第13話 気を遣うJK

 次の日、仕事から帰ると――。


「おかえりなさい、駒村さん」


 ひまりが玄関に立ち、ふわりとした笑顔で出迎えてくれた。


「あ、あぁ。ただいま」


 てっきり部屋で絵を描いているのかと思ったのだが――。

 鍵を開ける音に気付いて、わざわざ出てきてくれたのか。


 こうして迎えられると何だかムズムズするな。

 いや、決して嫌なわけではなく。むしろ嬉しいのだが。


「荷物お持ちしますね」


 俺の返事も待たず、ひまりは俺の手から鞄を取った。


「う――。結構重たいですね」

「まぁ、書類とか色々と入っているからな」


「こんなに重たい鞄を持って毎日お仕事に行っているなんて……。駒村さんすごいです」

「いや、これくらい普通だし……」


 俺と似たような鞄を持って出社している奴なんて、ごまんといるんだけど。


 まさか鞄を持って会社に行っただけで褒められるとは思っていなかったので、俺は純粋に戸惑ってしまう。


「お疲れですよね? どうぞこちらに座ってください」


 ひまりはそのままキッチンの椅子に俺を誘導する。


 ……いきなりどうしたんだろうか。


 でも何となく従った方が良いような雰囲気だったので、言われるがまま俺は座った。


 ひまりは俺の鞄を部屋に置いてから戻ってくる。

 そして冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、コップに注いだ。


「はい、どうぞ」


 にこやかにコップを渡された。

 受け取り拒否など許されない感じで。


「どうも……」


 つい敬語になってしまったぞ。


 ひとまず半分ほど一気に飲み干す。


 食道の中を冷たい水が通っていく感触は、ビールや発泡酒を飲んだ時とは違う爽快感がある。


「美味しいですか?」

「あぁ、うん」


 まぁ、ラベルにもでかでかと『おいしい水』て書いてあるしな……。

 当然不味まずいわけがない。


 そこで俺はようやくあることに気付く。


「そういえば奏音は?」


 この時間なら夕食を作っているはずなのだが、姿が見えない。


「奏音ちゃんは買い物に行ってます。何か料理酒? がなかったとかで。慌てて出て行っちゃいました」


「そうか」


 俺とすれ違わなかったってことは、出て行ったのはかなり前かもしれない。

 それならすぐに帰ってきそうだな。


「駒村さん」

「ん?」


 残りの水を飲む俺に話しかけてくるひまり。


 今度は何だ?

 ひまりは俺の正面に座ると上目遣いになり――。


「あの、ご飯――は奏音ちゃんが帰ってくるまでないし、ええと、次はお風呂にします? それとも…………わっ、私にします?」


 ぶほっ。


 思わず水を噴き出してしまった。


「い、いきなり何を言っているんだ!?」


「え? だってお仕事から帰ってきた男の人には、こう聞くものなんじゃないですか?」


「どこで仕入れた知識だ!? 普通はそんなことは言わん!」


 まぁ、新婚家庭ならそういうやり取りがあるのが普通なのかもしれないが……。


 そもそも俺は新婚ではないし、ましてや高校生にそんなことを言われて、素直に応じるわけにはいかない。


「そうなのですか……」


 ひまりはしゅんとするが、すぐに気を取り直したらしく顔を上げた。


「と、とにかくお風呂は沸いていますので。どうぞ!」


「その前にここを拭かなきゃ――」


 テーブルの上には、今しがた俺が噴き出してしまった水が散らばっている。


「それは私が拭いておきますから! 駒村さんは先にお風呂に入ってください!」


 台拭きを取ろうとした俺を、ひまりが強い口調で遮る。


「あぁ、うん。わかった……」


 ひまりに圧倒され、ひとまず俺はおとなしく従うのだった。






「はあ~…………」


 湯船に浸かると意図せず声が洩れてしまった。


 仕事と満員電車で疲労した体に、風呂の湯はやはりよく効く。


 それにしても、今日のひまりは一体どうしたというのだろう。

 帰ってきてからあまりにも挙動が不自然すぎる。


 と考えた直後だった。


「駒村さん。あの……」


 洗面所からひまりの声が聞こえた。

 風呂の磨りガラス状のドアの前に、ひまりが立っているのが見える。


「入りますね」


 ――――――――は?


 その言葉を理解する前に、既に風呂のドアは開いていた。


「いやいやいやいや!? 待て待て待て待て!?」


 慌てて浴槽に正座で座る俺。


 ひまりは片手にタオルを持っていた。

 その姿を見て、俺はひまりが何をしようとしているのか察した。


 ――これは、絶対に拒否しなければ。


「お、お背中流しますね……!」


「流さなくていいから! 自分で洗うから!」


「でも、せめてこれくらいは――」


 ガチャリ。


 ひまりの語尾に重なるようにして聞こえてきたのは、玄関のドアが開く音。


 つまり――奏音が帰ってきた。


 ……………………。


 俺、諦めモードに突入。


 そして案の定――。


「ちょっと!? 何やってんの!?」


 風呂場の異変に気付いた奏音が、買い物袋を持ったまま洗面所に入ってきたのだった。






「あのねぇ……」


 こめかみをピクピクと動かしながら、奏音は手と脚を組んで椅子に座っていた。


 その正面で正座をさせられた俺とひまりは、ただ黙して奏音の次の言葉を待つのみ。


 発言権は今、俺たちにはない。


「今後あぁいう行動はやめなよ、ひまり」

「はい…………」


 奏音にストレートに叱られ、ひまりはうな垂れて落ち込む。


「でも、何とかして駒村さんにお礼がしたかったというか――何でも良いからお役に立ちたかったんです……」


「それはよくわかったから。でもね、あんなことされるとこっちも変な勘違いしちゃうじゃん」


「はい……ごめんなさい……」


 ひまりはさらにしゅんとする。


 奏音はそんなひまりを見ながら小さくため息を吐くと、今度はキッと俺を睨んできた。


「ちゃんと止めなよ」


「いや、止める間もなかったというか――」


「そこはもっと強く。ビシッと。大人らしく。わかった?」


「……ワカリマシタ」


 さすがに言い返せない。

 確かに奏音の言う通りだ。


 最初からひまりのペースに流されてしまってたからな……。

 今後は気をつけないと。


 俺は改めてひまりの方を向く。


「ひまり。今後は俺にそういう気遣いはいらないから。前も言ったけど、俺はひまりがちゃんと絵を描く姿を見せてくれたらそれでいい」


「はい……。わかりました」


 ひまりは大きく頷く。


 まぁ、たぶんもう大丈夫だろう――と考えた直後、ひまりは奏音に向けてキラキラした目を向けていた。


「あの、奏音ちゃんの背中は流してもいいかな?」

「うぇっ!?」


 まさか自分に振られると思ってなかった奏音は、椅子からずり落ちそうになっていた。


 いや、驚きすぎだろ。

 人が椅子からずり落ちるところを漫画以外で初めて見たわ。


「…………ダメ?」


 うるうるした瞳で奏音を見つめるひまり。


 毎日ご飯を作ってくれる奏音にも何か礼がしたい――というひまりの気持ちを俺は瞬時に察することができたのだが、何も知らない奴が見たら、ただの良い雰囲気の女子二人だなこれ……。


「え、え~っとぉ……わ、私は……」


「……ダメかな?」


「あぁもう、わかったわかった! でも1回だけ! 1回だけだからね!」


「うん!」


 奏音の返事にひまりは笑顔で頷く。


 ……このやり取りは俺が見ても良いものなのだろうか?


 完全に話題から外された俺は、無の境地に至りそうになるのだった。

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