10話目 次に会える日

 不思議と朝特有の気だるさを感じなかった笹原は、学校前の坂道を自転車を押して上っていく男子生徒を尻目に悠々とした様子で学校へと向かって行った。いつもより、ほんの少しだけ足取りが軽い気がする。登校する時に毎回長くて嫌になる坂を上るのがそこまで苦ではなかったのはいつぶりだろう。高校入学当時は嫌だとは思っていなかったはず。これから新しい学校だという期待に胸を膨らませて歩いていた。それと同じような気分なのかな。


 教室に入ると、朝でもそれなりに騒がしかった。机に何人かで集まりながら話をしていたり、カバンの中からタオルを取り出して汗を拭き取っている生徒がいたり。そして、教室の後ろの方。窓際の席に両耳にイヤホンをつけたまま携帯を見ている男子生徒がいたり。


(……いつも通りだ)


 特に笹原と垣村の関係が劇的に変わったわけではない。日常的に接することなんてないし、おはようと挨拶を交わすような間柄でもない。それにきっと変わらない。どこか確信的な感覚がある。


 私の周りは何も変わらないし、垣村の周りも何も変わることはない。


 今の時代の人たちは変化することを拒む。例に漏れず笹原もそうだった。今の環境に不満は特にないし、友人と遊ぶことも多い。男子との仲も悪くはない。ただ……そう。ほんの少しだけ。誰にもわからない変化は欲しいのかもしれない。例えば、決まった曜日に、決まった場所で会えたりとか。別に、ただ帰り道が同じなだけだというのに、そうやって考えてみると少しだけ特別感のようなものが湧いてくる。


「唯ちゃん、おっはよー」


 いつも通り。朝一でも元気な紗綾は明るい挨拶とともに笹原に近づいてくる。笹原もやんわりと笑みを浮かべて返事を返した。


「あっついよねー。もう来る時に汗かいちゃってさ。背中とかくっついたりしてない?」


「んー、平気だよ。私もついたりしてない?」


「唯ちゃんもついてないから大丈夫だよ」


 お互い背中を見せあって汗で制服がくっついていないかを確認した。汗で湿ってしまうと、中に着ているものが透けて見えてしまう。それはさすがに嫌だ。でも、案外目を凝らすと見えてしまう。夏を嫌う女子高生は多いはず。腕をまくったり、体操服のまま授業を受けたりすると男子からの視線は結構気になったりする。


 笹原の隣の椅子に腰掛けて、ちょっとだけ汗で湿ってしまっている腕や首周りを制汗シートで拭いていく。笹原も同じようにシートで汗を拭いていった。スーッと心地よい爽快感が拭いた場所から感じられ、教室の中が暑くてもほんの少しだけ涼しく思えた。


 首周りを拭き取りながら、何気なく首を動かして周りを見回す。そして視線は気がつけば教室の窓際後方を見ていた。携帯を睨みつけていた垣村はイヤホンを外して西園と話し込んでいる。何を話しているのかはわからないけれど、二人とも稀に見る笑顔だった。


(……あんなふうに笑うんだ)


 垣村の笑っているところは何度か見た事はある。西園と話している時にだけど、今の笑顔はいつもよりも爽やかだ。普段は小さく笑うか、あの雨の日みたいに微笑むように笑っているくらいだったのに。そんなに面白い話をしているのかな。


 私と話す時は笑わないくせに。笹原の心の中で小さな嫉妬が生まれ始めていた。男子生徒に嫉妬するなんて馬鹿らしい。そう考えても、胸の中の一部を埋めているこの感情はどうにも制御できなかった。垣村とあんなふうに笑って話せたら、それなりに楽しそうだと思うけれど。


『許せない。けれど、そのうち気にならなくなることはあるかもしれない』


 少し前に聞いた、あの詩人のような言葉を思い出す。そのうち。そう、そのうち。いつかはわからないけれど、いつかは。私も西園のように、垣村と笑って話せるようになるのかな。


