24話目 視線

 誠意、謝罪、イジメ、過去。どうしてこうなったのかなんて、わかりきっていることだった。何もかも、自分が悪いんだって、わかってる。それでも、愚痴を零したくて。誰かに慰めて欲しくて。悪くないよって言って欲しくて。


 ……そう思ってしまう限り、過去からは逃げられないんだ。彼女の言っていた通り、過去が消えることはない。罪が許されることはない。だとしたら、どうすればいい。


 分からない。何も、決められない。彼の顔を見ることすらできない。知られたくなかった。嫌な女だって、これ以上思われたくなかった。不釣り合いなのは……私の方だったんだ。


 教室で、垣村の話す声が聞こえる。もう、話すことすらできないのかな。許されることじゃない。許して欲しいだなんて、傲慢だ。罪を重ね過ぎた。


 園村と、垣村なら……ちゃんと上手くやっていけるはず。あんな子だったなんて、知らなかった。勝ち目なんて、ないじゃないか。いいや、そもそも……選ばれたとして、その幸せを享受できるのかな。一緒にいていいのかな。


『許せない。けれどそのうち、気にならなくなることはあるかもしれない』


『誠意ってもんを見せなよ。志音のことちゃんと考えてるならさ』


『優しい柿Pを、これ以上傷つけないで』


 頭に過ぎる、これまでの言葉。そのうちって、いつ。誠意って、どうすればいい。傷つけないために、どうしたらいい。


 会わない方がいい。話さない方がいい。顔も見ない方がいい。


 でも会いたい。話したい。ちゃんと顔を見て、笑いたい。


『……本当なの、笹原さん?』


 思い出すだけで、泣きたくなる。嫌われるって、本気で思った。猜疑心に満ちたその瞳が、何もかもを砕いていく。謝らなきゃって、その決意も。何も残らなかった。暗い公園で啜り泣く私に手を差し伸べる人はいない。ただ、隣にいてくれるだけの人もいない。話しかけてくれる人もいない。


 ……いつから、だったんだろう。最初から。いや違う。助けてくれたあの夜。わからない。


 何もわからない、けれど……嫌われたくないって、思ったことは事実だった。泣いてしまったのも、胸が痛むのも、吐きそうなほど会いたくなるのも……そういう、ことなんだ。


 望みなんてない。きっと、欠片もない。けれど、それでも……私の心は本物なんだって、知って欲しい。それこそが、私にできる……誠意の表し方のはずだから。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 答えというものは、そう簡単に出てくるものではなかった。園村から催促されることもない。けれど、今も尚待ち続けている彼女のことを思えば、早く返事をしなくてはならないのは自明の理だ。


 月曜日になって学校に向かうと、西園がいつもの様子で話しかけてきた。それに適当に返しながら、教室の前の方を見る。彼女の席には誰も座っていなかった。


「唯ちゃん、今日休みなんだってー」


 前の方の女子生徒から、そんな声が聞こえてくる。笹原は休みらしい。あんなことがあったのに来れるとしたら、なかなかのメンタルだとは思うが。


(……何を迷っているんだろう)


 答えを出せない垣村には、そもそもなぜ悩んでいるのかすらわからなくなっていた。園村と付き合いたいのか、付き合いたくないのか。それだけで判断すべきではない。そんな感じがして、ずっと考え続けていた。でも、だとしたら他になんの要素があるのか。どんな欠片があれば、その答えを出せるのだろう。


 悩んで、考え続け。ふと思ったのは、視線の先にある彼女の机。そこに彼女がいれば、何か答えが出せるのか。


(……そんなはず、ない。決めたくなくて、先延ばしにしてるだけの、クズ野郎だ)


 自問自答を繰り返し、自責の念に苛まれる。結局、笹原は火曜日になっても学校にくることはなかった。空いている席に、いもしない彼女が座って笑っているのを幻視しそうになる。脳がどうかしてしまったらしい。


 笹原が学校に来たのは、木曜日になってからだった。垣村がイヤホンをつけたまま適当に時間を潰していると、教室の前の扉から入ってくる彼女を偶然見つけてしまう。笹原の視線は一瞬だけ垣村に向けられたが……すぐに逸らされてしまった。


 その表情は明るいとは言えない。無理をしているようにも見える。


 右耳から圧迫感がなくなり、生徒たちの喧騒に紛れて西園の声が聞こえてくる。彼は女子生徒に囲まれている笹原を見ながら、怪訝そうに顔を歪めていた。


「志音って、笹原さんと何かあった?」


「……いや、なにも」


「ふーん」


 追求する気はないらしい。いやそもそも、関心がないようだった。


 携帯を取り出して、最近のゲームのことだとか、SNSで見つけた面白い記事なんてものを見せてくる。確かに面白いものもあり、笑えるような内容だったはずなのに……どうにも、笑えなかった。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 金曜日。生徒たちが明日からやってくる二日間の休みを期待しながら、最後のひと踏ん張りとして過ごす日。自然と生徒たちの会話にも、休みの日に何をするのかというものが増えてきていた。


