25話目 日向になってくれた人
「ふーん、なるほどねぇ……。それで、オジさんに話を聞きに来たってわけかー」
いつもの居酒屋で、庄司は軽薄そうな笑みを浮かべながらジョッキのビールを飲んでいる。それとは対照的に、垣村の口数は少なく、また表情も明るくはない。頼んだ飲み物にもあまり口をつけず、軽く俯いて縮こまっていた。
「まぁ確かに、しょー君には荷が重い話だねぇ。その空気の中連れ出したっていうのは、ちょっと驚いたけど。いやー、男の子の成長を見守れるのは大人の特権だねぇ」
「……翔多が連れ出してくれなかったら、どうなっていたのか……。想像できないし、したくもないです」
皆の視線が集まる中、どういった答えにせよ口にしてしまえば、追求を逃れることはできなかっただろう。断れば笹原は逃げ出したかもしれないし、そうなればクラスの皆から詰め寄られたことだろう。逆に頷いてしまえば、今度は笹原が何か言われていたかもしれない。
……ちゃんと答えを出せなかった自分も悪いのかもしれないけれど。でもあの場面で、どうしたら良かったんだ。
「カキッピーは何も答えられず、半ば逃げる形で答えを言わなかった、と」
「……意気地無し、でしょうか」
「いやぁー、そうとも言えないよ? オジさんはむしろ、その場しのぎや、雰囲気にのまれて答えを言っちゃうより……ちゃんとその場で答えなかったカキッピーを尊敬するけどねぇ」
庄司の言うように、あの瞬間教室には悪い雰囲気が立ち込めていた。息の詰まるなんてものではない。この場で答えなかったらどうなるのかわかってるだろうな、と脅されているような感覚さえあったのだ。
悩み続けている中、そんな脅迫に手を引っ張られることなくその場で踏ん張り、答えを言わなかったのはある意味正解だと庄司は言ってくれる。西園が助けてくれなかったら、もしかしたら答えていたんじゃないのかと不安もあるが。
「……迷ってて、訳わかんなくて。答えなんて見つけられなくて。本当に、どうしたらいいのか……わからないんです」
「カキッピーは、何を悩んでるの?」
「何をって……それ、は……」
庄司の質問に答えようにも、どうにも言葉が出ない。何を悩んでいるのか。園村の境遇について。笹原の過去について。彼女たちの気持ちについて。けれど、考えれば考えるほど沼にハマってしまう。思考に靄がかかるように、心のどこかで考えることを諦めようとしている自分を感じていた。
「ようするに、カキッピーは壊したくないんだ」
間延びしない声に、垣村は視線をあげる。庄司の目つきは鋭く、その口元は笑みすら浮かべていない。今まで見た事ないくらい真剣だった。
ちゃんと考えてくれている。答えを探してくれている。それにどれほど……救われたことか。今までだってそうだった。何度も何度も、彼の言葉には助けられてきた。何気ない言葉であっても、行動であっても、垣村にとっては嬉しく思えるものばかり。人と関わる、というのはこういうことなのだ。
「園村ちゃんの過去も、笹原ちゃんの罪も。そして二人の今を、君は知っている。お互い、成長しただろうねぇ。それでも、過去の遺恨はなくならない。罪は償っても消え去りはしない。それでも……二人を傷つけたくはない。その方法を探しているんじゃない?」
「……そうなのかも、しれません」
「だとしたらハッキリ言うよ。そんなことは無理だ」
キッパリと、彼は答えた。垣村だってわかっている。そんな方法が見つかったらいいなと希望的観測に縋っていただけだ。
自分の将来に、光をくれた人。自分のために、泥を被った人。そのどちらも、垣村にとっては大切なものだった。だから傷つけたくはない。
(……そんなもの、ないのに。逃げてばかりだ)
机の下で両手を握り締める。また俯いてしまった垣村を、庄司は真面目な顔のまま見つめ続けた。そしてビールを飲んで喉を潤したあと、また言葉を紡ぎ始める。
「君には選択肢がある。園村ちゃんの気持ちに答えるのか。笹原ちゃんの気持ちに答えるのか。そのどっちにも答えずに、逃げたっていい」
「……逃げる、ですか」
「そう。答えたくないんだったら、皆傷ついちゃえばいい話だよ。それが嫌なら園村ちゃんか笹原ちゃんを説得してみる?」
