カトレア

増田朋美

そのいち

カトレア

そのいち

今日も蘭は刺青の仕事を続けていた。いつも悩んでいるお客さんの話を聞いて、その悩みが解決できるような図柄を、腕とか背中とか、そういうところに彫っていく。蘭は、隠し彫りはしない主義であるから、彫るとしたら大体そういうところになってしまうのだった。

今日のお客さんは、生まれたときから肩の一部にあざがあって、それのせいでいろいろ不自由なところがあるという女性だった。そのせいで、散々いじめられたため、大人になっても周りの人から何か言われるのではないかという不安がとれないという。蘭はまるでカウンセラーにでもなったようにそれを聞いてやって、そのいじめをつくった原型となっている、あざを消すために、華やかな色を使った、カトレアの花を入れてやることにした。それを思いついて、それでは、と、彼女の肩に針を刺し、まず輪郭線を描く筋彫りをして、そして、ぼかしを行う。大体刺青師の料金というものは時間制で、一時間とか二時間とか、どのくらい施術したかで料金が決まる。蘭も、もちろんそうなのだが、今日は彼女に二時間施術して、施術料金二万円を受け取って、仕事が終わるのであった。

まだ、二時間突いただけでは、完成には至らなかったから、蘭は来週もう一回来てくれと言った。大体手彫りは、二時間では終わらない。少なくとも、10回は刺青師の元に通う必要があった。蘭は機械彫りができない。昔ながらの手彫り。他の刺青師たちが、手彫りをどんどんやめて、機械彫りに移行しているのに対し、蘭は、手彫りを捨てるという気にはならなかった。時折、手彫りをして、時代遅れだと言われることもあるが、それは気にしないでやっている。昔の刺青師は、総身彫りだって手彫りでできたんだ。同じ日本人なんだから、手彫りでやったっていいじゃないか。馬鹿にするもんじゃない。と、蘭は頭の中で思っている。

「じゃあ、先生。ありがとうございました。あの、あたしのくだらない愚痴を聞いてくれて、ありがとうございました。」

と言って客は、ぺこんと頭を下げた。

「いや、構いません。いくらでも愚痴を言ってください。」

蘭はそういうようにしている。それでいいと思っている。でも、なんだか、社会からいじめられたり見捨てられたりしてしまった人たちの愚痴を聞いてやるだけで、彼女たちがその原因としている傷やあざなどを刺青をして消してやって、いったい僕は何をしているんだろうと思うこともある。

「それでは、うちへ帰りますが、来週こちらへ来るのを楽しみにしています。」

客はそういって、玄関から、外へ出ていく。蘭は、客が帰ってくるのを見送りながら、大きなため息をついた。

一方、蘭の妻アリスは、助産師として、仕事を続けていた。新しい命の誕生を助ける仕事として、色んな家を訪問して、赤ちゃんを取り上げている。そういう関係は、非常に長続きするもののようで、出産後も、若いお母さんたちが、時折彼女に赤ちゃんを見せに、蘭の家を訪問するときがあった。

ピンポーン。

蘭が、仕事場で下絵を描いていると、インターフォンが鳴った。

「はい、どちら様ですか?」

「あの、アリスさんいますか?」

相手は、ある若い女性であった。

「あ、いま別の女性のところに行ってますが。」

「そうですか。ちょっと聞いてほしいことがあって、来させてもらったんですけど、また明日にしますね。忙しいなら。」

と、彼女は言う。

「もし、用件わかるなら伝えておきましょうか?」

と、蘭が言うと、

「ええ、ちょっとうちの息子について相談したかったんですよ。なんだかミルク嫌いがひどくなっちゃって。どうしたらミルクを飲んでくれるようになるか、それを聞きたかったの。」

と、彼女は言った。

ミルク嫌いか。赤ちゃんが、だんだんに成長してきてお母さんに反抗するようになってきたのか。それが体験できるなんて、お母さんも幸せじゃないか。それを悩むなんて嬉しいことだよ。蘭は、そう思った。

「そうですか。じゃあ、帰ってきたら、アリスに連絡させるように言っておきます。すみません。今日は、まだ帰ってこないと思うので。」

「わかりました。ごめんなさい。忙しいのに。」

若いお母さんは、にこやかに笑って、家に帰っていく。それでは、と、蘭は、玄関のドアを閉めて、仕事場に戻った。なんだか、若いお母さんの話を聞いてやるほうが、社会からはみ出た人間の世話をする事よりもずっとよいじゃないかと思った。僕は、社会的に言ったら、偏見が強くて何も役に立たない仕事をしている。アリスは、赤ちゃんの誕生という、人生の最も大きなイベントに立ち会っている。あーあ、全く。僕の人生は、ダメな人生だなあ。

