【20】取り戻せない過去
翌日の朝、李斗は真相を知るために、薫の母親と面会することにした。
薫と別れるにしても、母親がなぜあんなことをしたのか、探偵の調査結果だけではどうしても解せないことがある。
李斗はそれを確認したかった。もちろん、ただの自己満足だが。
☆
李斗は薫が登校するのを見届けてから、入れ違いに彼女の家を訪問した。
彼女には、幽霊――鏡華の行方を捜すため、学校を休むと連絡してある。
母親が寝不足な所に顔を出すのは申し訳ないと思ったが、薫にこの話を聞かせるわけにはいかない。
マンションの部屋を訪れると、娘のボーイフレンドということで、母親はすぐにドアを開けた。こんな時間の訪問に少々驚いていたが、父親の死の件で聞きたいことがある、と李斗が告げると、彼女は青い顔をして居間に通した。
……まだ僕に気付かないのか。
ムリもない。八年前、数度会ったきりだから。
居間のソファを勧められるとすぐ、薫に頼まれて父親の消息を調べていた、と前置きをし、李斗は単刀直入に訊いた。
「何故薫には、父親が亡くなっていることを伏せているんですか?」
「そのことを……薫に言ったんですか? 一体どこでそんなことを……」
母親は、うつむいたまま訊いた。
「いえ。新しい家族と、海外で生活している、と言ってあります」
「そうですか……」
それだけ言うと、彼女は黙りこんでしまった。膝の上で手を組み、唇を引き結んでいる。
「理由。話して、もらえませんか?」
「娘のボーイフレンドとはいえ、一介の高校生の貴方にお話し出来ることはありません。だいたい娘にも話してないのに……」
「そうですか……」
これでは埒が明かない。
「奥さん、僕に見覚えありませんか?」
「……え?」
薫の母親は、訝しげに小首をひねっている。
李斗は意識を集中し、本来の姿である白髪、紅眼、袴姿になった。
「これなら……、氷ノ山神社の祭神の姿であれば、貴女の記憶にありますか?」
彼女は姿を変えた李斗を見ると、目を大きく見開いてわなわなと震え始めた。
――驚きや恐怖ではなく、怒りに震えていた。彼への怒りに。
「や……疫病神ィィィィッ!」
母親は立ち上がり叫んだ。
次の瞬間、彼女はテーブルの上にあったガラスの灰皿を掴み、李斗に投げつけた。
額に当たるのは彼には分かっていた。
でも、避けることが出来なかった。彼女の怒りをその身に受けなければならなかったから……。
灰皿は彼の額を割り、床に転がり落ちた。傷口から流れた血が彼の頬を伝い、純白の着物を点々と赤く染めていく。口の中に入り込んだ血は、錆びの味がした。
彼は、人と同じ味だ、とふいに思った。
「あんたがうちの家庭を狂わせたんだ! あんたが夫を護ってくれなかったから、薫が壊れたんだ! あんたさえいなければ、夫は事故に遭わずに済んだのに!」
母親の罵声は、絶叫となって彼の身を裂いた。
何から何まで、彼女の言うとおりだったから。
父親同様、彼女も李斗が人ならぬ存在だと認識はしていたのか。
てっきり、薫と父親だけだと思っていたのに。
「申し訳……ありません……。仰るとおりです。私が至らぬばかりに……」
「どうして? どうして? 何で今さら薫の前に現れたの? あの時どれだけ待っても来なかったのに、あれだけ薫があんたの名を叫んだのにッ!」
罵声とともに、手短な物が次々と飛んで来ては、彼の顔や腕に傷を付けていく。
与えられる苦痛は全て、李斗への罰だった。
言いがかり、八つ当たり、責任転嫁……。
そう言われればそうかもしれない。あれは、事象としてはただの交通事故だった。でも自分に全く非がないと、誰が言えるのだろう?
「言い訳がましいですが、聞いて下さい。……あの日私は、参道前で薫さんたちと別れた後、遠出をしなくてはならなくて、急いで駅まで走っていったのです」
「だから何なのよッ!」
投げるものがなくなったのか、ただ彼を睨み付けている。
「当時の新聞記事で、事故発生時刻を調べたところ、その時には既に電車に乗っていて、私は数駅先まで移動した後、だったのです……。ごめんなさい……」
李斗は血を滴らせながら深く頭を下げた。
少し前ならば、人間に頭を下げるなどあり得ない、屈服させればいい、と同族に言われたことだろう。でも、もうそんな時代じゃない。人の治める時代には、神の居場所なんて、もうないのだから。
母親は少しは気が晴れたのか、ソファに座って話し始めた。
「ひき逃げだったわ。誰も傷付いた夫を助けてくれなかった。
薫が泣き叫んで助けを求めても、誰も来てくれなかった。車を止めてくれなかった。やっと車が止まったときには、夫はもう虫の息だった……。
薫があんたなんかに懐いていなければ、あんな人通りのない場所になんて行かなかったのに……。みんな、あんたのせいよ……」
「申し訳ありません……。私が出雲から帰ってきたのは、あれから一週間ほど経って、もうご主人が亡くなった後、でした……。
近くにいれば、きっと薫さんの声も届いて、救いの手を延べることも出来たかもしれなかった。あと一日、出かけるのが遅ければ……」
「薫は病院でもずっと貴方のことを呼んでいた。パパを助けて、と寝ずに祈っていた。翌日夫が亡くなったときも、貴方を呼んでいた。奇跡を願って祈り続けていた」