「それは、無理……です」
「だよねぇ。オジさんも無理。だったらもうさ、どれ選んだっていいじゃない?」
食べ終わった焼き鳥の串を、皿に突き刺すようにカツンッ、カツンッと音を立てる。串の先端が徐々に上がっていき、垣村の視線を釘付けにした。その奥側に見える庄司の口は、浅く歪んで笑っている。
「どれを選んでも、君は後悔するよ」
後悔しない選択なんてものはない。彼女たちの気持ちに答えても、答えなくても、例えその一瞬が幸せな感情に包まれたとしても、後悔する。誰も傷つけない選択肢はない。
「だったら、俺は……」
「どうすべきなのか、って? そんなの、オジさんに聞くべきものじゃないと思うけどねぇ」
やれやれとばかりにため息をついて、庄司は左手で頬杖をつく。流し目で見つめるジョッキの中のビールは、少量の泡だけを残してなくなっていた。積まれた氷が、カランと音を立てて崩れる。
「人間、生きてるうちに選択を迫られる機会なんてごまんとある」
ジョッキの中にはもう氷以外何も入っていない。ジョッキを傾けて、残された氷を口の中に含んで噛み砕いていく。頭が痛くなったのか、一瞬庄司は顔を顰めたが、氷を食べ終わるとまた垣村を見て話し出した。
「選択する時間があるならいい。けど、どうしたってその場で答えなくちゃならない時がある。その場しのぎで何とかしようとしても、失敗だとか、後悔だとか、そういったものが残ってしまうものだよ」
「……庄司さんにも、あったんですか」
「あぁ、そりゃもうしょっちゅうね。そんな時どうすればいいのか。オジさんは決まって……噛み砕いて、自分の栄養にしてきたよ。それでも、何でもかんでも噛み砕けるかと言ったら大間違いだ。自分なりにやって、その果てに残ってしまったもの。それだからこそ噛み砕けるものなんだよ。オジさん、これでもやる時は一生懸命だからね」
細められた目は優しく開かれ、口元も緩やかにカーブを描く。楽はしたいけど、怠けたくはない。そう言った彼は、やる時はやる男だったのだろう。今もこうして、正面切って話してくれるのだから。
「選択を迫られた時の判断材料は、自分の過去や経験。それらが判断するに足りないと言うんだったら……神さまの言うとおりでもするか、自分の心に従うしかないと思うんだよねぇ」
優しげな顔のまま伝えてくる庄司に対して、垣村も顔をそむけずに向かい合う。その態度を見て、庄司は更に笑みを深くして言ってきた。
「君の判断材料は、ちゃんとあるよ。君の過去をよく思い返して決めればいい。最悪頭でもなんでも下げればいいんだから。大事なのは……君がどうしたいかだよ」
自分の過去。自分がどうしたいのか。
確かに、園村の恨みはもっともだ。笹原を糾弾しても悪く言うことはできない。それに、自分がファンであると伝えてくれて、花火にも一緒に行って、誰に見られても恥ずかしくないと言ってくれた人だ。
対して笹原は、出会いは最悪で、一緒にいるところを見られたくないと思っていて、嘘をついた。
暑い中で必死に汗を流し、いるかもしれないという一筋の希望に縋りながら走ってきた。塾の時間すら知らせていないのに、彼女は垣村を探し出した。そして……恥晒しになろうとも、皆の前で告白してくれた。
一緒のイヤホンで音楽を聴いて、顔が熱くなって。笑う彼女を見てかわいいと思って。塾のある日が少しだけ楽しみになった。
全て事実で、過去のこと。思い出す度に胸が締めつけられるような、自分にはもったいないくらいの日々だ。
「……答えは決まったかい?」
庄司の言葉にすぐには答えられなかったが……垣村はゆっくりと頷いて、知らぬ間に込み上げていた涙を流しながら笑った。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
日曜日の昼下がり。照りつける太陽の暑さもそこまで鬱陶しくは感じなくなってきていた。相変わらず人気のない、雑草ばかりの公園には垣村を除いて誰もいない。時折道を通り過ぎる人たちがポツンッと立っている垣村を見てくるが、そんな人たちの視線を気にする余裕は彼にはなかった。
(……正しい答えなんて、多分ないと思う)
