00-02 思い出を胸に秘めて

 そして果たして、翡翠亭はあった。

 草木に覆われ、いや、草木が生い茂り、建屋の跡など見る影もなくなった跡地が。よく見れば、-HISUITEI-と装飾された、塗装のはげ落ちた看板が転がっていた。アイは魔導二輪を降り、その看板を見つめる。錆びていた。手に取る。予想以上に重かった。表面を撫でる。ざらざらして、表面をなぞると褐色の板が剥がれ落ちた。看板に水滴が落ちる。ポタ、ポタと。いずこからか、水滴が落ち、染み、それは表面を濡らした。

 アイは看板をそっと置くと、辺りを見回す。陽光。マスターと来た時と、変わらぬお日様の光だ。アイは地面にキラリと輝くものを見つける。駆け寄った。陶器のカップ。掘り出す。傷つけないように、そっと、そっと掘り出す。それは美しく見事に装飾されたカップだった。


『君は良い趣味をしているね』


 ふと、マスターの言葉が聞こえたような気がした。


『私、人の手で作られたものが好きなんです』


 気が付くとアイは呟いていた。あの時、マスターと共に翡翠亭の窓辺で紅茶を楽しみながら、語り合った言葉の切れ端。


『どうしてだい?』

『だって、温かい……人の温かみが伝わるじゃないですか。手間暇かけて煎れた、この紅茶のように』


 アイは思い出す。液体がアイの頬を濡らし、乾いた地面を程よく湿らせた。

 どのくらい立ち止まったままでいたであろう。

 アイはふと、山の方を見る。


 白い煙が立ち上っていた。アイの知識に誤りがなければ火の気配。それはすなわち人の使う技。

 アイは魔導二輪を起こすと、山に向けて駆けあがる。


 ◇


 マスターとの再会を期待していなかったと言えば嘘になる。

 そして果たして、それは実現されなかった。しかし、再会は再会だ。別の人物との再会。

 銀河鉄道「きぼう号」の喫茶車両、琥珀亭に来た老人との再会となる。


 彼は薪を燃やして飯を炊いていたのだ。


「お爺さん」

「お爺さんは良してくれ、誰かと思えば娘さん」


 老人は咳払いした。


「アイと申します、お爺さん」


 アイは背筋を伸ばし、居住まいを正すと深々と一礼する。


「なら私はサワムラだ」

「はい、改めまして。サワムラ様」


 サワムラがアイの顔を覗き込む。すると、怪訝な顔をしてみせる。


「目尻が赤くなっている。泣いていたのかい? 娘さん、おっと。アイさん」

「あ……これは……私、泣いて……」

「ネットにダイヴして繋がってごらん。この地球に何が起きたか分かるから。どうやらアイさんは知らなかったようだね」


 アイがネットに繋ぐまでもなく、サワムラが地球に起こったことを語り出す。

 サワムラは、飯ごうからアイにと、ご飯とみそ汁を分けてよそってくれた。

 白飯とワカメに油揚げ、小さく豆腐の入ったインスタントのみそ汁だ。

 墨炊きの香ばしさがアイの鼻腔をくすぐる。食欲を刺激したようで、ぐぅ、とお腹が鳴った。


「地球の人たちはマナの枯れ切ったたこの星を捨てたんだよ」

「マナ……世界の持つエネルギ―」


 焚火が爆ぜる。赤々と薪は燃えていた。


「古い歴史ある地上世界だ、地球は。人の利用できるエネルギーを、人々は枯れ尽くすまで吸い出したんだ」

「だと言って、星を、故郷を捨てるだなんて」


 アイには納得がいかない。とはいえ、アイには故郷と言える場所はなかったが。


「太陽を見てごらん。そして大地を見てごらん。かつて、人間にとって世界は太陽と大地、この二つだけだった。ところが、今はどうだろう」

「まさか、銀河鉄道……」


 銀河鉄道株式会社は、人類発祥の地である地球から多くの人間を大宇宙に送り出した。開拓者として、移住者として。


「そう。地球の人々は枯れた故郷を捨てて、みな宇宙に乗り出した。見知らぬ、誰の手にも入ったこともない理想郷を夢見て」

「でもマスターは、私に琥珀亭で待っていろと! あの銀河鉄道「きぼう号」の琥珀亭で待っていろと言って旅立たれたのです!」