その様が在り在りと脳裏に浮かび、李斗は悔しくて、胸を裂かれる思いだった。嗚咽が漏れ、涙が溢れ、頬の血を流した。
「ごめ……ん……なさ……い……」
「今さら謝ったって、あの人は帰ってこない。
夫が死んだ後、薫は自分を裏切った貴方を恨んだ。父親を救ってくれなかった貴方を憎んだ。何度も会いに行ったけど、出張から戻ってなかったんでしょう、あの子は留守だと言っていた。
薫は家の中で暴れて、部屋をめちゃくちゃにした。慕っていた貴方に裏切られて、憎んで憎んで、でも好きで好きで、あの子の心はとうとう分解してしまった」
そんなひどい仕打ちを受ければ、少女の心は簡単に壊れてしまうだろう。
想像の遙か上を行く、荒れた当時の薫の様子を聞いて、彼は自分の愚かさを呪った。
「私が……どんな思いで薫を守ってきたか、お前に分かるものか」
母親の呪詛の声が胸に刺さる。
「……これ以上、薫を傷付けるのは、私が許さない……」
彼女はふらり、と立ち上がるとカウンターの向こう側へと入っていった。
そこはキッチンだった。
李斗は袖口で顔の血を拭うと、薫の顔がもう見られないのか、と悲しくなった。
一旦は別れようと思っていても、どこかで何とか出来ないかと思っていた。そばにいられなくても、こっそり見守って生きていけないものか、とも思っていた。
だって……、資格がないなんて頭で思ってはいても、薫が愛しいことには変わりない、別れたくないに決まってるじゃないか。
昨日の晩だって、彼は夜通し泣いていた。別れたくないと泣いてたのだから。
だが、そんな甘い考えは粉砕されてしまった。
薫を失いたくない、だと? 薫がいなければ生きていけない、だと? 些細な痛みに大袈裟にわめいて同情を買ったり、幼い薫が記憶を封印しなければならないほどの苦しみを与えておきながら、自分は今までどんな世迷い言を吐いていた?
――お前には、その資格はない。
心の中で、もう一人の自分が断言する。
そのとおりだ、と思った。
もう、何かを考えること自体が苦痛になってきた。
感情は次第に鈍化して、このまま消えてしまいたい、と思った。
遅かれ早かれ滅ぶ運命なら、今ここで滅しても……。
ふいに目の前が暗くなった。と、同時に、
――ドッッ!
胸に熱く感触が突き込まれた。
何、と思う間に、二度、三度、と突き込まれる。
「は……はは……、死ねばいいのよ、あんたみたいな役立たず、死ねばいいッ!」
母親の手には、自分の血で染まった包丁が握られていた。
返り血を浴びて、彼女の部屋着も赤く染まっていた。
役立たず。自分でも、そうだと思った。
こんな奴いらない、と。
何度も何度も腹や胸に包丁を突き立てられ、意識がもうろうとしてきた。
食道を血液が逆流し、咽せながら大量に吐き出す。
「あなた……の恨みは、その……程度……で、すか……」
「こ、この、死に損ないッ」
「この……程度……じゃ、私……はころ……せ……ないです……よ。本気で殺してくだ……さい」
今のうちに、言っておこう。
ゆめゆめ、彼女を神殺しの咎で罰してくれるな、と。
薫の母親は両手で包丁を握ると、高く構え李斗の上から振り下ろした。
(ちゃんと殺してくれるかな)
ふと、そう思った。
その時、急に居間のドアが開いた。
他に家人はいない筈――
「やめて――――ッ!」
少女の叫び声とともに、母親の体は壁に向かって吹き飛んだ。当たり所が悪かったのか、彼女はそのまま床に倒れ込んで動かなくなった。母親の手から落ちた包丁は、血溜まりのフローリングの床を滑ってどこかへいってしまった。
それは、薫の体当たりだったのだ。
「なん……で……もどってきた、薫……」
もうちょっとで死ねたのに、と李斗は残念に思った。
きっと忘れ物でもしたのだろう。手間のかかる子だ。
自分がいなくなったら誰が面倒を見てくれるのだろう、などと漫然と考えていた。
「死なないで、死なないでッ」
薫は必死の形相で彼を抱き上げた。
「薫……ごめん……服、汚れる……よ」
「い、いま、救急車呼ぶから……」
薫は必死にスマホを操作している。
「……ほっといてくれよ……薫、僕は死に……たいん……」
ごふっ、とまた血を吐いた。あの鉄臭い味が口の中に広がる。
……ああ、薫の顔を汚してしまった……。
ごめんよ……。
「だめ、死んじゃだめ、だめ、だめ、だめ……だ、め……だめ、だめ……だめ……」
「この程度……じゃ、しねない、よ。安心して」
嘘じゃない。この程度じゃ一週間も転がっていれば治るだろう。
薫はうわごとのように何度もだめ、と繰り返す。目の焦点が合っておらず、何か様子がおかしい。
――まさか?
「薫? おい、薫? どうした?」
李斗は血反吐を吐き散らしながら起き上がり、薫の肩を掴んで前後に揺さぶった。
「だめ……だめ……だめ……」
大量の血を見て、薫はフラッシュバックを起こしてしまったのか。
意識が混濁していて彼の声が届かない。
恐らく彼女の目の前には、血だらけの父親が倒れているに違いない。
――恐れていた最悪の事態が起こってしまった……。
電話が繋がったのか、床の上に落ちた携帯から声がする。李斗は拾い上げて応えた。
「救急車、お願いします――」
胸の止血だけをして、彼は二人を置いて、ふらふらと部屋を後にした。
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