過去はなくならない。今を生きる自分にできるのは、今を頑張ることだけだ。その頑張るための勇気や自信なんてものは、最初から持ってるわけじゃない。全部過去が後押しして生まれるものだ。
灰色の日々だと思っていた。自分には澄み渡る青空の下で咲く桜のように、綺麗な恋はできないだろうと諦めていた。芽吹いた雑草のように、青いまま踏み潰されて枯れてしまうものなのだと。だというのに、まさかこうして気持ちを伝えるために人を呼び出すだなんて、あの日々からは考えられない。
どこか懐かしい感覚に襲われながらも、垣村は公園で待ち続ける。奇しくも、立っている場所は以前彼女が地面に斑点を作り続けていた場所だった。今更ながら、誰にも襲われなくてよかったと安堵の息を吐く。
そうして数分経った頃。後ろの方から土を踏み歩く音が近づいてくるのがわかった。振り向いてみれば……そこにいたのは、眼鏡をかけた女の子。園村 詩織だった。
彼女の表情は嬉しさだとか、そういったものが多いように感じられる。もちろん、緊張しているだろうし、彼女自身気づいているのかわからないが、両手は握られたままだ。
「こんにちは、柿P」
「こんにちは、園村さん。来てくれてありがとう」
「いいよ。それに……待ってるのも、それはそれで心臓に悪いしね」
両手を胸で交差するように置いて、今もまだドキドキしてると教えてくれる。垣村も、未だかつてないほどに心臓は暴れていた。緊張しない方が無理というものだろう。
落ち着くために浅く息を吹いていく垣村を、園村はじっと見つめていた。早く答えを教えて欲しい、と思っているだろう。けれども、まだ答えることはできない。
きっと、彼女は……あの女の子は、この場に近づくことすらできないだろう。そう思って垣村が周りを見回すと……園村が来た方とは別の入口で、乱雑に生えている木に隠れてこちらを見ている人を見つけられた。多分立場が逆だったら、自分もそうなっていただろうなと垣村は苦々しく笑う。
「笹原さん。お願いだから、こっちに来て欲しい」
隠れている彼女にも聞こえるように、垣村は声をなげかけた。一瞬体が固まったようになった彼女だが、恐る恐るといった様子で歩み寄ってくる。そんな彼女を見て、園村は深いため息をついてから垣村に言った。
「……呼んだの?」
「そう、だね。必要なことだったから」
「そっか。告白でもされたの?」
「まぁ……うん。されたよ」
答えるのに少しばかり恥じらいつつ、垣村は近寄ってくる笹原を見続けた。話はできる程度には距離は近くなったけれども、彼女はそれ以上近づこうとはしない。園村に見られて、顔を背けて居心地が悪そうに表情を暗くした。
「笹原さんも、来てくれてありがとう」
「っ……うん」
小さく彼女は頷いて返事をしてくれた。ここから先は、自分が事を進めていかないといけない。正直ひとりひとり個別に答えたかったけれど、そうもいかない。これは二人にちゃんと伝えないといけないことだ。
笹原が逃げなかったように、垣村も逃げずに答えようと気持ちを固めてきたのだから。
「あのさ、園村さん」
「なに、柿P?」
「その、さ。二人と一緒にいる時間が増えて、いろいろと変われたんだなって思う。園村さんに出会えて、また音楽を作れるようになった。将来に悩んでいたけど……今は、そういった方面に進もうかなとも思ってる。こんな自分でも、誰かにとって大切な曲を作れるんじゃないかって。それに、笹原さんと一緒にいたのだって、とても大切な時間だった。じゃないと俺はきっと……何も変われていなかったと思う」
事の発端は、あの雨の日。何か変われるかもしれない。そんなことを無意識にでも思っていたのだろう。傘を渡したあの日から、周りの見え方が少しずつ変わってきたのだ。
笹原と一緒にいて、西園と遊んで、庄司に連れていかれて、園村と出会って。その全てが今の自分を形作るものであると、垣村はわかっていた。
「……柿Pは、どうしたいの? 誰のこと、想ってくれているの?」
園村も先程より表情は明るくない。不安や心配で胸が張り裂けそうなんだろう、と見ているだけでわかった。それでも眼鏡の奥から覗いてくる瞳は、やはり力強いままだ。