 垣村には何をするという予定もない。いや、現在進行形で予定があると言った方がいいのか。今でもずっと考えている。園村への答えを。そして、この燻り続けている感情の意味を。


「帰りのホームルーム始めるぞー。席につけー」


 疲れた様子の担任が生徒たちを座らせる。あの先生も、同じような悩みを抱いたりしたのだろうか。将来について悩んで、その時の状況に板挟みになり、どうして教師になろうと思ったのか。


 少し前までの垣村なら、どうせなし崩し的にそうなったか、公務員ならば羽振りが良さそうだからと考えただろう。けれども、今は少し違う。どんな人にも、その人なりの人生があって、悩んでいたに違いない。疲労の裏にも、笑顔の裏にも、その人なりの悩みがあるのだろう。


 その悩みを解決する、してくれる何かがあって、道を決められたのだ。


(……人生の、とまではいかない。けれども、この悩みを一体誰が、どうやって……解決してくれるのかな。それとも、自分で解決しなくちゃいけないのか。自分の感情の問題だろう、これは。なら、自分だけで決めるべきなのか)


 将来についての悩みが薄れたかと思えば、これだ。園村によって歩むべき道に光が差したかと思えば、彼女と笹原によって今この瞬間こそが暗闇に包まれてしまった。


 時間は有限。彼女を長く待たせることはできない。自分は、どうしたらいい。どうするべきだ。


「はい、じゃあ号令」


 教師が今日の学校の終わりを告げる。垣村も他の生徒も、号令で放課後を迎えることになった。


(……終わらなければ、いいのに。明日なんて、来なければいいのに)


 まさか学校が終わって欲しくないと思う時が来ようとは思わなかった。授業を受けている間は、それ以外何も考えずに済むからだ。けれど、その束縛から解かれてしまえば……嫌でも考えざるを得ない。


 そんな悩みを抱いているのは、きっと少ないだろう。放課後になった途端、解放されたように生徒たちはざわめきたつ。教室は先程までとは異なって喧騒に包まれ、荷物を準備する生徒や、友人に話しかけに行く生徒の音が耳に届いてくる。


 どうでもいい会話内容。部活の連絡。遊びの約束。そんな音は、耳障りだ。垣村は、まるで自分だけが世界で深い悩みを抱き、苦しめられているのだと錯覚してしまう。何も聞きたくない。そう思っても、どうにもならなかった。


 せめてイヤホンをつけて、音を少しでも遮断しようか。そう考えた矢先、不意に聞こえてきた声を耳ざとく拾ってしまった。


「唯ちゃん、どこ行くの?」


 女子生徒が笹原を呼ぶ声。垣村も思わず反応してしまった。その件の笹原は、不思議なことにまっすぐ垣村の方へと近寄ってきている。


 握られている両手は僅かに震え、ぎゅっと結ばれた口は恐怖を噛みしめているようにも思え、その足取りの重たさは一歩前に出ようとするのに必死そうだった。


 他の生徒たちは自分の用事を済ませており、彼女のことを見ている人は少ない。それでも視界の隅に捉えてしまえば、彼女らしくないその奇行を見続けてしまうだろう。


 たった数人が息を飲んで見守る中、彼女の足が止まったのは……垣村のすぐ目の前だ。座っている垣村には、彼女の顔が良く見えた。目元には薄らと隈ができていて、疲れが溜まっているように思える。先程まで固く閉ざされていた口は、わずかな隙間を空けて震えていた。


「……あの、さ……垣村」


 体だけでなく、声までもが震えていた。それでも話を続けようとする彼女の姿は……ただただ、必死そうだという一言に尽きる。垣村も、彼女のそのただならぬ様子に息をすることを忘れていた。


