ふたりのカンバス

シイカ

ふたりのカンバス

「絵が描けなくなった?」

 芽衣の突然の相談に思わず裏声が出た。

「うん……何も思い浮かばないの……どうしよう、コンクール前なのに……」

 大きめのスケッチブックを抱いて、芽衣は今にも泣き出しそうな顔をした。

 世間で言えば、ふわふわ系女子に含まれるであろう。栗色のウェーブがかったセミロングで歯並びが綺麗な家鴨口。ちょっと下がり気味の目がそそるぜ。

 ……なんて。思っちゃう私って、つくづくアレなわけだ。それにしても、美術か。

 築三十年の古い賃貸マンションの一室でアーティスティックな話。

 生まれついての性癖のせいで女ばかりのバイト先に長居するうち頭から爪先まで、どっぷりと下世話に染まった私の部屋で聞くには些か場違いな話題ではあった。でも、こんな相談を受けるのも、たまには良いもんだな。

 下世話な私も、案外、高尚な話に飢えていたのかもしれない。まして可愛い女の子が相手なら、話題が石の裏のダンゴ虫と世界経済だって、うっとり聴けるというものだ。

 …………芽衣。可愛くなったねえ、あんた。私は思わず見とれていた。

 山村芽衣やまむらめいは美大に通ってる私の親戚だ。私の方が三つ上とはいえ、フリーターでその日暮らしが何を言う資格があるだろう。私は美術のことが何もわからないのだから。

 私は何かのアニメに出てくるイケメン風に短く切った髪をかき上げながら、とくに解っている訳ではなかったが、物分かり良さげな姉さんを気取り、静かに頷いてみせた。

「……ふーん。それは、こまったねえ」

 それにしても、今、目の前で悩んでいる女性が『泣き虫芽衣』とは。いやはや時間の流れというものを考えてしまう。

 実を言えば子どもの頃から、芽衣は将来美人になるんじゃないかなー? と予知していたのだが、これは予想を超えて、上玉、いや、特玉になっていたのだ。予言的中。

「それでね『キョーちゃん』に会えば、描けるようになるかと思って……」

 キョーちゃんとは私のことだが、本名は竹内清子たけうちきよこといって、親が私を呼ぶときに『キヨー』と呼んでいて、子どもだった芽衣が上手く言えず『キョー』とまるで怪鳥の嘶きのように呼んでいたせいで定着してしまった愛称だ。

 まさか、今でも、その愛称で呼んでくれているとは思ってもいなかった。


「芽衣。今いくつだっけ?」 

「二十二歳……」

 これまた絶妙な年頃。私も二十五歳になるわけだ。当たり前だけど。ふむ、絵のことはさっぱりわからないけど、ひとつ、人生経験の豊富さでカバーしてやろうじゃないか。

「それで、キョーちゃんにお願い! 絵のモデルになって!」 

「え!?」

 え!? と驚いたのは『絵』とかけた駄洒落じゃないよ。

「……ダメ?」

 だ、ダメじゃないけど、良いの? ……か? 

「えっと、モデルって専門の人に頼むとかじゃないの?」

「そんなことないよ。それに、私、今、キョーちゃんを描きたいんだもん」

 おいおい、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。

「ははは。芽衣の頼みじゃ、断れないなー」

 まあ。悩み事相談得意じゃないし、絵のモデルくらいなんぼのもんじゃい。

 さあ、こいと、私は背筋を伸ばし、胸をはってみせた。

「……良い。キョーちゃん、凄く良いよ!」

「ほ、ほんと?」

 内心に、ニンマリ。これでも身体の線には自信がある。

「じゃあ、一枚脱いで」

 ……シャツの下はスポーツブラ一丁なんだが。まあ、いいか。

「あ? ああ。これでいい?」

「もう、一枚」

「はい?」

「あと、一枚脱いで」

「あの、上、裸になっちゃうんだけど」

「なって」

「マジか」

 アレよアレよと脱がされてしまった。いや、芽衣は何もしていない。

 言われるままに私が脱いでいたのだ。下まで、全部。

 泣き虫芽衣がまさかの『脱がせの芽衣』になっていたとはキョーちゃん、びっくりしちゃったな。しかし、不思議と抵抗はなかった。

「キョーちゃん……綺麗……」 

「…………」 

 私はありがとう……と、言いたかったのに慣れないことをしているせいか声が出せなかった。自分で言うのもなんだが、私は、顔の作りがそこそこ派手で、俯いていると、女性に声をかけられることが多々ある。そういう意味で芽衣も言ってるのだろう。

