ ◇ ◇
……ん……
まぶ、しい……
目を開けると、蛍光灯の明かりが飛び込んできて、目がくらんだ。
明るさに慣れるまで、数十秒。
薬品っぽいにおい。それから、嗅いだことのない、なんだか生臭い感じのにおいがする。
ゆっくり体を起こすと、こっちに背を向けたひとりの男性が、口早に何かをしゃべっている。青緑色の、手術着っぽい服装で。
ここ、病院だ。
男性は俺にはまったく注意を払わず、何か切羽詰まったような声を上げた。
彼の目の前には手術台があって、そこには――
身をすりつぶされるような気がした。
空間がよじれていく感覚。そこに、ほんの少しではあるけど、あの黒い渦の気配を感じた。
床が少しずつ曲がり、手術台が少しずつ沈んでいく。
重力の発生の瞬間を、俺は見ているのか。
――ハムだ。
直感で、そう思った。
アティースさんに聞いたとおりなら、このあとハムは床に落ちて、その衝撃で背中が曲がってしまう。
予想したとおり。
医師が取り上げようとした赤ん坊が、持ち上げられることなく医師の手から落ちた。
俺は思わず滑り込んで赤ん坊をキャッチ!
普通に考えたら、俺はただじゃすまなかったと思う。
でも体が勝手に動いちまった。
俺の体はハムが発生させた凄まじい重力に押しつぶされ――
――たりは、しなかった。
赤ん坊は、俺の腕の中にちゃんとおさまって、それからふえふえと泣き出したんだ。
驚いた医師が、何かを叫びながら、俺から赤ん坊を受け取った。
俺に向かって色々叫びながら、慌てて色んな処置を始めている。
部屋の隅で震えてたっぽい女性が、こわごわと寄ってきて、赤ん坊を別室へ連れていった。
男性医師は、手術台の上の患者、つまり彼の母親の後処置を始めている。俺はもうここにいちゃいけない。そっと部屋を出た。
この場を歪めるほどの重力は消えて、ハムは他の人に抱きかかえられている。もちろん、背中も曲がっていない。
俺は――ハレドとハム、二人の人間の運命に干渉しちまったのかな?
本当はやっちゃいけないこと、だったのかな……。
でも、目の前であんなもの見ちゃったら、やらずにはいられない、よな。
お前だって、きっと同じことをしたよな。折賀。
◇ ◇ ◇
今度は暗闇だった。また目が慣れるまで数十秒。
すぐに、俺の知ってる空気だとわかった。
道路の広さ、電柱の位置、ときおり通り過ぎる車。
病院に帰ってきた、わけじゃない。
目の前に広がる大きな建物、閉じられた広い校門は――
俺と美弥ちゃん、それから亀おっさんが顔を合わせた場所だ。片水崎第一小学校。
複数の気配が近づいてきた。二人。
制服、それも夏服を着て歩いている高校生の男女。
――美弥ちゃん! 折賀!
二人は何を話すでもなく、すぐ横に並ぶわけでもなく。
自転車を押す美弥ちゃんの斜め後ろを、折賀が歩く。そっけないふりして、美弥ちゃんの安全にばっちり意識を向けているのがバレバレだ。
たぶん、病院からの帰りなんだろう。二人はこうして、暗い道を一緒に歩いて帰ってたんだな。
でも、この場所って。まさか。
嫌な予感が的中した。突然、二台の黒い車が二人の真横に停車した。
中から飛び出してきた、黒服の男たち。自転車の倒れる音が響く。
美弥ちゃんの悲鳴!
俺は駆け出した。
が、次の瞬間、思考が「待った」をかけた。
前へ進む体と停止を命じる思考に挟まれて、心身が引き裂かれそうになる。
二人が、
美弥ちゃんが校舎を破壊し、折賀がこいつらを殺してしまう。
二人が
でも、でも。
俺は、ここで出て行ってもいいのか。
それとも、ただ見てることしかできない、のか――
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