CODE35 シチリアーナ・ラプソディア(4)

「……ァッ! あグッ……!」 


 階段の下、倒れた折賀おりがが頭を押さえて苦しそうにうめいている。


「折賀! おいっ、しっかり――っとどわあぁっ!」


 下半身に勢いよく激突した固まりにはじき飛ばされ、今度は俺がローリングゥーーッ!


 おっさんが折賀にクラッシュするのはなんとか阻止できたが、代わりに俺が後続のおっさんの下敷きに。


「いっでえぇ……おっさん、重い……」


「すんません、おかげで助かりました……」


「合流方法が、斬新すぎんだろ……」


矢崎やさきさんが急に飛び降りていったので、撮ろうと思ったら足を踏み外しまして……」


 おっさん、カメラ構える必要ないのになにやってんの!


 それより折賀だ。

 今度こそコーディに決定的な「暗示」をかけられたのかもしれない。


 おっさんの下から這い出し、折賀に手を伸ばそうとすると


「触んなッ!」


と、やつのこぶしが空を切った。


 ベストな拳速には程遠いが、それでもまともに食らえばきっと立てなくなる。

 俺は亀山のおっさんを下がらせ、折賀から目を離さぬまま慎重に距離をとった。


「アティースさん、折賀が催眠攻撃を食らった。どうすれば」


『今はそのまま距離をとれ』


 すぐに返答があった。


『今、美仁よしひとはどこを見ている』


「ずっと下を見ています。体を少し起こしたけど、まだかなり頭が痛そうです」


『色は?』


「まだ、透明にはなってない……けど、なんだかグチャグチャです。こんな色の動き、見たことない……」


 まるで獣のようにフーッ、フーッと浅い呼吸を繰り返し、頭を抱えたままヨロヨロと立ち上がるやつの姿は、正視するのがつらいほどだった。


 まだ番犬ガード化はしていない。こいつは今、必死で脳を支配しようとする暗示と戦っている。


『対策を伝える。すぐに身を隠して美仁の視界に入らないようにしろ。しばらく近づくな』


「近づくなって、まさかほっとけってこと?」


『きみには何もできない。いざというときは、私が遠隔操作で美仁の首輪に高圧電流を通して失神させる』


 それ「設定」じゃなかったのかよ!

 俺は焦って自分の首輪に手をかけた。


『きみの首輪にはない。美仁が、自分から希望したんだ。危険だからできれば使いたくはない』


 アティースさんの口調が重い。それ以上に重いのが、こいつの覚悟だ。

 俺は唇をかんで、自分の震えを鎮めようと努めた。


『美仁がこれ以上暴走するより先に、ロークウッドの居場所を特定するんだ。いざとなったら、衛星を乗っ取ってラグーザごと破壊してでもやつの動きを阻止する。美仁を操ろうとしたことを心の底から後悔させてやる』


 アティースさん、本気だ!


甲斐かいは一刻も早くロークウッドの「色」の距離と方位を特定。まず亀山にカメラを持って近づかせろ。カメラを向ければ映像をこちらでも確認できる。亀山なら、操られてもきみ以上に害がない』


「……だって。すげえ大役だよ、おっさん」


「はっ、はい! がんばります!」


 そのとき、荒い呼吸を繰り返していた折賀が、いきなりガアッ! と野獣のようなうなりをあげた!



  ◇ ◇ ◇



「ヤバい! 隠れろ!」


 慌てておっさんを引っ張って、階段裏まで回ろうとしたとき。


 俺は信じられないものを見た。

 折賀が自分の胸をかきむしり、空に向かって叫びをあげたかと思うと――いきなり、口から大量の血を噴き出した!


「おいっ! ウソだろ……!」


 そのまま、もう血だかなんだかわからないものをぶちまけた折賀は、地に膝をつき、赤黒い海の中へと力なく倒れ込んだ。


 まさか……まさか、俺たちを殺す暗示にあらがって、代わりに自分を――それも内臓をやっちまったのかよ!


「……バカやろー……!」


 近づくことも、身を隠すこともできず。その場に両足を縫いとめられたまま。

 ただ呼吸をするためだけに、声が出た。


「暗示にかかったら、まず俺を狙えって言ったじゃねえかよ……!」


 言っても仕方のない言葉は、まるで他人の口から洩れたように聞こえた。

 聴覚が、ほとんど自分の心臓の鼓動だけに支配されている。

 背後から通行人らしき甲高い悲鳴が聞こえても、別世界のように遠くに感じた。





 ――確かに、俺には何もできない。

 こいつをコーディから守るために来たのに、間に合わなかった。


 横を見ると、カメラが折賀に向けられている。

 アティースさんにも、この惨状が伝わっただろう。


 あの人も、かなりショックを受けただろうな……。

 首輪に電気を流すのを躊躇ちゅうちょしたほんの一瞬の間に、こんなことになってしまったんだ。

 めちゃくちゃ厳しい人だけど、あの人がこいつを大切に思ってることくらい、俺にだってわかる。



 美弥みやちゃん、ごめん……本当に、ごめん。きみの兄貴を守れなくて。

 俺には、何の力もなかったよ……。



 今ごろ、アティースさんが救急隊を手配してるだろうけど、こいつの色は、もう、かなり薄く――


 ――薄く、ない。


 むしろ、ダークブルーよりもっと濃くなってる……?


