第36話 ケンカとJK

「……ごちそうさまでした」

「…………」


 箸を置いて囁くように食後の挨拶をするひまり。

 そしてそそくさと食器を流し台に置いてキッチンを後にする。


 奏音はそれに反応することなく、黙々と味噌汁を飲んでいた。


 空気が、重い…………。


 仕事から帰ってきてから、二人はずっとこんな感じだ。


 ケンカをしたのだろうということはわかったが、その理由まではわからない。


 下手につつくと事態を悪化させることにもなりかねないので、迂闊に聞けない。


 でも、この空気は非常に居心地が悪い……。


「あ、えーと……。こ、この味噌汁のあさり、すごくアッサリしてるよな」

「………………」


 気まずい空気に耐えきれなくなった俺の口から出てきたのは、なぜかダジャレだった。


 いや、違うんだ。決して狙ったわけではない。

 何を言えばいいのかわからなかったので、咄嗟に出てきたのがそれだったのだ。


 奏音は氷のように冷たい目で俺を一瞥してから、


「別に普通だし」


 ぼそりと答えてから、今度はご飯を口に運ぶ。


 …………………………つらい。


 今なら滑ってしまったお笑い芸人の気持ちが痛いほどわかる。

 今度テレビで滑っている芸人を見たら、少し優しい気持ちで見れそうだ。


 しかし、二人もケンカとかするんだな。

 今までが凄く仲が良かっただけに意外だ。


 それだけにちょっと不安でもある。

 この状態がいつまで続くか――。


「かず兄、箸が止まってるよ」


「お? あ、あぁ」


 奏音は小さく「ごちそうさま」と呟いてから席を立つ。


 俺も慌ててご飯をかきこむのだった。



 


 その日は俺が寝るまで、二人の間に渡る空気は変わることはなかった。


 明日、仕事から帰ってから詳しく聞いてみるか……。


 





        ※ ※ ※ 


 いつも、リビングの床に布団を並べて寝ていた二人。

 しかし今日は、二人の布団は離れて敷かれていた。


 奏音は謝るタイミングをうかがっていたが、ひまりはあれから目を合わせようとしないし、口もきこうとしない。


(確かに私が悪かったけどさ……でも……)


『ここにいつまでいるのか?』という、期限について聞いたことについては間違ってはいない――と思う。


 ひまりをこの家に留まらせてしまったのは自分とはいえ、それは全員がいずれ考えないといけないことだ。


 だが、それは今言うべきではなかったと奏音は後悔していた。


 だって直前まで、和輝の誕生日について楽しく相談していたのだ。


(そうだ。かず兄の誕生日……)


 何か考えないといけない。

 でも、とてもではないが今はそういう気分にはなれなかった。


 とりあえず、今は寝よう――。


 奏音は頭から布団をかぶる。


 ひまりの息遣いが聞こえないように。






 次の日の朝も、二人は口を利くことなく朝食を食べ終えた。


 奏音が学校に行く時も、そして和輝が会社に行く時でさえも、ひまりは部屋から出てこなかった。






 夕方――。


 奏音は鍵を持ったまま、玄関のドアの前で立ち止まっていた。


 ひまりと顔を合わせることを思うと気が重かったのだ。


 今日は学校でもずっとひまりのことを考えてしまっていた。


 友達からも「今日の奏音、なんかボーッとしてるよね」と言われてしまったほどだ。


 でも、家に入らないわけにはいかない。

 奏音は一度深呼吸をしてから、意を決して鍵を回した。


「ただいまー……」


 家の中からの反応はない。

 ひまりの靴は玄関になかった。


(そういえば、今日はバイトの日――)


 そこまで考えてから、奏音は急激に不安を覚えた。


 このまま帰って来なかったらどうしよう――。


 ありえない、とは言い切れなかった。


 なにしろ、ひまりは本当に家出をしてきた人間だ。

 そんな状況でバイトに就いてしまうほどの行動力もある。


 昨日のあれで、ひまりにこの家に居づらい気持ちを増幅させてしまったかもしれない。

 何より、奏音が嫌われてしまったかもしれない。


 奏音は慌てて和輝の部屋を覗く。


 ひまりの私物や服はそのままだ。

 だが、この場合持ち物が置いてあるからといってまったく安心できない。


 ひまりは換えの服さえも、ろくに持たずに出てきたのだ。

 何もかもそのままにして、彼女は勝手に出て行くことができるだろう。


 その瞬間奏音の脳裏に浮かぶのは、母親が帰ってこない静かな自宅――。


「あ、どうしよう……」


 奏音は意味もなくリビングをウロウロする。


 そのタイミングで、玄関の鍵がガチャリと鳴った。


「――――!」


 奏音はすぐに玄関に向かう。

 しかし帰ってきたのは、ひまりではなく和輝だった。


「ただいま――って、どうした奏音? そんな悲壮な顔をして」

「かず兄……どうしよう……」


 奏音は今にも泣き出しそうな顔で、和輝に打ち明けるのだった。






        ※ ※ ※ 


「なるほどな……」


 奏音から昨日のことを聞いた俺は、ソファにもたれかかりながら思わず深い息を吐いていた。


「私にはひまりの悩みが贅沢だと思えてしまってさ。私は親に放っておかれているから……。でも悩みなんて人それぞれなんだよね……」

「奏音……」


 ソファに座ったままうな垂れる奏音。

 自分が言ってしまったことを心から後悔している様子だ。


「あとね、ひまりはこの先のことを何も考えていないと思って――。でも、私の方も何も考えてなかったんだ……。ひまりにここにいて欲しいって言ったのは私なのにさ。それどころか八つ当たりまでしてしまって……」


