【2】兎神の日記1
〈李斗の日記〉
薫が帰ってきた。僕の氷ノ山神社に帰ってきた。
正確に言えば、たまたま立ち寄っただけなのだろう。
しかし記憶を失ってもなお、こうして僕の元に戻って来たということは、二人の間に強い
いや、あってもらわねば僕が困る。
でなければ、僕は更に向こう数十年、待ちぼうけをくわねばならなかっただろう。
……薫の寿命が尽きるまで。
それにしても、僕はなんて迂闊だったのだろう。
彼女が落としていった生徒手帳から、隣町に住んでいることが分かったのだ。
こんなにも近くにいたのなら、すれ違いを恐れずに探しに行けばよかった。
もっとも、「待ちぼうけ」を継続していたからこそ、薫の再訪にも気付けたのだけど。
八年ぶりに再会した彼女は、一層可愛さに磨きがかかり、僕の妻としてより相応しくなったと言える。本当に可愛くなった。――あくまでも外見は、だけど。
どれほど、あの後の生活が過酷だったのか、今の僕には伺い知ることは出来ない。
けれど、きっとやんちゃな性格が「粗暴」にランクアップする程までに、ハードだったに違いない。母親も、娘にもう少し気を配ってやれなかったのかと歯がゆい思いだが、仕事をしながらということでは仕方がなかったのかもしれない。
この僕が近くにいたならば、きっと何か出来たこともあったろうに。
薫が帰って来た日の晩、僕は彼女と最後に会った日の事を思い出した。
あの日は寝不足だったので、居間でうたた寝をしていた。
午後から出雲まで出張しなければならなくて、少しでも寝ておきたかったのだ。
移動中に寝ればいいって話もあるだろうけど、僕は電車の中ではなかなか寝付けない質なんだ。
気持ちよく眠っていると、ふと体の上に不可解な重量を感じた。
まさか幽霊? と思ったが、次の瞬間、何か柔らかいもので唇を塞がれた。
恐る恐る目を開けると、それはなんと幼い薫の唇だった。
その拍子に僕が目を覚ましたので、腹の上に馬乗りになっていた薫がパニックを起こし、彼女に唇を噛まれ出血してしまった。
……まったく、ひどい初キスもあったものだ。
薫に囓られたところをティッシュで押さえていると、やっとこ落ち着いた彼女が悪びれもせずに満面の笑みで僕に言った。
『お兄ちゃんぼっちで寂しそうだから、私がお嫁さんになって一緒にいてあげるよ』
僕はしばらく呆然としてしまった。
ぼっちだからだなんて、字面だけ見れば、あんまりなプロポーズの文句だろう。でも僕にとっては直球ストレートな台詞だった。
子供だと思っていた薫が、僕の苦悩を一番理解してのだから。
僕は思わず薫を抱き締めて、月並みだったけど、
『ありがとう、よろしくお願いします』
って答えた。
嬉しすぎて、それ以上の言葉が見つからなかったから。
薫が僕に気があるのは、前々からなんとなく分かっていた。
女の子は十歳にもなれば色気も出てくるものだから、時折薫から女の視線が向けられていることも感じていたけど、わざと見ないふりをしていた。
この時代では、まだその時期ではなかったから。
あの頃から僕は薫のことが好きだったけど、適切な年齢に育ってからご両親に正式にご挨拶を、と思っていたんだ。二人でこの神社で暮らしたい、と。
じつは彼女にプロポーズされるよりもずっと前から、僕は薫を嫁にもらいたいって考えていた。まあ、出来たらもらえたらいいな、ぐらいだけども。
きっとそんな僕の薫への気持ちが、どこからか漏れて、彼女に感づかれてしまったのかもしれないな。
あのとき僕は、なるべくやさしい言葉で薫に説得を試みた。
君が僕と結婚するってことは、この神社で暮らすってこと。
つまり神職になるのだから、まだまだ勉強しなくてはならないことがいっぱいある。これから中学校だって、高校だって行かなければならないんだって。
彼女はすこし難しい顔をしていたけど、それが結婚の条件だと知ると納得してくれた。すこし遅れてやってきた、彼女のお父さんにも軽く事情を説明し、
『将来お嫁さんになって頂くことになりましたがよろしいでしょうか?』
と、お伺いを立てたところ、いやに真面目な顔で、
『こちらこそ娘をどうぞよろしくお願いします』
と、深々と頭を下げられてしまった。
――今にして思えば、彼はあの時、何かを予見していたのかもしれない。己の運命について。
――そして己の運命を予見しなければならなかったのは僕の方だったということも。
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