そのさん
その日の夕方も、杉三と一緒に買い物に行った蘭であった。いつも買いに行くのは食料品ばかりだが、その日はなぜか、介護用品店に行った。
「えーと、今日は何を買いに行くんだ?」
「寝間着、新しいのにしたいんだ。」
杉三は、サラリと言って、寝間着売り場に行った。
「おう、これだこれだ。やっぱり吉祥柄の菊の柄がいい。」
と、杉三は、売り台にあった寝間着を一枚取る。
「なんでまたそんな菊の柄なんて選ぶんだよ。女じゃあるまいし。」
という蘭を尻目に、すぐにレジへ向かってしまった杉三であった。
「おい、どの紙幣で払えばいいんだ。」
「ああ、1200円だから、この紙幣と、銀の小さいコインを2つ。」
「ああこれね。」
最近は杉三も、すぐにコインがわかるようになっている。すぐに蘭が指示した紙幣とコインを出して、レジへ行った。
「全く、杉ちゃんたら、変ながらの寝間着なんか買うんだな。」
蘭は先回りして介護用品店の、玄関先へ行った。支払いを済ませた杉三が、すぐにやってくる。
「あーよかったあ。これで新しいの買えたぞ。それでは、今日はもう遅いから、明日これを水穂さんの元へ届けよう。」
なんだ、水穂のだったのか。蘭はがっかりとした。結局僕は、杉ちゃんの金勘定の手伝いをしただけで、なんにもなってないじゃないか。僕は何をしたと言うんだろう。
介護用品店の玄関を出て、道路を移動していると、杉三のスマートフォンが鳴った。
「えーと、この赤くて大きなところを押せば、電話に出られるんだったよな。」
と、杉三は、そのボタンを押した。
「もしもし、あ、由紀子さんかい。どうしたの?あ、ああまたやったか。ほんとこまるよな。もう薬飲んでいるのに、困るよね。まあ、とりあえず、畳屋さんへ電話しなきゃいけないねえ。」
そんなに悪いのか。水穂。
「まあ、とにかくよ。畳の張替え代はたまんないけど、生きてる限りは、しっかりと張り替えてやろうな。」
不意に、杉三がそんなことを言い出したため、蘭はぎょっとした。
「そんなこと当たり前じゃないか!」
と、蘭は半分涙をこぼしながら言う。
「じゃあ由紀子さんはとにかく畳屋さんへ電話してさ、僕は新しい布団カバーをどっかで探して持って行くから。隣に蘭もいるし、奴に布団屋探してもらって、明日辺りに持って行くわ。え、ちょっと今日は、もう持ってけないよ。もう夕方だし、今からそっち行ったら、帰りのタクシー探すの大変だからさ。まあ、今日一日だけはしかたない、布団にタオルでも敷いてやってさ、そこで寝てもらえ。」
杉三は、そう言って赤いボタンをもう一度押して、電話を切った。
「おい、杉ちゃん!」
蘭は、ちょっと強くいった。
「生きてる限りはってなんだ!生きてる限りはって!」
「文字通りそのとおりさ。」
杉三は、またサラリと言った。
「そんな言い方ってないだろう?生きている限りはって、奴はこれからもまだまだ先があるじゃないか!まるでもう何もないような言い方じゃないか!」
「うん、事実ないからな。」
と、杉三は言った。
「そんなもの、はじめからない。」
「だ、だけどなあ。今生きている奴に、はじめからもう先が無いような言い方するなよ!そんなこと言ったら、あいつの尊厳まで否定することになるぞ!」
「もううるさいなあ。先があるかないかは、本人が一番わかっていることなんじゃないか。」
「そんなに悪いの?あいつ。」
蘭は杉三にきいた。
「おう。」
杉三は一言だけ応える。
「じゃああとどれだけか杉ちゃん知ってる?」
「知らん。」
杉三は、ぶっきらぼうに行った。まあ、あまり数字の概念を知らない杉三に、あと半年とかどれくらいなのか聞いても意味がないのは、既に知っていた。
「もう、いい加減に諦めろ。何をしたって水穂さんはあれで終いだよ。そう言う事って、誰にでもあるだろ。だからあ、そうしなきゃいけないの。わかる?」
「わかるもんか。杉ちゃんのしていることは人権侵害だ!生きてる奴に初めからもう終わりが解ってるような言い方するなんて!」
あのねえ。と、蘭は何を言いたいのかわからなくなるくらい、本当にがっかりしてしまった。
「がっかりするなよ。お前さんだっていずれはそうなるんだからよ。それが早いか遅いかだけの違いなだけじゃないか。」
「だけどねえ、周りの人のことはどうなるの。周りの人は、悲しいし、寂しいし、それは何も考慮したりしないのか。」
「馬鹿だねえ。実に馬鹿だねえ。お前さんは、人間は感情の動物だが、それはなんの役にも立たないことを知らないな。それが役に立つのは、音楽とか美術とか、そっちの世界だけだよ。日常生活でできるのは、それだけの話だよ。」
「杉ちゃん、そうかもしれないけど、それが役に立って、相手の気が楽になるのもまた事実でしょ。だから、それだって、役に立つことをしなくちゃと思うんだけどな。そういつこともあるだろう。」
蘭は、そう言うが、こういう話は無力なのだ。そういうところを、一般的な人は取り違えるのである。本当は、こういうことに対して、人間にできることは、ちっぽけなことだけだったのである。
「まあ、それはしょうがない。さて、うちへ帰って