 ――黒い。黒いもやが、折賀を包んでいる。まさか。


「……黒さん……?」


 それは、病院で再会したときからずっと、折賀にきまとってきた黒い霊。

 そばに来たり離れたりしながら、気ままにふらふらと、折賀家へ、そして海外にまで憑いてきていた浮遊霊。


 もう、折賀と一緒に俺の視界に入ってもなんとも思わないくらい、当たり前の存在になっていた。

 その黒さんが、倒れた折賀を包み込んでいる。何してんだ……?


『甲斐。早くそこから離れるんだ。さっきの指示通りに――』


「待ってください」


 俺はアティースさんの沈痛な声をさえぎった。


「黒さんが、何かしてる……」


『黒さん?』


 いぶかしむ声には答えず、俺はそのまま黒さんと折賀に見入っていた。


 俺にしか見えない光景だ。

 黒い靄が、折賀の全身を少しずつ移動しながら、優しく、まるでいたわるように包み込んでいく。


 その黒は、決して邪悪な色じゃない。

 むしろどんな明るい色よりも温かい、愛にあふれた色のように思えた。


 ――俺、どうかしちまったのかな。


 そのうちに、折賀自身のダークブルーが色彩を増していくのを、俺はしっかりと見届けた。


「アティースさん、折賀はたぶん大丈夫です。手当は必要だけど、いちばん深刻な事態は脱したと思う」


『どういうことだ?』


「折賀は救急隊に任せて、俺はコーディを捜します!」


 こうしちゃいられない。

 理由も正体もわからないけど、黒さんは折賀のためにできることをやってくれた。

 俺も、今の俺にしかできないことをするだけだ。



  ◇ ◇ ◇



 もう一度、折賀が転落し始めた地点へ駆け戻り、双眼鏡型スコープでさっきコーディがいた地点に照準を合わせる。

 そのまま周辺へレンズを巡らせると、コーディのモスグリーンはすぐに見つかった。


 谷にかかる橋を渡った向こう、イブラ地区と呼ばれる方面に、バロック式の芸術的な建物がいくつも立ち並んでいる。

 その街中に、小さなモスグリーンがふらふらと入っていく。


 動きから察するに、あっちも無傷というわけではなさそうだ。


 おっさんと一緒に、イブラ地区へ移動するルートを組み立てた。

 どこに番犬ガードが潜んでいるかわからない。できるだけ身をさらさずに済むルートを選択する。


 ふいに、矢崎さんが現れた。


「矢崎さん! フォルカーは?」


「すみません、見失いました。またナイフが飛んでくるかもしれませんので、できるだけ身を低くして、壁に沿って移動してください」


 矢崎さんは、救急隊が到着するまで折賀に付き添うという。

 俺とおっさんは言われたとおりに移動開始。

 移動中、またアティースさんから通信が入った。


『美仁が暗示にかかった瞬間の状況、それからこれまでの状況を分析した結果、ロークウッドの能力アビリティ発動範囲を仮定した。半径約十メートル――案外狭いかもしれない』


 そうか、だからいつもフォルカーを従えてるのか。それより遠くからの攻撃に対応できるように。


 何も知らない観光客の一団が、楽しそうに横を歩いていく。

 いつもなら視界に入るだけでわくわくするような、見事な装飾をたたえた宗教的なベージュ色の建物が並んでいる。

 なるべく目立たないよう、観光客の波にまぎれるように歩を運び、少しずつ、コーディの居場所を絞り込んでいく。


 居場所を特定した時点で、おっさんがひとりでカメラを構えて近づいていく計画だ。


「――あそこかもしれない」


 五十メートルほど先、少し開けた場所にその教会は建っていた。

 教会の入り口までは、鉄柵で囲まれた階段があり、数人の観光客が昇っている最中だ。わりと人気のある教会らしい。


 その入り口扉の向こうに、ちらちらとモスグリーンが揺れている。

 俺とおっさんは顔を見合わせた。いよいよ本番だ。


 おっさんが、つばを飲み込んだあと、カメラを抱えて教会へ向かう。

 その後ろ姿を見送りながらアティースさんに座標を送信したところで、俺はある異変に気がついた。


 何かが、違う。


 さっきまでの空気と違う。

 まるで、たった今まで存在していなかった異質なものが、町全体の空気を震わせているような……。


 その原因が「歌」であることに気づいたときは、もう遅かった。

 初め、聞き取れないほどかすかに流れてきた歌は、そのときすでに周囲一帯を振動で包み込み、存在するすべての人間の鼓膜から脳髄にいたるまでを支配してしまった。


 ゆっくりと、振り返る。目に映る人々が、次々に路上に倒れていく。


 カターニャで別れたはずの人物が、俺の背後で歌っていた。

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