対して、笹原はずっとどこか泣きそうなまま。いつか見たような、強気の彼女はどこにも見られなかった。それが彼女の本当なのか、それも含めて彼女なのか。おそらくは後者なんだろう。彼女は本質的には弱く、強く見せようとしていた女の子だった。
「俺は……」
園村への、そして笹原への答え。二人ともその言葉の続きを待ち続けている。園村の射抜くような視線も、笹原の不安げな視線も、それらを受けて逃げる気はなかった。
心臓が脈打つ度に、外に聞こえてるんじゃないかと思えてしまう。まだ口にしてすらいないのに、胸は締め付けられるように苦しい。それでも、この先後悔するとしても……答えるしかないんだ。
「……笹原さんのことが、好きです」
「……えっ?」
名前を呼ばれるとは思っていなかったんだろう。笹原は涙で潤う目のまま、ぽかんとした表情で見てくる。
「……そっか」
園村の声は少しだけ震えているように思えた。見上げていた顔は俯いており、見える顔も泣きそうなくらい歪んでいる。見ているだけで、罪悪感が湧いてきた。わかっていても、辛いものは辛い。どれを選んでも、後悔するのだから……もう止まるなんてことはできないし、許されない。
「確かに、園村さんが言った部分も彼女は持ってる。けど、それでも彼女と一緒に過ごした時間は全部事実で、俺にとってはとても大切なものだった。一緒にいるだけで、嬉しいと思えるくらい、何もないあの時間が好きになってた」
「……時間、か。ズルいよ、そんなの。いつもいつも、全部……アイツらばっかり得してるじゃん……」
園村の言うアイツらとは、彼女をイジめていたトップカーストのこと。いやそれだけでなく、どこにでもいるそういった人たちのことを言っているんだろう。
悔しそうに泣きながら、彼女は顔を上げて垣村を見てくる。
「人をイジめる人なんだよ。そういったことを、するような人なんだよ……?」
「……確かに、そうだね。それは彼女の事実で、園村さんにとっては許せないものなんだと思う。彼女は、悪い人だよ。でも……」
垣村までもが泣きそうになってくる。彼女の訴えに対して、答えなくてはならない。自分の気持ちを、心を。それがどれほど彼女にとって酷であろうとも。垣村はもう、偽ることも逃げることもできないから。
「悪いだけの人じゃないんだよ」
約束を守るために必死になれる人。自分が恥さらしになろうとも、気持ちを伝えてくれる人。彼女はいつだって、怖がりだけれど、必死な人だった。
「それに、好きだって気持ちはそう簡単には変わらない。その過去の事実も含めて、笹原さんに向き合わなきゃいけないと思う。そうしようって思えるくらい、俺は……笹原さんのことを、好きになったから」
「……柿Pは、それでいいの? 周りの人からいろいろ言われて、見捨てられるかもしれないよ」
「しないよ、きっと。俺が知ってる今の彼女は……そんなこと、しないと思う」
彼女の目を見て、伝える。もう何を言っても変わらないとわかったのだろう。両目から流れ落ちる涙を拭きながら、彼女は背中を向けて数歩離れていく。
一緒にいるだけでも辛いはずだ。彼女の気持ちだって痛いほどわかる。それでも、伝えきらないと意味がない。離れていく彼女に向けて、垣村は叫ぶような声で言葉を紡いだ。
「俺のこと、嫌いになってもいい。でも……どうか、俺が作った曲のことは嫌いにならないで欲しい。あの曲に罪はないから。だからっ……」
「……そんな簡単に、好きだって気持ちは変わらない、でしょ?」
さっき言った言葉を返すように、彼女は言う。離れた場所で振り向いた彼女は、もう涙が流れているのかわからない。それでも、無理をして笑っているのはわかる。彼女は優しくて、強い女の子だった。
「好きだよ。志音も、柿Pも、曲も。だから……ちゃんと、約束守ってよ」
「……絶対、作るよ」
「破ったら、怒るからね」
彼女と交した約束。花火大会の日に、曲を作るという約束をした。彼女はそれを待ち続けてくれるのだろう。そしてできたらすぐに、聞いてくれるはず。
好きという気持ちは簡単には変わらない。彼女は自分のことを好きで、そしてそれに自分は応えてあげられない。仕方がないで済ませられないけれど、でも事実として……彼女も大切な人だった。好きな人が笹原であっただけで、心の中に彼女は確かにいた。大切なことを教えてもらって、前に進む勇気をくれた。そんな彼女との約束を……破るなんて、できるはずがない。
