第4話
老女はトレーに花模様のポットとカップを載せて戻ってきた。
「お待たせしました。私の最近のお気に入りのお茶ですの」
芸術品のように繊細な装飾が施されたポットから、紅茶色の液体が注がれる。
(……紅茶、ですか。ツアレが好んでいたのも、たしかこの香りでしたね)
香りは柔らかく、渋みはなく、雑味もない。
セバスは目を細めて一口含んだ。
「ありがとうございます。……ええ、香りが華やかで素晴らしい」
老女は胸を押さえるようにして、小さく笑った。
「よかった……お気に召したなら安心です」
彼女の瞳に宿る期待の色を汲み取り、セバスは街で買ったパンを袋から取り出す。
「実は、こちらで手に入れたパンがあります。少し形は崩れてしまいましたが……お茶に合いそうです。ご一緒にいかがでしょう」
「まぁ……! いいのですか? お手伝いしていただいたうえに、パンまで……」
老女は遠慮しつつも頬を綻ばせ、花柄の皿に載せられたパンを口にした。
ひと口、ふた口。
「……美味しい……」
瞳がうるみ、唇が震える。
「お店のパンをいただくなんて、何年ぶりでしょう……人と会うのも避けていたから……」
涙を流しながら味わうその姿に、セバスは微笑みを崩さずに説明を添えた。
「このパンは“塩パン”と呼ばれているそうです。生地の中に仕込んだバターが焼くことで溶け、香ばしい香りと共に豊かな味わいをもたらす……と」
「……涙のしょっぱさかと思ったけれど……違ったんですね」
老女は目を赤くしながらも笑みを浮かべた。
――しばし、紅茶とパンを分け合い、穏やかな時間が流れた。
だが、ふと老女が遠くを見つめる。
「……こうしておしゃべりをしながらお茶をいただくのは、やはり良いものですね」
口元は笑っているのに、声音はどこか寂しげだった。
セバスはその違和感を逃さず、穏やかに問いかける。
「いつも、このようにお茶会をなさるのですか?」
想定していた答え――家族を失った記憶や孤独の吐露。
だが返ってきた言葉は、意外なものだった。
「……私は、人間が嫌いなんです。もう十年以上、人間と会話らしい会話をしていません。今日のお茶会も、それだけでとても久しぶりでした」
セバスの瞳がわずかに細まる。
「……そうでしたか。これほど穏やかなひとときを過ごせたので、少々驚きました」
老女は微笑みを消し、まっすぐ彼を見据える。
「気になりませんか? 人間嫌いの私が、どうしてあなたをお茶会に招いたのか」
「……そうですね。理由を伺ってもよろしいですか?」
「ええ。――旦那様。あなた、人間ではありませんね?」
老女はぐっと顔を寄せて、囁くように言った。
セバスは微笑みを保ちながら、背筋を正す。
「……なぜ、そのようにお考えに?」
「……私には才能があって、相手の力や魔力の気配を“見てしまう”んです。若い頃はマジックキャスターをしていましたから、間違いありません」
先ほどまでの柔らかな表情が影を帯び、声は低く沈む。
「……長いこと黙っていて、ごめんなさい。でも敵意はありません」
その告白に、セバスは一拍置いてから頷いた。
「真実を語ってくださり、感謝いたします。では――私からも一つ、質問をよろしいでしょうか」
老女は紅茶を揺らしながら、遠くを見つめていた。
「……この家の下に何があるのか、気になっているのでしょう?」
セバスの目が細められる。
「……やはり、気づかれていましたか」
老女はかすかに笑い、指先で床板を指す。
「耳の良い方なら、もう分かるはずです。かすかな空気の流れ、湿った匂い……。ここには、もう一つの部屋がある」
セバスは穏やかな表情を保ちながら、視線を床に落とした。
(……やはり地下室か。……しかし、この気配……単なる貯蔵庫ではありませんね)
確かに、土の匂いに混じっている。
鉄と、薬品の残り香。
そして――何かが息を潜めている気配。
「……この地下に、何があるのですか」
静かに問う声に、老女の肩がわずかに震えた。
「……隠すつもりはありません。けれど……信じてもらえるかどうか」
老女はゆっくり立ち上がり、部屋の奥へ進む。
床の一角、布切れをどけると古びた木の蓋が現れた。
金具は黒ずみ、しかしつい先ほど開け閉めしたばかりのように土埃が薄い。
セバスは椅子を離れ、立ち上がる。
「案内していただけますか」
老女はしばし逡巡し――やがて、諦めたように小さく頷いた。
「……もちろんです」
蓋が開かれる。湿った空気がふわりと上がり、薄暗い階段が口を開いた。
その奥から漂ってくる気配に、セバスの眉がほんのわずか動いた。
(……この気配は――人間? それとも……)
静かに呼吸を整え、セバスは階段を見下ろした。
紅茶の香りがまだ室内に漂う中、緊張がじわじわと張り詰めていく。
セバスは表情を引き締め、真っ直ぐに問いかける。
「ひとつお尋ねしたい。……この家に入った時から、妙な気配を感じております。何か魔法を施しているのではありませんか?」
老女は小さく目を見開き、やがて手を叩いた。
「さすが旦那様。あの微量な魔力に気づくとは……」
「いや、私より魔法に通じた方は数多おられます。気のせいであればそれに越したことはありませんが、気になりまして」
(……できることなら、これ以上人間を害する理由は持ちたくない。だが、隠し事があるならば――)
――助けた相手を、自らの手で殺さねばならなくなる可能性。
――紅茶を淹れてくれた者を、危険と見なして斬るかもしれない現実。
人間という種は、かくも脆弱で、そしてかくも不可解である――セバスは無表情の裏で思索を巡らせていた。
老女は膝の上で拳を握りしめ、意を決したように語り出した。
「……私は、人間が怖いのです」
セバスの眉がわずかに動く。
「……人間が、人間を?」
「ええ。あなたには分からないでしょうけれど。私は人間でありながら、同じ人間が恐ろしくて……そのために家に魔法を掛け、隠れて暮らしているのです」
セバスは一瞬の沈黙の後、穏やかに頷いた。
「なるほど……。詳しくお聞かせ願えますか」
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