「唯ちゃん、どこ見てるの?」


「えっ? いや、どこも見てないよ」


「嘘だー」


 長々と見過ぎたみたいだ。笹原を冷やかすように紗綾は二の腕をツンツンと突いてくる。汗は引いたはずなのに、今度は冷や汗が背中を伝っていった。


「……西園君?」


「違うってば。そもそも、見てないし」


 垣村と話す仲だというのはあまり知られたくない。知られたら最後、ずっとからかわれるはず。だからといってはなんだけれど、西園だと誤解してくるのならそれはそれでいい。それほど大きな波風は立たないはず。


 西園は垣村と一緒に居るから皆が話しかけないだけで、離れていたり、一人でいる時には話す人はそれなりにいる。カースト下位なのは、隣に垣村がいる影響というだけだった。本人はそれを好んでいるらしく、基本的に二人で行動している。西園はともかく、垣村は一人でいても誰かが話しかけることはない。むしろ本人がイヤホンまでつけて話しかけるなという雰囲気を醸し出している。一見両極端な二人なのに仲がいいのが、笹原には疑問だった。


(……目、合わないな)


 数日前まで、学校にいれば何度か目が合いそうになっていたというのに。今はそんな兆しはない。


 それをどこか残念だと思っている自分がいるのに気づいた笹原は、垣村に視線が向いてしまうのをなんとかして抑えようと決意した。だって、なんか負けた気がする。意地を張り続けたとしても……そのうち、目は勝手に追ってしまうのかもしれないけれど。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 午後の授業も終わり、放課後が訪れた。いつものように紗綾たちは部活に勤しみ、笹原は帰る支度をし始める。二年生は部活動に熱が入りやすい。先輩がいなくなり、後輩を引っ張っていかなければならない立場になる。


 そういえば、松本は皆からキャプテンってからかうように言われていたっけ。何人か候補はいたみたいだけど、見事にキャプテンに選ばれたらしい。張り切っている彼を見ていると、体育会系男子は元気が有り余っているのがわかる。


(それに比べて、アイツは元気のげの字もない)


 人が少なくなった教室は視線が通りやすい。何気ない感じで後ろを見てみたら、もう既に垣村はいなかった。昨日もそうだけど、帰るのが早い。さっきまで西園と話していたと思ったらもうこれだ。


 別に今日は急がなくてはならない用事もないし、垣村も塾ではない。いつものように一人でゆったりと帰ろう。荷物を持って、笑顔で部活の話をしている生徒たちとすれ違いながら学校の外へ出る。駅に向かうために、また長い長い坂を通らなければならない。まぁ、上るよりはマシだ。日照りがキツく、額に既に数滴ほど汗を滲ませながら坂を下っていく。


 下った先を少し歩けば、子供たちの騒がしい声が笹原の耳に届いてきた。途中にある公園では小学生らしき子供たちが集まって遊んでいた。何人かはボールを蹴って遊んでいて、女の子たちはベンチに座って何かをしている。そして、あぶれたようにベンチに座ってゲームをしている男の子もいた。垣村の子供時代もこんな感じだったのかな、なんて考えてみる。そして視線を少し逸らしてみたら……。


(……垣村と、西園?)


 腰を屈めて必死に何かを拾い集めている垣村と西園がいた。遠目からなのでよくわからなかったけど、近づいてみたらどうやらゴミを拾っているらしい。


 笹原は気がつけば公園の近くにまでやってきて、乱雑に生えている木の後ろ側に隠れるように立っていた。別に何もやましいことはしていない。そんな感じを装うためにポケットから携帯を取り出して、適当に操作しているフリをする。


 耳に届いてくる声のほとんどが子供たちの声だ。けれど耳をすませば、確かに二人の会話が聞こえてくる。互いに笑いながらゴミを集めては設置されたゴミ箱に捨てていく。


(……何やってるんだろう、私)