「いや、ひまりについては俺の責任だ。俺の方こそこの先の具体的なことは考えてなかった。すまない」

「かず兄……」


 俺たちはこの生活に問題があることはわかっていたはずなのに、あえて考えないようにしていた。

 先送りにしていた。

 逃げていた。


 でも、そろそろ本気で考えないといけない。

『賞に送る』というひまりの行動は済んだのだから。


 しかし、その結果が出るのは5ヶ月後か――。


 さすがにその間、ひまりをずっと家に置いておくわけにはいかないだろう。

 本当に、ちゃんと考えないといけないな……。


「ひまりが帰ってこなかったらどうしよう……」


 奏音が力なく呟く。


「それはたぶん大丈夫じゃないか?」

「でも、行く当てがなくてもひまりは行ける子じゃん……。あの子たぶん、まだ家に帰るつもりないよ……」


 俯く奏音。

 俺は何も言えなくなってしまった。


 それはそれで俺には止める権利はない、という考えがある一方、今まで家においておきながらそれは無責任だという考えもある。


「もう、黙って置いていかれるのはヤだよ……」


 囁くような奏音の言葉に俺はハッとする。


 そうか……。

 それこそが奏音の本音なのだろう。


「……俺はどこにも行かない」


 俯いていた奏音の顔が上がる。


「かず兄……」

「俺はどこにも行かない。約束する。……まあ、他に行くところがないだけだが」


 しばし奏音は俺の顔を見つめ――。

 そして「うん」と小声で頷いた後、フッと小さく笑う。


 それまで奏音にまとっていた重い空気が薄れたのを感じた。


 ひとまず良かった、と安堵したその時――。


 玄関のドアが開いた。


「―――――!」


 奏音はすぐに立ち上がり玄関に向かう。

 俺もその後を追った。


「ひまり!」


 そして靴を脱ぎかけていたひまりに、奏音が勢い良く抱きついた。


「か、奏音ちゃん?」

「ひまり、ごめん。ごめんね……。私、酷いこと言っちゃって。本当にごめん……」


 ひまりの首元に顔を埋めたまま、奏音は涙声でひまりに訴える。


「奏音ちゃん……」


 ひまりはしばらく困惑していたが、やがて優しく奏音の肩を叩いた。


「もう大丈夫だから。私の方こそごめんなさい……。確かに奏音ちゃんの言う通りだなって。私、とんでもなくワガママだなって」

「そんなこと――」


「だからね、今日バイトしながら考えたんだ。これからどうするかって」


 ひまりの言葉に、奏音は不安そうに顔を上げる。


 そしてひまりは俺の方を見ながら口を開く。


「駒村さん。このままずっとここにいるつもりはないです。でも今はお金を貯めさせてください。バイトでお金が貯まったら、私は出ていきます」


「ひまり……」


「家にも一度帰るつもりです。でも、親に捨てられてしまった道具は買え揃えたいんです。駒村さんにペンタブは買っていただいたんですけど――他にも欲しい物は色々とあって。それは自分が稼いだお金で買いたいです。そしたら、両親も私のやりたいことを理解してくれるかなって……」


「……そうか」


「私、一度両親と向き合ってみます。でもそのためには、もう少し時間をください……。お金が貯まったら、私も家に帰る勇気が持てると思うから――」


「ひまりがそう決めたのなら、俺としては協力するつもりだ」


「ありがとうございます……」


 ひまりはそこで深々と頭を下げる。


「お金が貯まったら――」


 奏音はひまりが言った言葉を静かに反芻する。


「うん。期間としては夏休みの半ばくらいって考えてるんだけど――やっぱり長い、かな……」


 奏音は首を横に振る。


 あと2ヶ月と少しか――。


 期限が決まったら、急に短く思えてしまった。


「そういうことなので、駒村さん、奏音ちゃん。もう少しここでお世話になります」


「あぁ、わかった」

「うん」


 ひとまずこの件については一件落着か。

 二人も仲直りできたようだし。


 とはいえ、あと2ヶ月は他人にひまりの存在を知られないようにしなければいけないわけだ。


 最近は慣れてきて少し気が緩みかけていたんだが、気持ちを引き締めないと。


「さあ、そろそろ飯を食うぞ。二人とも腹も減ってきた頃だろ」

「でも私、まだご飯を作ってない……」


「今日くらいは出前を取るから楽にしろ」


 いつも奏音に作ってもらうのも申し訳ないしな。

 俺は早速スマホを取り出し、近隣の宅配店舗を検索する。


 今まで宅配はチラシに頼っていたが、スマホから注文できることを知ったのだ。


「今日はピザ以外の物にしたい。できれば弁当とか丼とかがいいな」

「あ、私チャーハンが食べたい」

「私はハンバーガーが良いです」


「お前ら協調性ゼロか」


 いつぞやのフードコートでの一幕を思い出し、俺は思わず苦笑するのだった。

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