 スケッチブックにシュッシュと鉛筆が走る音だけがする。    

 椅子に座って右膝を抱えるポーズがなかなかに苦しい。最初にあった微かな羞恥心より己の肉体との勝負となっていた。

「め……芽衣……まだ……」

「ジッとして! 今、ビビットが顔にきてるんだから!」 

「び……『びびっと』って何? 専門用語?」

「……黙って」

「ははッ」


……怖い。アートわからん。


「今のキョーちゃん凄く良い……。まるで、ドミニク・アングルのグランド・オダリスクみたい」

 ……織田リスク。誰だ。

 例えられても全くわからないぞ。でも、芽衣が凄く良いって言ってるからきっと凄く良いものに違いないのだろう。

「よし! キョーちゃん、もう大丈夫! ありがとう!」

 そう芽衣が発した途端、私は猫のように思い切り手足を伸ばした。

「ふー。芽衣のためだもん。いつでも手伝うよ」  

 芽衣に渡された毛布を被りながら、私は本心を言った。

「へへ。嬉しいな……それともうひとつお願いしても良い?」

 私は窓を見て、予測がついた。   

 いつの間にか灰色にかき曇った夕空から大粒の銀の雨が、降り出して歪みガラスの窓を濡らしていた。

 緑豊かな丘陵の……といえば聞こえは良いけれど、いちばん近いコンビニまで薄暗い坂道を登ったり下りたりの辺鄙な場所にある我が家だ。実際、雨の夜には私も、大概、表にには出ない。当然だけど、こんなところから芽衣を徒歩二十分の最寄り駅まで歩いて帰らせる気にはなれない。夜道は危険た。私の部屋のほうが、まだ安全。

 だから私は、これから芽衣が言おうとしているであろう、お願いとやらに先んじて、こう提案した。ツイてきたな、これは。

「雨じゃあしょうがない。芽衣。今夜は泊まってけば?」

「ごめんね。こんなに雨が酷くなるなんて、思ってなかったから」

「良いから良いから。私も久しぶりに会えて嬉しいし、それに泊まって欲しいの」

 これは心の底からの言葉である。可愛がってた従妹が美人にトランスフォームしていて、今でも、キョーちゃんと慕ってくれる。

 こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 芽衣は照れながらも眉を八の字にしながら昔と変わらない笑顔ではにかんだ。

