そして聖女は濁を愛づ

お香

カエリ小噺

 じりじりと体を焼く強烈な太陽。絹の道を進む駱駝の一団の中に、カエリは貸してもらったラクダに乗って、ゆらゆらとそのあとをついて行っていた。


 手に広げた書籍からは、カエリにしか見えない色が彼女の好奇心を満たしていた。しかし、この言い方であれば少々語弊がある。実際に彼女が色を感じていたのは書籍ではなく、文字だった。文字には、著者の感情がそのまま流れこむ。そしてそれが色となって読者たる私たちに、主人公の喜びや悲しみを追体験させる。これがカエリの長年の主張だったのだが、このことを旅の仲間に話すと文字に色なんざありゃしねぇよ、と一蹴されてしまった。ほかの仲間に話を聞いてみても、どうにも文字に色を感じるのはカエリだけだったらしい。


 紙に躍る文字たちを眺めていると、カエリの汗がしたたり落ちてしまった。亜麻を原料とする凡庸な質の紙に、じわっと水がしみ込む。


「げっ……せっかくの本が……」


 このままではまた悲しい被害を生みかねないと判断したカエリは、本をそっと後ろの荷物入れに滑り込ませた。


 時はセラサン帝国黄金期。世界の東西を強固に結ぶ貿易ルート、大陸交易路の中心部に首都を置き、その繁栄、端倪たんげいすべからざることから、「不夜城」と称されるほどだった。


 商業の盛んであった首都の市場スークには、世界中の商品が集まった。鏡の国セリカの絹織物や陶磁器、その他さまざまな大陸交易路に面する国々の商品が集まってくる。カエリらはそこに向かい、数ある交易路の一つである砂漠の道を進んでいた。


 ふいに列の先頭でほの赤い色が上がった。何かあったのだろう。むしろ、そうでなければ列の進みが早くなったことに説明がつかない。カエリは何となく予想がついていたため、抜けそうになっていた気持ちを締めなおそうと革袋に手を伸ばした――つもりだったのだが。


「……なんで本に手が伸びるかなぁ?」


 苦笑いを添えた独り言。カエリは本が好きだ。無意識の手が伸びてしまう程には。こうなったのも、話に聞く父親の血もあるのかもしれない。しかし、母親はそうではない。実のところ、カエリは母親の顔はおろか、名前も知らない。顔だけならまだ事情を酌める。しかし名前まで知らないというのはいささか不自然ではないか。ここ数年、大人の仲間入りもそう遠くなくなったカエリの頭をことごとく悩ませていた。


 本を戻し、今度こそ革袋をつかむ。口につけた水は実に苦かった。


 旅の中継地、スキャウトに到着した一行は、隊商宿キャラバン・サライにラクダを預け、日没まで自由行動だと告げられた。リーダーいわく、慰安と隊商の再編成を兼ねて、余裕をもって二週間ほど滞在する予定らしい。その割にはどこかキビキビと動いていたが。隊商のリーダーともなれば忙しいのだろう。


 カエリには特段仲のいい仲間もいないため、小遣いと護身用の短剣をバッグに滑り込ませ、ぶらぶらと昼の町に繰り出した。


 スキャウトの大通りは人でごった返しだ。通りに座って昼餉ひるげを楽しむもの、威勢よく客引きをするもの。カエリは人の大波をのらりくらりと進んでいく。気の赴くままに通りを進み、目についた飲食店にふらっと立ち入った。活気あふれる店内で注文をし、受け取った後に座れそうな場所を探してキョロキョロと首を回す。


「そこのお嬢ちゃん!ほれ、こっち空いてるぞ!」

「ありがとう《シュックラン》!」


 スパイスの効いた食事を楽しむ人たちの間を縫うように進み、声の主を見つける。簡素な服を身にまとってはいるが、貧しいという体でもない。娘らしき女子も一緒だが、こちらに目を合わそうとしてくれない。


「それ、座った座った。お嬢ちゃん、旅のひとかい?」

「そ。私はカエリ。あなたは?」

「ゲジェだ。こっちは一人娘のリュズ。何かおごるから、この子のために面白い話でもしてやってくれねえか?」


 庶民の間に娯楽は少ない。したがって、遠い異国の話を聞きだがるのは何ら不思議ではなかった。むしろ、カエリも前まではそちら側だった。席に呼んでくれたうえ、おごるとまで言ってくれたのだ。何かお礼をするのが筋だろう。


 そうして、これまでの旅路を二人に語った。最初こそ怯え気味だったリュズも、話をしているうちに心を開いてくれた。リュズは少し内向的なところがあるものの、積極的に鋭い質問を飛ばしてきて、カエリを悩ませた。父親であるゲジェもまた、言葉遊びなどで話を盛り上げてくれた。カエリが満たされたのは、何も腹だけではなかった。