、明日の一番に、布団屋さんへ行くか。」
蘭はあまりにも悔しくて、歩ければ地団駄を踏んで悔しがった。杉三が、でかい声で、幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだね、なんて歌っているのを、本当は、突き飛ばしてやりたいくらい悔しかった。
さあ、うちへ帰ろう。と、道路を歩いていく杉三がいつでもどこでも明るい声で、平常心のままでいられるのが、不思議だった。
「よし、明日も明るく元気よく!」
蘭は、家に入っていく杉三を見て、本当に杉ちゃんという人は、本当にすごいなあというか、もう人間以外なのではないかと、と、思ってしまったのだった。
蘭は、杉ちゃんの背中を見送ってから、自分も家に入った。家に入ると、どうしょうもなく悲しみと怒りとがこみ上げてくる。蘭はとにかく、あいつに良くなってほしいとしか思わなかった、というより、思えなかった。
不意に、パソコンが音を出した。なんだろう、と思って蘭はパソコンの方へ行く。よく見ると、メールが入っていた。蘭がメールアプリを広げて見ると、あの、渡辺勝代さんからであった。
「蘭さん、お元気ですか。昨日は失礼しました。あんな変なこと言って、蘭さんが気を悪くしたら困るなと思い、もう一回、メールしたいと思って、メールしてしまいました。ごめんなさい。ほんとに失礼いたしました。」
勝代さんは実に誠実だなあ、と、蘭は思った。この人であれば、僕の悩んでいることを聞いてくれるかもしれない。勇気をだして、蘭は、パソコンを叩いて、次のように打ち込んだ。
「僕は元気といえば元気です。健康には何も問題はありません。それでは、と言いたいところですが、なんだか健康な人といえば、いうほど、自分がなんの役にも立たないってことに気が付きました。僕はどうしたらいいのでしょう。そのことで悩み続けています。僕は、今では手も足も出ないのです。僕も何をしてやったらいいのか。」
蘭はここで送信ボタンをクリックしてしまった。あ、なんてまずいんだろうと、思い直す。これでは何について話しているのか、起承転結が全くわからない。単に感情だけを書いただけである。
「あ、ごめんなさい。こんな滅茶苦茶なこと書いて。本当に僕は最近どうかしてますね。ほんとに、すみません。」
と、蘭はもう一度、メールを書き込んで、また送信ボタンをおした。
数分後。
「蘭さんは、少し疲れているんじゃないですか?少しお休みになるといいんですよ。あたしも、少し考えたの。あの、おんぼろ駅に行ってみたい人は、だいたい、何かわけがある人しか行きませんよ。あの、駅に置いてある駅ノートを見れば大体わかるのよ。そうでなければ、あんな駅、誰も行きませんわ。そのくらい、人が来ない駅として、有名な駅だから。」
そうか、地元の人たちもそうやってわかっている駅だったのか。天下一の秘境駅と言われていた理由がわかった気がした。
あの駅に、小さな花壇があったのは、訳ありの人たちをもてなしたり、励ましたりするためのものなんだろう。そういうことなのか。
「ごめんなさい。実はそうだったみたいです。マークさんは、そのためにあの駅へ行きたいそうでした。やっぱり、僕はどうしようもないくらい寂しい気持ちでした。マークさんももっと寂しいと思います。マークさんが、あの時、駅の名を冠した人物がいるということを、言っていたと思いますけど、あれ、本当にそうなんです。彼は、もうお終いだと周りの人間は言いますけど、僕はどうしても彼を、なんとかしてやりたいと思うんす。マークさんは、彼をフランスへ連れて帰るつもりだったみたいで。でも、僕はどうしても、こっちにいさせてやりたいと言って、それはやめてもらいましたが、本当は、マークさんのいう方が、もっと合理的だったかもしれない。今は、そう思ってしまいました。あ、ごめんなさい。こんな変なメール打っちゃって。読んだら、バカの発言として、すぐ、消してください。」
蘭は、やっと初めて本音をうち、送信ボタンを押した。数分後、またメールが帰ってくる。
「蘭さん、お気持ちはとてもよく分かります。あたしだって、主人がいなくなっちゃったら、もうやって行けないもの。女は、旦那さんに見てもらえば、幸せになれるって言えば、そうだけど、それは一時しのぎで、それがなくなったら、もうおしまいなので。まだ、この歳だからいいかって、のんきに考えていたのが間違いだったわ。人間って、突然倒れたり、死んだりするもんなのよ。だから、蘭さんの気持ちはわかりますよ。蘭さん、毎日大変だと思うけれど、頑張って生きていきましょ。うちの主人が、悪くなったらどうなるのか。本当にあたしたちは、何かにぶら下がって行かないと生きていかれないのよ。まあ、不安なのはわかるから、いつでもメール頂戴。待ってるからね。」
「待ってる。」
蘭は最後の一文を読んで、ああ、本当にメールを打って良かったなあと思った。これでやっと、自分の惨めな思いを理解してくれる人間が現れてくれたんだなあと、涙を拭いた。
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