「じゃ、じゃあ泊めてもらおうかな……」

 私のヌードを描いていた人物とは思えないくらい芽衣はしおらしくなっていた。 

 絵を描いているときと性格が変わるタイプなのかもしれないな。


 そういえば、さっきの絵を私は見ていないのを思い出した。

「キョーちゃん身体がとっても綺麗だから描いててウットリしちゃった」

「こ、これが私……」

 自分がモデルの絵を見て綺麗と思うことがあるのかと正直、疑っていた。

 絵の良し悪しが自分にわかるとも思えないとも思っていた。でも、素直に美しいと思ってしまった。

 芽衣はモデルが良かったと言うけど、座ってるだけの私を描いて素人が見て美しいと思えるほどの絵を彼女は描いた。芽衣自身の力だ。

 絵が描けないと悩んでいたのがウソのように思えるが、きっと絵を描く人間にしかわからないスランプとか、タイミングとか、そういうのがあるんだろう。

 毛布を取り払って、いきなり素肌にエプロンをつけると、私はそそくさとキッチンに向かった。これが世に言う裸エプロンというヤツだが、なかなか心地いい。 

「そんじゃ、夕食の支度するね、ちょっと待ってて」

 そんな私の姿を頬を染めながら芽衣が、じっと見ている視線を感じる。

「キョーちゃん。その、目のやり場に困るよ……」

「困ってないでしょ? せっかくなんだから、芸術より解り易いのも見といてヨ」

 私は、声を出して元気に笑ってみせた。

 そもそも、裸にしたのは誰だ? まあ、脱いだのは私なんだけど。 

 料理が出来て、そのまま食事が済むと、私はエプロンをとって寝間着がわりのロングTシャツに頭を通した。これはいつも通り。私は寝るときは下着をつけない主義。

 こんなだから、裸になるのに、そう、抵抗がないのかもしれない。

 しばらくすると、芽衣が「ふあ」っと、仔犬みたいな欠伸をしはじめた。

「ごめんね。習慣で眠くなっちゃって……」

 9時……小学生でももう少し起きてる時間だろうに。ほんとに仔犬だな、こいつ。

 私、仔犬を飼ったことないけど。イメージだ。イメージ。

「あ。そんならベッド使って良いよ。私はソファで……」

 寝るから……そう言おうとしたとき、私は断られる覚悟で悪戯な提案をしてみた。

「いや……ねえ。一緒に寝ない?」    

 芽衣の返事が返ってくるまでの時間。時間と呼ぶにはあまりにも短かったであろう間に、私の喉は緊張に乾ききっていた。

「うん。良いよ」

 その返事をしたときの芽衣は子どもの頃と同じ目をしているように見えた。

「ははは。話せるじゃん。芽衣と一緒に寝るのって小学生以来だね」

「へへ。お泊りするのも小学生以来だよね」 

 お互い一桁代の年齢のときは姉妹のように過ごしていたけど、私が中学に入って以降は忙しくて、盆とか正月だけに会うくらいだったもんな。

 それが五年ぶりの再会で、まさか、ヌードモデルを頼まれるなんて思うわけない。

 少女という年齢から女性になって、同じ布団で寝るのはどことなく裸を見せるより恥ずかしく感じた。背徳感? ううん、もうちょっと綺麗なヤツというか、気分かな。

 私はどうかわからないけど、芽衣は素敵な女性になっていた。

 だから、自分でも自覚せずに芽衣をギュッと抱きしめていた。

「……へ? あ、あの……キョーちゃん?」

「あはははは。いや、寒くてねー。ふふ。芽衣はあったかいなー」

 夏だからむしろ暑いんだけど、する必要のない言い訳をしてみた。ここまできて半端をやったら芽衣に恥をかかせてしまうな。ちょっと主観的だと思いつつも、私は自覚を持って芽衣の胸を手のひらに包み、軽く揉んでみた。後ろには退れない。芽衣、覚悟しろ。

「ひゃ……」

 うん。やっぱり思い過ごしじゃなかったみたい。この子、私より胸大きい。

 子供の頃から芽衣をかわいいと思ってきた。でも、それは小動物的感覚だ。

 今は身体の芯が震え背筋がゾクゾクする感覚に囚われている。芽衣だって、この感覚を知らぬ年齢でもないはずだ。だって、ほんとうに嫌なら裸エプロンの時点で不快の反応を示したはずだ。

 この子は、もう大人だ。私は、そう睨んでいた。

 その証拠に、芽衣の身体は退くどころか、Tシャツ一枚の私にすり寄ってきている。

「芽衣……かわいい」

 芽衣の髪を軽く撫でただけで感覚がはっきりしいてく。目の前の感情は本物だ。

「キョーちゃん……?」

 人を愛おしいと思ったのは久しぶりだ。親戚の芽衣ではなく、山村芽衣という女性を私は見ていた。


「……芽衣。私の胸も触ってみて」

 戸惑う芽衣の手を握り、自分の胸に寄せた。

「へ、あ、え? ……うん」

 ちょっと、ひんやりとした芽衣の手のひらが私の胸を包む。

「ふふふ。ドキドキしてるでしょ」

「うん……」 

「どういう意味かわかる?」

 さすがの芽衣もわかるよね。解らなきゃ困る。

「えっと、お泊り楽しい……」

 それもそうだけど。他にあるでしょう。言うのよ。たった二文字よ、簡単でしょ?