蘭は下絵を描きながら、そう考えていた。

ピンポーン。

またインターフォンが鳴った。

「すみません、伊能さん、郵便です。簡易書留が届いております。」

あーあ、全くうるさいなあと蘭は思いながら、玄関先にいった。

「あ、はい、ありがとうございます。」

蘭は、配達員に言われた通りのところに印鑑を押した。それではとそそくさと帰っていく配達員。蘭は、呆然としてため息をついた。

郵便物のあて名は、蘭だった。女の手による筆跡だった。差出人を見ると、渡邊勝代と書かれていた。蘭は封を切って読んでみる。

「前略、この間は私の個展にいらしてくださって、ありがとうございました。拙い作品ではありましたが、批評してくださってとてもうれしかったです。これからも刺青師として、頑張って行きますので、蘭さんも頑張ってください。また名寄にも遊びに来てください。今度は、もっといい、観光名所とか、案内します。」

蘭は、ただのお礼状か、とすぐに捨ててしまおうと思ったが、その手紙を捨てることができなかった。なぜかしまうことができなくて、机の引き出しにしまった。その封筒には手紙のほかに、記念にもらってくれと、カトレアの描かれたしおりが入っていたのだ。そのしおりの裏面には、彫かつ、という名前と、彼女のメールアドレスが記されていたのである。


その翌日の事である。

蘭は、今日も杉ちゃんにせかされて買物に行った。

「よし、今日も、これで仕舞だ。明日又製鉄所に行こう。水穂さん、まっているからな。」

杉ちゃんは、そんなことを言い始めた。蘭はなんだか嫌な気持ちになる。自分が杉ちゃんをこの店に連れてきたのに、杉ちゃんの頭の中には、水穂の事しかない。自分の事も少しは気に掛けてくれればいいのに。何でみんな僕の事を置いてきぼりにするんだよ。

とりあえず、杉ちゃんがお金を払うのを手伝って、後は、特に会話もなくタクシーに乗って、自宅へ帰った。杉ちゃんの家に行っても、すぐに杉ちゃんのスマートフォンが鳴って、杉ちゃんは誰かと話しだしてしまうのだ。蘭は例も言われずほったらかしのままだ。

「おう、わかったよ。全くなあ。もうなんでご飯食べる気がしないんだろうな。もし、大変ならちからづくでも食べさせなくちゃ。ああして吐き出されても毅然とした態度をとってろ。」

電話の相手はおそらく製鉄所の利用者だろう。時に気の弱い利用者は、水穂が食べられずに吐き出してしまった吐瀉物を見て、びっくりしてしまい、こうして電話をよこしてくるのだ。

「本当にな。もう吐き出しちゃうのは当たり前だから、もうなんとしてでも食べてもらうように、多少怒ってもいいよ。」

水穂もそれだけ悪くなったか。つまり、食道の硬化が進行して食べ物を飲み込めなくなったのだろう。蘭は、自分は何ができるんだろうか、と、大きなため息をついた。

僕は、何も、できないんじゃないか。水穂の事をこれだけ心配しているのにも関わらず、製鉄所に出入りできなくなってしまったし。水穂にも何もしてやれない。何かしてやりたい思いは十分あるのに、、、。

「じゃあ、わかったよ。とりあえずそっちに戻るわ。水穂さんのご飯はそこで保留にしといてくれや。」

杉三はそういって電話を切り、

「おい、蘭。これでタクシー会社に電話してくれ。水穂さんどうしてもご飯食べてくれないんだって。もう、力づくでも食わせなきゃ。もう一回行ってくるよ。」

と、蘭にスマートフォンを渡した。

結局、自分にできることはこれしかないじゃないか。

蘭は、渋々タクシー会社に電話して、タクシーを呼び出す。

数分後、蘭が呼び出したワゴンタイプのタクシーが杉三の家の前で止まった。礼も言わないで杉三は運転手に手伝ってもらいながら、それに乗り込む。蘭は、そのさまを黙って見送った。

一人になると、蘭はどうしようもない寂しさが込み上げてきた。アリスに相談しても、意味はないことは知っていた。アリスは、忙しい女で、蘭がちょっと聞いてくれと言っても、全く反応しないで仕事をしている。赤ちゃんは規則的にやってくるものじゃないから、突然呼び出されることも結構ある。最近は、病院で出産したがる人が、減ってきていて、自宅でお産をしたい人が結構多く、また高齢出産も多いので、油断大敵なのだ。

誰にも相談できないか、、、。

蘭はこの気持ちを誰かに伝えたかった。でも、そんなことができる人は誰もいない。カウンセラーでも雇おうかと思うが、そのようなことは、お金がかかりすぎる。

蘭は、下絵の続きでもやるか、と仕事場に戻った。絵具を取り出そうと、机の引き出しを開けたその瞬間、小さなカトレアの花が目に飛び込んでくる。

おもわずそのしおりを手に取ってみると、裏面に彫かつという名前と、メールアドレスが書いてあった。

理由なんてわからない。でもとにかく話を聞いてもらいたくて、蘭はスマートフォンを取り、そのアドレスを、メールアプリに打ち込み始めた。

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