 気づけば、あたりの明るさがかげり始めていた。雑踏を伝って、どこかから四回目の礼拝を促す声が機械的に響き始めた。カエリはそろそろ戻らなければならない。しかし、二人の興奮は収まることを知らない。


「ゲジェさんゲジェさん」

「お?まだ何かあるのか?」

「その……隊商のリーダーに、日没までには戻れって言われてて」

「そうか。こんな時間まで引き留めて悪かった。リュズも嬢ちゃんを気に入ったみたいだったし、嬢ちゃんが良ければ家を紹介したかったんだがな」

「ごめんなさい……」

「なに、嬢ちゃんが謝ることでもない。ほれリュズ、姉ちゃんにあいさつだ」


 父親の腰ほどしかないリュズに、かがんでカエリが視線を合わせる。

 ぎゅ、とリュズは小さな手でカエリの手を握りしめた。


「……ばいばい」


 一瞬目を丸くしたカエリだったが、肩の力が抜けたカエリは、同性でも惚れかねない優しい笑顔をリュズに向けた。


「またね、リュズちゃん。明日も、できれば来るから」


 こくりとリュズが頷いたのを見たカエリもまた、その可愛らしい手を握り返した。

 先のことを話したせいか、ふと忙しそうにしていたリーダーのことが脳裏に浮かんだ。自ら余裕のある日にちに設定していたのに、何を急いでいたのだろうか。


「どうした?俺にできることなら協力するぞ」

「いや……リーダーのことで。長めに補給の日にちをとってるのに、忙しそうにしてたのを思い出して」

隊商キャラバンの隊長も楽じゃなさそうだな。どこの人間ひとなんだ?」

「たしかダイラムの出だった……かな?」

「……俺もダイラムの出だが、心当たりはないな。まぁダイラムといっても広いからな。知らなくても何ら不思議じゃない」


 明日もまた来てくれればうれしい、とだけ付け加えられて、二人とはそこで別れた。


 翌日、集まった隊商の仲間たちに告げられたのは、一部の人間だけが動くので、該当者以外は各自休息をとるように、ということだった。昨日と同じように、少し減った小遣いと護身用の短剣をバッグに滑り込ませ、二人がいるであろう飲食店に目的地を定める。雑踏をかき分け二人の姿を探すものの、一向に見当たらない。はて何かあったのだろうかと考え、一度昨日の飲食店を後にした。


 しばらくして、人気の少ない店を引き当てたカエリは、そこで一休みすることに決めた。店内は薄暗く、頑丈そうな木材でできた椅子と机が並び、棚にずらりと並んだ酒瓶を一望できる長机が不自然なほどにきっちりと並べられていた。はて、帝国の宗教では酒を飲むことは禁止されていたはずだったのだが。


「よく来たネ!注文は何かナ?」

「あー……どうしよ」


 特に何も考えずに入ってきてしまったので、少し口がまごつく。大して飲めもしないのに、人気が少ないという理由だけでこんなところを選んでしまった己を呪う。しかし入った以上何か注文するのが礼節マナーというわけで。


「……砂糖水を一つ。あと何か手軽なものも」

「砂糖水に、軽食ネ。砂糖水はうちのブレンドになるけど、大丈夫?」

「大丈夫」


 しかし、二人はどこに行ったのだろうか。昨日と時間は変わらなかったはずなのだが。約束もしているので、どうにかして会いたい。けれども、あまりに情報が少ない。悶々と悩むカエリの前に、珍しいガラスのコップに入った砂糖水と、干しブドウや謎の干し木の実が乗った小皿が差し出された。


 ガラスのコップに手を付けたカエリは、打って変わって自然と、感嘆と衝撃から声が漏れ出た。


「冷たい……?」

「おいしいでしょソレ。何か困りゴトでも?」

「……分かります?分かりますよね……こんな顔してちゃ」

「伊達に人と接する商売やってないからネェ。こんな歳食いでよければ力になるヨ?」


 うなだれたカエリは、細々とこれまでのいきさつと旨を店主に打ち明けた。


「ゲジェ……?待って、ドコかで聞いた覚えが……」

「ちっちゃい娘さんもいたんだけど」

「ビンゴ。キミの探し人、ハーダ地区で書籍商やってる旦那だネ」


 ガタリと席から跳ねとんだカエリは、すでに店の外に飛び出していた。律儀にディルハム銀貨は置いていっていた。しかしまぁ、若いとは実に羨ましい。見も知らぬ歳食いの一言を信じて動けるのだから。いや、元からああなのかもしれない。


「……にしても、何でこんなところに来てたのかネ。」

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そして聖女は濁を愛づ お香 @Mokoh_0722

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