 こんなコソコソと隠れるような真似をして。挙句盗み聞きだなんて。最近の私はどうかしている。でも、この場から動こうとは思わなかった。


 笹原の額には暑くてかいた汗の他に、立ち聞きしているという罪悪感のようなものから発生した冷や汗のようなもので湿っていた。バレないようにパタパタと手で扇ぎながら、横目で彼らを見つめる。ゴミ拾いは終わったらしく、二人は水道で手を洗い始めた。先に洗っていた垣村は頭から水を被る。間の抜けた声が聞こえてきて、笹原まで笑いそうになってしまった。


 西園と交代して、タオルで頭を荒く拭いていく。位置的に垣村の顔はよく見えないが、横顔だけならば少しだけ見える。くせっ毛な彼の髪の毛の先端から水が滴り落ちていく。拭き終わった頭は完全に乾き切ったというわけじゃない。若干濡れたままの彼は、時折吹くやわらかい風を受けて幸せそうに頬を緩めていた。


(あっ……こっちに来る)


 咄嗟に顔を隠して彼らの視界に入らないようにした。すぐ後ろにはベンチがある。軋む音が聞こえたから、座っているみたいだ。


 離れていた西園が飲み物を買ってきて、二人して飲んでいる。どんな話をしているのか耳をすまそうとした時、視界の隅にこちらに向かって歩いてくる二人の女子生徒の姿が見えた。顔を見た感じ、面識はなさそう。笹原はそのままその場で立ち、すまし顔のまま携帯をいじる。楽しそうに会話している二人の女子生徒は目の前を歩いていき、駅の方へと向かっていった。


(……変に思われてないかな)


 ベンチに座る男子生徒と木を挟んで向かい側で立ちすくむ女子生徒。自意識過剰になってしまっているだけかもしれない。けど、こんな場面を同級生が見たらどう思うんだろう。お願いだから、誰もこないでほしい。笹原の心臓の脈が、まるで体育で走った後のように早くなる。脳が周りを気にしていても、耳だけは彼らの会話を逃すまいと拾い続けていた。


「自分がやりたいことをやれないのは嫌だなー」


 西園の言っただろうその言葉が、嫌に耳に残っている。垣村と西園が楽しそうに会話をする傍ら、笹原はその言葉を何度も頭の中で繰り返していた。


 自分がやりたいこと。やらなきゃいけないこと。


 結局、周りの目を気にして何もできない自分がいた。私は垣村に話しかけられない。きっと、彼と話したいと思っているはずなのに。傘を返すのだってそう。やらなきゃいけないことで、早く返してあげなきゃいけないものだった。なのに、周りから何か言われるのが嫌で。私は結局なにもできないでいた。


 垣村はどうだろう。彼はもし、例えば教室の中でとは言わないけれど、昇降口で傘もなく立ったままの私に傘を貸してくれるのかな。


 そこまで考えて、笹原は小さく首を振った。大事なのはそこじゃない。今から何ができるのか。傘を借りたことといい、助けてもらったことといい、彼には返すべき恩があるはず。


(……私は彼の、何なんだろう)


 友達ではない。気軽に話せる間柄でもない。だとしたら、私と彼の間にあるものはなんだろう。考えても、笹原には答えが出てこなかった。


 やがて公園から出ていく二人の後ろ姿をその場で見ながら、笹原は遅れて駅へと向かっていった。当然、駅のホームには垣村の姿はない。昨日座った場所と同じ場所に座って、一番端の席を開けておく。


 目を閉じてみれば、昨日の光景がありありと浮かんできた。素っ気ないようで、けどおどおどとしていて。気配りができないかと思えば思わぬ所で気遣って。そんな彼と話せない。嫌なモヤモヤが心の中に残留して、じくじくと痛めつけていくのがわかる。


 次に話せるのは多分木曜日。それまで……長いなぁ。

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