最後の罪業
最深部に到達した千種は、大空洞の底に似つかわしい色に立ち尽くした。
予想はしていたのだ。
九階層の【
(だが、まさか。こいつは)
鋼板を楕円に刳り抜いた御門を仰ぎ見る。
「・・・・・・ここであってるのか」
「無論。その肉色が何よりの証拠。九階層は【封絶の路】のFiction Holderそのものだ」
そこに鉄や鋼、木材や漆喰など、およそそ真っ当な要素はなく。
あるのは限りなく生体に近い、赤くつやめいた脈動する肉の門。
エトランゼはその収縮する腸の肉襞のような門扉に手を押し当て、手首を埋没させていく。
「おい、大丈夫なのか」
「心配ない。彼女の胎内は無害だ」
エトランゼは肘先まで呑み込まれていた腕に力をこめると、門は内側に開いていく。
「ここが、第九階層だ」
やはり、と言うべきか。そこは臓器の内側だった。
全面が肉の襞で、ぬめりのある表面に赤い毛細血管が走っている。一歩、足を乗せると意外にも固い。扉の奥は管のような通路があり、その先に扇状にひろがる空間があった。
「あれが隷属の右腕なのか?」
「否。あの蕾は【封絶の路】の核たるものだろう。あの中に護られているものこそが、我等が求めていた隷属の右腕に他ならない」
空間の中央、赤々とした台座に肉の蕾がふっくらと膨らんでいた。
蕾は成人二人が手を回してちょうど繋げるほどの大きさだった。
エトランゼはそれを愛おしそうに撫でると、千種に向き直る。
「それで汝はどうする? ここでやり合うか」
エトランゼの言わんとすることは分かっていた。
千種にとって【封絶の路】を破壊する直前は、彼女よりも優位に立てるのだ。
エトランゼは【封絶の路】を千種に破壊してもらわなければ、隷属の右腕を入手できない。ひるがえっていえば、千種が【封絶の路】を破壊するまでは千種を殺すことはできない。
ゆえに千種はこんな方法が採れる。
【封絶の路】を破壊する前に、エトランゼが権能を行使できない状態にする。
つまり首をへしおり、発声できないように喉を破り、指を粉々に粉砕したあとで、ゆるゆると【封絶の路】を破壊して改めてゾンビのようなエトランゼの息の根を止めれば良い。
クロエの存在が障害になるが、いまや虚構武装も持ち得ぬ一般人。
殺すには容易いだろう。
「・・・・・・・・・・・・いや、まだだ」
しかし、千種はその方法を捨てた。
情にほだされ訳じゃない。殺意を捨てた訳でもない。
ただ彼女との決別には似つかわしい闘いだと思った。
否、思ってしまった。
それがエトランゼとの決別でありたい、と。
「ふう」
調息すると、千種は【封絶の路】を眺めながら思う。
あるいは躊躇いかもしれない。
彼女は間違えなく斃すべき邪悪だろう。多くを殺し、いまだ独善を振るい虐殺を愉しむと言っていた。しかし、弥勒が渡した画像が度々脳裏に甦るのだ。
正義に酔い、虐殺を行うエトランゼの背中。
その背中に、仰ぎ見る空に。
なにか自分と重なるものを感じていただけに、最後の一歩、彼女を討滅しようとする決意が揺らいでいる。
「チグサよ」
惑いのなかで、気づけば傍らに少女がいた。
彼女は彼の瞳をじっと見つめる。
「チグサ、我は我が思うが儘の悪である。故に汝は、汝の信ずる善であれ」
祝福するような台詞に、不思議と逡巡が解けた。
今より殺そうとする相手に諭されるのは奇妙の極みだが、彼女から送られた決別の手向けを素直に受け取った。
殺し合いを前提として結んだ奇妙な関係は、ここで雌雄を決し、遺恨なく結末を迎える。愛や友情の他にも、両者が自身の独善のために命を賭して殺し合う仲だけで生じる絆というものも、その実、あるのかもしれない。
憂いは晴れた。
あとは殺し合うのみ。
「
右腕に覚悟の灯を。
双眸に決意の光を。
嘉吉千種は闘いの狼煙をあげる。
「心は灼かれ肉は
眼前に形成されていくのは【封絶の路】の加護。
肉蕾が囲う岩戸の石室。
手元に形成されていく腕は武者の籠手。
大きな指先がその岩先に触れる。
「独善をここに。
指先は岩戸を払い、ひるがってエトランゼの首にめがけて手刀を振るう。
振り返った桜髪の魔神は、決然と振り返った少年の双眸を見守り。
だらりと両手を下げていた。
まるで介錯を待つように。
「──ッ」
刹那を更に切り分けた時間の狭間で理解する。
(──故に、悪を罰するものが必要だ。そうは思わぬか?)
あの言葉の真意を。
あの虐殺の地で、空を見上げた理由を。
少年は少女の真意を悟り、打ちのめされたように寸前で手をとめ──
「それでは駄目なのです」
パンッ、と。
エトランゼに銃弾が撃ち込まれた。
少女の血を以て、最後の圏獄の象徴が浮かびあがる。
ここは地獄の最深部。最後の罪業。
司る罪は、主人への裏切り。
裏切り者の名は、クロエ・ヴァーエル。
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