闇の中の樽
苦艾たまき
第1話
黒い。
霧さえ、大地さえ。彷徨う鍵棒を携えた
闇だ。
広大な闇の中。
濃密な霧と、腐敗臭のする大地。
少女は虚ろな銀色の瞳で闇世界を見渡す。
視界に入るのは、無数の樽。
樽は何らかの樹木を切り出し作られたものだろうが、樹皮が所々張り付いている。
少女の手前に置かれた樽はまだ真新しく、甘く苦い樹香が彼女の鼻腔をくすぐる。
奥に行けば行くほどに、樽は苔のような白黴のような粘着性の植物に覆われている。
気づけば此処にいた。世界は此処にしか存在しない。少女の全ては闇と樽と鍵棒だ。
錆びついた己が背よりやや高い鍵棒を引きずりながら少女は真新しい樽の合間を抜けて、古びたそれらの元へと歩む。
纏う布に樽に張り付いた粘着物が張り付かないようにしたいが、奥に進めば進むほどに白い苔が樽に蔓延る面積は広がるので、奥に行けばどうしても、ここぞとばかりに彼らは樽から少女へと居を移す。
張り付くと地に擦り付けてもなかなか取れない上、大地の腐臭とはまた違う少女が苦手な臭いがする。
それでも行かなければならないのは、生きるために他ならない。私は生きなければいけないのだ。
今日、頭に浮かんだ数字は86524。
一番新しい樽は175249633だったから、だいぶ奥の方になる。
1じゃないだけまし…と、ため息を漏らし、少女は白い粘着物まみれになりながら、樽と樽の隙間をゆっくりと歩いていく。
目的の樽は予想通り真っ白になっている。
「ああ、吐き気がする」
少女の乾燥し乾涸びた唇は引き結ばれたままだったが、水琴窟の響きに似た音で闇に響き渡る。
少女は蹙めた顔をしながらも鍵棒を両手に携え目的の樽に一礼した後、縦に持ち直し刀を振り下ろすが如く鍵棒を樽に叩きつける。
苔を飛び散らせ、樽の蓋がまっぷたつに割れる。ずさんな作りの割に樽自体が無事なのは少女が非力なのか、見た目より丈夫なのか。
樽の中を覗くと、葡萄色の液体が溢れんばかりに入っている。
少女はまず樽に顔を突っ込み、中身を嚥下する。次に襤褸布を脱ぎ捨て、足を入れ頭まで肉体を浸す。
呼吸は必要としない。瞳を開いても痛みなどない。口腔に無遠慮に流れ込んでくる液体に無抵抗のまま受け入れる。
体の中に液体が満ちたあたりで少女は夢を見る。
生を受け、訳もわからず泣き叫んだ。
母親と思しき女と父親と思しき男に餌と運動と教養を得て肉体は成長した。
親以外の、血の繋がらない生き物たちと共生し成長して成人した。
コンクリートという灰色の物質を固形にした建物が乱立する場所で、機械の箱に何かを打ち込む仕事をしている。
仕事をしながら泣いている。机を開ける。
いくつかのカプセルや錠剤を口に投げいれ、水で流し込むと涙が少し止まる。
しかしそれらさえ涙を制御することができなくなった時、建物を飛び出し食べ物を買いあさり、全てを胃の中に押し込んだ。
その足で建物に戻るが、屋上への階段を歩み、柵を手にしたところで少女は立ち上がった。
樽は空になり少女も満たされる。
襤褸布を纏い、次に頭に浮かんだ数字の赴くまま、彼女は彷徨い樽を開け、葡萄色の液体に身を浸す。
繰り返される日常。
数字が浮き上らなくなれば少女は樽の中で意識を失う。
目覚めれば同じことを繰り返すだけだ。
今日もそろそろ終わるのでは、と少女が目算した時に浮かんだ数字は48。
嫌な臭いの苔が沢山こびりつくと思うとうんざりするが、古い数字は大抵日常作業の最後を意味するため、我慢はできると思った。
たどり着いた時、纏った襤褸布ばかりでなく体のあちこちにまで、ねっとりと白い粘着物まみれになっていた。
此処まで汚れたのは初めてだった少女は、肌についた粘着物を出来る限り払う。
口の中にこれが入るのは最悪だからだ。
出来る限り払い落としてから、彼女は鍵棒を振り上げ樽の蓋を割り、液体を飲むために樽を覗く。
中には液体はなかった。
銀の髪に銀の目の少年が膝を折り曲げて少女を見上げている。
少年と目があった時、少女の喉がゴボゴボと音を立て葡萄色の液体を少年に向けて噴射する。
どこに入っているのかと思えるほどの大量の液体を吐き出しながら少女は頭の中に図像が浮かぶ。
下品で鮮烈な光が眩しい外を見ながら、母親の愛人に殴られ蹴られ犯されて死んだ自分の走馬灯。
瞳から鼻腔から口腔から、ありとあらゆる排泄可能の部分から、少女は葡萄色の液体を吐き出しきって、肌色の皺びた皮になる。
少女の液体を浴び、それを吸った少年は立ち上がり、少女の皮をマントのように羽織って鍵棒を掴んでまた樽の中に腰を下ろして瞳を閉じる。
黒い。
霧さえ、大地さえ。彷徨う鍵棒を携えた襤褸布纏し白い貌の少年の呼気もまた。
闇だ。
広大な闇の中。
濃密な霧と、腐敗臭のする大地。
少年は虚ろな銀色の瞳で闇世界を見渡す。
視界に入るのは、無数のーー樽。
闇の中の樽 苦艾たまき @a_absintium
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