この距離が縮まることもない。彼女は遠く離れたまま、袖で荒く涙を拭きながら笑おうとする。そして拭い終わったあとで……彼女は苦痛の笑顔を浮かべながら、言ってくれた。
「バイバイ、柿P。あなたは、私にとって……生きる力をくれた、日向になってくれた人だよっ!!」
「っ……」
大きく手を振って、背中を向けて去っていく彼女に何も言うことができなかった。それでも……彼女の日向になれたのは、とても嬉しいことで。彼女はまた、前に進むための勇気をくれた。日陰者の自分が、誰かにとっての日向になるだなんて、とても難しいことだ。だから……やっぱり、彼女は垣村にとって、大切な人だった。
込み上げてくる涙を、ぐっと堪える。まだ伝えなくてはいけないことはあるから。
園村の姿が完全に見えなくなった頃。笹原はゆっくりと垣村に近づいてくる。お互い向かい合わせになって、顔を見合わせた。ずっと泣き続けていた彼女の瞳は赤く、服の袖は濡れている部分がわかるほどになっている。そんな泣き顔の彼女を見て、かわいいだとか、好きだとか、そんな感情すらも覚えるようになっていた。気持ちを吐露してしまえば、もう偽ることなんてできないらしい。
「……私で、いいの? 悪いこと、たくさんしたのに。垣村のことだって、傷つけちゃったのに……」
「それでも、笹原さんが好きだから」
「っ……私、謝れなかった……ちゃんともう一度、謝るべきだったのに……言えなかった……」
「そうやって後悔できるようになったなら、それはそれでいいんじゃないかって思うよ。また今度、会えたときに謝ればいい」
「だって……私はっ……」
笹原がその場に崩れ落ちる。両目から溢れる涙が止まらない。何度も何度も手で拭っては、拭いきれなかったものが地面に落ちていく。
垣村も彼女と同じ高さになるように腰を下ろして、垣村のことを見る余裕もないくらい泣きじゃくる彼女を見ながら話し続けた。
「過去は消えない。けど、今を形作っているのは、やっぱり過去なんだよ。背負っていかないといけないし、背負ったからこそ今を変えられると思う。そして、これから先もずっと、過去が支え続けてくれる。罪だって、忘れない限り……もう二度と同じことはしないはずだよ」
「私っ、わからないよ……嬉しいはずなのに、このまま、一緒にいていいのかって……」
「過去も、罪も、後悔も。噛み砕いて、飲み干すしかないって、教わったんだ。だから、さ」
涙で濡れている彼女の右手を、垣村は両手で優しく包み込む。今できるのは、これが精一杯だけれども、これで十分であるとも言えるかもしれない。
彼女の涙は罪の証。それを一緒に背負っていくことは、できるかわからない。けれど……。
「一緒にいよう、笹原さん」
いつかそれを、気にしなくなれるまで。噛み砕いてしまえるまで。一緒にいることはできると思うから。
「っ……うん……」
泣きながらゆっくり頷いた彼女に、垣村もまた涙を流しながら笑いかけた。
包んでいた両手に、更に彼女の左手が重ねられる。濡れていても、彼女の暖かさはわかるものだった。ぎゅっと強く包まれている二人の両手。それを引き離そうと考える人は、この場にはいない。誰も邪魔をすることなく、そのまま時間を過ごしていく。
(……今度はちゃんと、泣いている彼女の隣にいてあげることができた)
後悔してる。でも、嬉しい。この気持ちが消えてなくなったりしないように、と目の前の光景を目に焼きつける。
「垣村……」
泣き続けて、涙が涸れたらしい彼女は、傍から見れば綺麗な笑顔ではないけれど……垣村にとっては、十分過ぎるほど魅力的に笑いながら、伝えてくれた。
「ありがとう……私も、好き……だよ」
「ん……知ってる」
自分らしくはないなと思いつつも、そう返した。笹原もらしくないと思ったのか、思わず喉の奥から笑い声が溢れる。
夕暮れになっても握り続けた二人の手は、その日離れてしまったとしても……ずっと熱を帯びたままだった。
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