「……あ、ひょっとして、ヌード嫌だった?」

「嫌だったらとっくに芽衣を追い返してるよ」 

 もう、遠まわしにしてもしょうがない。では、どうするか? 簡単だ。

 私は横になって向き合っていた状態から身体を起こし、Tシャツを脱ぎ捨てると、キャミソール姿の芽衣に覆いかぶさった。

 さっきの近さとは違う。ふたりの視線が交わる。

 見つめあう間もなく、唇をゆっくりと重ね合わせた。

 少しずつ離して、顔をじっくりと見た。大人の女性に見えていた芽衣が化粧をしてないせいもあってか今は十代の少女に見える。

「若い……」

「に、22歳……です」 

「……ひょっとして、初めて?」

 芽衣は暗闇の中で首を小さく縦に振った。

「…………。相手が私ってのも悪い……かな?」

 私の腕をつかみ芽衣が小さく呟くのが聴こえた。

「……で」

「…………」

「やめないで……するなら……ちゃんと最後まで……して」

 このひとことが欲しかった。私の中で鍵の外れる音がする。

 私は無言でキャミソールとブラ。そしてショーツも取り払ったが芽衣も無言で、されるがままになってくれている。

 その反応に、私は芽衣の顔に唇を近づけて耳元で囁いた。

「……怖い?」

「そ、そんなことは……ひっ」

 続ければ歯止めが利かなくなるのはお互いにわかっているはず。

 初めてすることに興奮してるのか、私に対してなのか芽衣の秘部から熱いものがあふれようとしている。

「濡れてる……」

 長い芽衣の髪をわけ、愛らしい唇を重ねあわせる。

 悪戯な指先でしっとりと潤った薔薇の蕾を少しずつ花弁のひらいた花に変えていく。




「……キョーちゃん……私……私!」

 芽衣の舌をついばむたびに愛しさが胸の膨らみに溜まっていく。

「はうっ……」

 今度は私の吐息が漏れた。嘘。これで初めて?

 痺れるような心地よさに、私の意思とは関係なく背筋が反りかえっていくと胸の頂きを温もりが覆う。

「キョーちゃんの……甘い……」

 微かなくすぐったさと、ときおり強い雨粒に打たれるような感触に自らの手のひらで膨らみをつかみとりたくなる欲求に、まるで驚いたように閉じた両目を瞬くと、肌の白さが眩しい芽衣の頬が薔薇の舌にかえて頬刷りする。サラサラと砂糖の落ちるように艶やかな髪が白い肌を這う。

 遠い痛みか微かな痒みに似た衝撃が胸からなだらかな斜面と小さな窪みへ、やがて薔薇の花園に届いた瞬間、芽衣は苦痛の叫びにも似た歓喜の声に乗せて私の背中に爪をたてた。芽衣にだったらどれだけ傷つけられても平気だ。今は、痛みすら心地がいい。