 怯えているのか、詳しくはわからない。けれども、彼女の瞳だけは、揺れ動くことなく垣村を見つめていた。


「私はっ……垣村の、ことが───」


 たどたどしくも、震える声には力が込められていた。震える体を、声を、抑えつけるのに必死なのだろう。


 強く見えていた彼女は、知れば知るほどそうではないのだと思えた。目尻に、薄らと涙が浮かんでいるのが見える。


「───好きです」


 園村からも伝えられた、その言葉。垣村のことを好いているという告白。それをまさか、言われるだなんて思ってもいなかった。


 唖然として固まってしまった垣村に、彼女は想いを吐露してくる。


「いつからか、わからない。けど……一緒の時間を、取られたくないって、思ったの。何もしなくても、一緒にいるだけのあの時間が、大事だった」


 電車を待つ時間。週に二日間だけ話せるその時間。何もしなくても、いいと思えたあの時間。それがどれほど貴重で、素晴らしいものだったのか。垣村も、わかっていた。


「嫌われてるって、わかってる。でも……それでもっ……」


 彼女の声が、静まり返った教室に響く。


 全員が、見ていた。


「私と、付き合ってください」


 頭を軽く下げて、彼女はそう告白してきた。


 美談になることだろう。皆の前で告白するという勇気を、讃えるべきなのだろう。賞賛の拍手をすべきだろう。けれども、垣村にとっては……。


(……告白、されたのか)


 目を白黒させて、彼女を見つめる。視界に映るのは、彼女だけではない。放課後になったばかりの教室には、大半の生徒が残っている。そんな状況で、笹原というトップカーストの生徒が告白すれば、どうなるのか。考えなくてもわかることだ。


 教室に残る全生徒が、見ていた。


(答え……なくちゃ。答えを、言わないと、いけないのに)


 全員が見ている。頭を下げた笹原ではなく、その告白に対して垣村がどう答えるのかを。


 その視線が物語っている。声にしなくても聞こえてくる。


 早く答えろ。いつまで頭を下げさせてる。なんでお前なんかが笹原に。こんなことがあるのか、嘘みたいだ。


(答え……答え、を……)


 早く。早く。早く。さぁ早く答えろ。


 それはまさしく脅迫のようなものだった。見られている。答えなくてはならない。猶予がない。


 だんだんと浅くなっていく呼吸。背中にじんわりと汗が滲んで、手が震え始める。答えようとして半開きになる口は、何も告げることはない。


 今の垣村にとって、この状況というのは……最悪に他ならなかった。


「志音ッ!!」


 誰もが言葉を発さずに見守る中で、垣村の腕を掴む男がいた。何をしているのか、場違いな奴だと思われたことだろう。それでも彼は、西園は垣村の腕を掴んで椅子から無理やり立たせ、置いてあった彼のカバンをひったくるように持つとその場から数歩離れていく。


「お前のそれは、誠意なんかじゃない」


 笹原が振り向いて、西園を見る。いつも笑っているだけの彼の顔は、あの時見た見下すような顔でも、凍てつくような目をしているわけでもなかった。


 眉をひそめ、垣村の前に立つ彼の表情は……怒り以外の何でもなかった。


「わざわざ金曜に告白したのも、何が起きたとしても土日の冷却期間を得られるからだろ。そうすれば、少しは他の奴らが落ち着くからな」


「違うっ、私はただ、垣村にっ……」


「いい加減にしろよ。お前がやったのは……ただ志音から逃げ道を奪っただけだ!!」


「っ……」


 誰も声を出せなかった。いつもへらへらと笑っているだけの彼が、ここまで怒りをあらわにするのを見て動くことができなかった。まるで自分が怒られているように錯覚するほど、西園の割り込みは衝撃的だったのだ。


 彼は垣村の腕を掴んだまま、教室の扉を向いて優しく話しかけてくる。


「行こう、志音」


 その言葉に何も返せなかった。けれども静かに小さく頷いた垣村は、彼と一緒に教室の外へと出ていく。


「──────」


 教室からは、声とも呼べない嘆きが聞こえてくる。彼女の泣き声を聞くのは、何度目だろう。胸が痛む。けれど……無理だった。あの場で答えることはできない。


 廊下にいた生徒たちが見てくるのを無視して、二人はまた階段付近までやってくる。他の教室の生徒たちが発する喧騒のおかげか、もう彼女の声は聞こえない。届かない場所にまでやったきたのだと思った瞬間、体から力が抜けていってしまった。


「志音……平気か?」


「……平気、じゃない」


 支えてくれた西園から離れて、壁に背中を預ける。そのまま床にズルズルと崩れ落ちた。行き交う生徒が見てくるが、そんなものはあの教室の視線に比べればなんてことはない。いや、それを気にするほどの気力すら、彼には残されていなかった。


「……西園、俺は」


 喉の奥が震える。声を出す度に、目から涙が溢れそうになる。見上げるだけの力もなく、床を見つめながら鼻を啜る。そんな垣村を、西園は静かに見下ろしていた。


「どうすれば、いいんだよ……」


 その言葉に返せる答えはなく、せめて周りの視線を少しでも減らせるようにと壁になってやることしか、彼にはできなかった。

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