 アイの目から今日何度目になろうかという涙が一条、またしても零れ落ちる。


「ならば、待つがいいさ。彼が宝と土産話を山ほど持って帰って来る日を夢見て待つがいい」


 決して突き放すではない。サワムラは優しくアイに告げたのだ。


「え?」


「アイさんも、そのマスターという人に聞かせてあげられるだけの数多くのお話を他のお客から聞いて、日記にでも付けておくと良い。いつの日か、マスターさんが帰ってきて、アイさんの日記を興味深く眺められるように」

「私が、みなさんからお話を聞いて、その旅行記を日記に付ける……」


 アイが噛み締めるように反芻する。


「アイさんが聞き出すお客たちの人生の切れ端は、全てアイさんのものだ。だから、全てアイさんが好きにしていい。アイさんの思い出として、そのマスターという人に聞かせてあげることが出来るように」

「サワムラ様……」


 アイの目には自分の将来の姿が見える。今までたくさんのお客と話をしてきた。だが親身になって、自分のことのように、まして自分が追体験するような気持ちでお客の話を聞いたことがあっただろうかと思うと、自分の至らなさに恥ずかしくなる。


「私も技師として色々な所へ行った。ネットでは知っていたけれども、本当に本当に故郷が、こんなことになっているとは思わなかった。私も本当に驚いている」

「私も驚きました」


 とアイ。


「私はもう老いた身、旅の中に生き、旅の中で死するとしよう。私は今度の銀河鉄道超特急「きぼう号」オリオン座馬頭星雲行きに乗るよ。アイさん。琥珀亭の常連になっても良いかい?」

「もちろんです、サワムラ様! またのお越しをお待ちしております!」


 アイは折り目正しく、堂に入った礼をサワムラに深々として見せたのである。


 ◇


「アイ!」


 弁当売りをしているマリアと目が合った。アイは魔導二輪を今、貨車に入れてきたところだ。


「一週間あったのよ? ギリギリなんですもの。今回、アイは間に合わないかと思ったわ」


『銀河超特急「きぼう号」オリオン座馬頭星雲行きは一番ホームより発車致します』


「マスターとの思い出の場所を、ぎりぎりの時間まで堪能して来たのよ」

「あなたが言うマスターって、男前だったの?」

「それはどうかしら。ただ、私にとっては大切な人で、大事な方よ。──って、もしかして、今度の便には乗車されてあるの!? マスターが来られたの!?」

「乗務員名簿にそれらしい乗務員の名前は無かったわ。うん、無いわね」


『発車予定時刻は銀河標準時五月八日零時〇分。現地標準時五月八日零時〇分。』


 空間パネルをマリアがさっと操作すると、乗務員の顔と名前、そして略歴が流れては消えた。


「残念。本当に、残念」


 アイが自分の涙がこぼれぬように、上を向いて答える。


『まもなくの発車です。ご乗車を予定されてあるお客様は、取り急ぎご乗車願います。』


「アイ?」


 訝しがるマリアに、アイは元気に答えて見せる。


『なお、駅のホームは禁煙です。ご乗車の際には列車と駅のホームの隙間にご注意ください』


「ううん。今度の旅も、よろしくねマリア! 清掃の腕には期待してるから」

「あたしが磨く窓には星が輝いて、手すりには芳香すら漂うのよ? 期待してくれていいわ!」


 アイとマリアが車内に消えて、ホームに発車ベルが鳴り響く。

 列車のドアが、音を立てて閉まった。


 ◇


 喫茶車両、琥珀亭。

 今、美しく絵付けされた陶器のカップを磨く娘の姿がある。

 娘の名前をアイと言い、その地球産の陶器の地はどこまでも白く、地球光を受けて青身を帯びて照り返す。


「アイさん、来たよ」

 老人のしわがれた声に、娘、アイの垢抜けた声が追って重なる。


「いらっしゃいませ、琥珀亭へようこそ!」


 宙間軌道を列車はひた走る。

 今、まさに銀河鉄道の旅が始まる。

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