「……芽衣……素敵……」

「……キョーちゃん!」

 芽衣に最初の飛翔がやってきた。

「……………………!」

 言葉にできない愛の叫び。激しく震える胸の膨らみ。

 心が溶けるほどの悦びに震えが止まらない。

 息荒く澄んだ声をあげながら、芽衣は、頭を激しく左右に振り快感を指先から爪先まて行き渡らせる。

 波打つ刺激の余韻が、もういちど小さく頂点を迎え、長い吐息をついている芽衣の両脚に滑るような口づけを這わせた。

「うっ……!」

 少し触れただけで快楽が支配する感覚。今になって芽衣の初めての相手が自分であることにたまらない幸福を感じ私の女の部分が激しく熱を帯びた。

「はぁ…………芽衣……」

 さっき過ぎたばかりの悦びをうわまわる悦楽の波と飛沫が私を包んだ。

 どちらがどちらかわからない一体感が嬉しい。

「…………もう……!」

 強く祈るように瞑った両目に眉をよせ、白い歯をくいしばって何事かをこらえるような表情で肩と胸を揺らしている私。

 そんな私の身体にしがみつき芽衣は、また髪を振り乱して頭を振りながら何度も小さく叫んだ。

「キョーちゃん! キョーちゃん、好き! 好き!」

「……芽衣。好きだよ、大好き」 


 互いの舌が微かな、甘みをともなって、絡み合う。

 芽衣も私も大きく息を吸い込み、すぐそこに迫った甘美の時を待った。

 やがて落下するような衝撃と眩暈の悦びに私は震えた。

 肌を流れる宝石のような汗。大きく、ゆっくりと細い首筋をのけぞらせながら震える唇に私は自らの舌で潤いを与えた。

 芽衣の閉じた瞼からはひとすじ熱い涙の粒が流れ落ちていた。

 身体を重ね合わせることで言葉にしなくても解る。

 私はこのとき、はっきりと理解していた。私は、芽衣が好きだった。子どもの頃から。

 そして、成長した芽衣の姿を見た。瞬間から、彼女が欲しい……そう思っていたのだ。

 それは後悔や憂鬱や悲しみ。真似事への微かな罪悪感。そしてそれ以前の肉体的欲求。

 今、こうして営んでいる愛情の交換は、そんな簡単なものじゃない。誇らしくさえある真の悦びだ。今まで経験してきた安っぽい性の遊戯とは明らかに違う。

 行為そのものは似ていても、絶望的に深い落差と絶対的に欠けているものがある。


 ――――愛情だ。言葉だけじゃない愛情が欲しかったのだ――――


 そんなふうに思える事は誰にもあるのだろう。けれど、それらは、大概、性に溺れた時か、恋に落ちた瞬間に限られる。

 優しさと温かい愛情にみちて、ふたりがまどろみに落ちるまで続いた。 

 そして夢見心地の刻が過ぎて、西向きの窓にひいたカーテンに淡い初夏の陽光がほんのりと射す頃。私と芽衣はベッドの上に寄り添い、お互い一糸まとわぬ姿で一枚のシーツを共有し壁に背中を預けていた。

 たった今、世界が滅んでしまえばいいとさえ思える幸せのひととき、だけれど、明けない夜はないというから、これは仕方ない。もっとこうしていたいんだけどね。

 そんなことを、ぼんやり考えていると、耳元に芽衣が囁く声が聞こえた。

「キョーちゃんと……こういことするんじゃないかって、なんとなく……思ってた」

「いつ頃から?」

 私はあえて訊いてみた。まさか、私と同じってコトもないだろうけれど。すると……。

「今日……っていうか、もう、昨日になっちゃったけど、裸になったキョーちゃんを見ながらデッサンをしてたとき。いろんな事を考えてね。それで……あの……」

「私と、こうなることも想像した……と?」

「…………」

 少し俯きぎみに頷く芽衣の横顔が愛おしい。 


シーツにくるまったまま、私たちは自然と手のひらを重ね合わせていた。

「キョーちゃん、あ、あのね」

「なに……?」

 私は反射的に身を固くした。これが最初で最後にしよう……なんて後ろ向きな提案をされたら、断固拒否。愛の僥倖を過ちになどできるものかよ。

 だけど、芽衣が紡いだ言葉は、その真逆に近く、私の心を歓喜させるのに充分だった。

「……さっき描かせてもらったの、あれはデッサンだけだから、その、ちゃんとカンバスとイーゼルも持ってきてね、もちろん絵具もだけど、キョーちゃんを見ながら描きあげたいんだけど……だめ?」

 私は、その問いに躍り上がって喜びたい気持ちをグッとおさえ、冷静を装って訊いた。

「あ、ああ。もちろん良いよ。……それで、完成まで、どれくらいかかるものなの?」 

「早くて半月。じっくり描いて一か月以上。殆ど住み込み状態になっちゃうんだけど……」

「ははあ。随分かかるんだね。まあ、芸術だからな」 

 これは嬉しい。願ったり叶ったりだ。ありがとう、美大のコンクール。

 コンクール。そう内心に呟いてから、私は思い返した。コンクールに出すということは、私の裸が大衆に晒される! なんて昔は思っていただろう。でも、今は違う。

 今の私には、そんなことどうでもよくなっていた。


 作品は、かなり本格的な油彩画になるのだろうし、芽衣の技術なら、もしかすると入選する可能性だってあるかもしれないではないか。そうなら、いや、そうでなくとも、私の部屋で芽衣と私の愛の結晶が生まれる……! これは僥倖どころじゃないぞ!

 しかも芽衣とふたりで長い時間を過ごせるのだ。少し身体が痛いぐらい何でもない。

 そう考えたら、嬉しくて、私の顔は自然に笑っていた。

「どう? いい? キョー……。ううん。き、清子……さん」

「もちろん良いよ、芽衣。私、一生懸命に手伝うからさ!」

「ありがとう! きっと良い作品になるよ! よーし! 道具を取りに帰らなきゃ」

 そういってベッドから出ようとした芽衣を私は抱き寄せ、軽く優しいキスをした。

「モデル料前払い。確かに頂きました」

 最高の笑顔で、自分の唇をぺろりと舐めてみせる私に抱き着き、芽衣はいった。

「これじゃ安すぎ。……もういちど、して」

 初夏の陽光は明度を増す時間だったかけれど、私は芽衣の言葉に従った。

 きっと素晴らしい、私たちの絵が完成することを夢みながら。

 泣き虫芽衣は笑顔の芽衣にもどり、また、絵が描けるようになった。

 

 ふたりでがんばろうね、芽衣。  






                  『ふたりのカンバス』 了

                                

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたりのカンバス シイカ @shiita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説

百リ小説

★0 SF 完結済 1話