「先に言わせてもらおう。私はその時本当に怖いと思ったし、今でも怖いと思っている。しかし私と違う考え方をする奴からすれば特別恐ろしい話ではないかもしれん。だから終わった後に不満があっても。文句は言わないでくれ。例え言われてもどうもできんからな。ああ、勿体つけて悪かった。では話そう」






 雅芳登行がほうとうあんは当時大学生で、就職活動中の頃だった。アルバイトと勉強に明け暮れていたから、いつも夜は疲労困憊で夢も見ないのが常だったが、その夜はふっと目が覚めた。

 弟は学校の寮へ、姉も結婚して出て行ってしばらく経っていたから少しは慣れていたと思っていたのだが、その時は殊更家の広さというものが際立って押し寄せるようだった。

 喉が渇いていて、とにかく何か飲みたかった。

 台所へ降りていって冷蔵庫を開けると、瓶に入った麦茶が残っていた。登行はそれを飲み干して流しへ置いたのだが、その瓶に映った影が動いた。

 己の影ではなかったし、あの時他に動くものなど何もなかった。

 反射的に顔をあげると、そこにあったのはタイル貼りの壁でなくてのっぺりとした鏡を見つけた。継ぎ目が一切見当たらない、大きな一枚物の鏡に自身と台所のコンロが映っている。

 ……だが、鏡の中の登行は高校時代の学生服を着ていた。しかも、鏡の中には死んだ母親が隣に立っている。

 慌てて隣を振り返ってみたが、もちろん誰もいない。改めて鏡をよく見ると、鏡の中の登行は洗い物の途中のようだった。しばらくは登行と同じようにこっちを見ていたが、母に何か言われたようで、作業を再開した。

 アルバムの住人となってしまった母親はとても懐かしかったが、明らかに現在でないモノを映す鏡には、今にもその奥から手が伸びてきそうな恐ろしさがあった。

 薄暗い真夜中の台所で真昼のように振る舞う光景は異常だったし、よく台所を手伝っていたことは事実なので全くの嘘でもなかったから。

 鏡に釘付けになっているうちに、小さな破裂音が響いて我に返った。

 以前もっと大きなそれを聞いたことがあった気もしたが、思い出す前に喧しく割れ落ちた鏡に思考そのものが吹っ飛んだ。登行は思わず後ずさって台所を出て、混乱したまま気が付けば居間の前まで来ていた。






 ぼんやりと青く染まった居間を入った正面の壁に、居間全体を映す程の大きな鏡が掛かっている。

 その鏡の中の自身はまた制服を着ていて、無人のはずのソファーには同じく学生時代の姿のワン、鍛治屋、後輩の及川と近藤が寛いだ様子で座っていた。

 居間の入り口にこちらを見て立っている登行は、人数分のマグカップが載ったお盆を持っていて、気付いて立ち上がった及川と何か会話した後めいめいの前にカップを置いていった。

 近藤は登行と入れ替わりに台所へ行ったようだった。確かに――夜ではなかったが――あの時彼女は食べ物の載ったお盆を取りに行ったはずだ。それで巨大台所害虫に遭遇して大騒ぎ……。

 頭の隅で思い返していると、また小さな破裂音がして、鏡は床に騒騒しく流れ落ちた。

 登行は訳がわからないまま居間を後にした。






 廊下の壁には大小様様な鏡が隙間無く並べて掛けてあった。

 登行が歩くのに合わせて上着を肩にかけた制服姿の自身も鏡の中を歩いていく。ある時は一人で、ある時は家族や友人達と一緒に。

 歩いている間中ずっと、後ろの方で小さな破裂音と硝子の落ちる喧しい音がつかず離れずついてきた。

 廊下の壁から鏡が消えて、通り過ぎた最後の一枚が割れ落ちるのを聞いた時、登行は一つだけ開きかけたドアに気が付いた。

 入ってみると、そこは両親が急逝して以来開けていなかった防音が施された部屋だった。楽器の類は葬式後全て処分してしまっていたから、グランドピアノの無い音楽室は湿気た臭いがした。

 その、入ってすぐの壁にまた大きな鏡が掛かっていて、鏡の中の登行は部屋着に着替えていた。

 青い夜闇の中に、あるはずのない漆黒のグランドピアノが艶やかに映っている。その傍には姉弟と叔父、従妹がいた。

 従姉はピアノ、姉はヴァイオリン、弟はフルート。登行はギター。叔父は一人だけ立って、楽譜を捲っている。

 そういえば昔、定期的に一族達と演奏することがあったな……そう懐古しているうちに、鏡の中で演習が始まった。

 しかし聞こえてきたのは楽器の音色ではなく小さな破裂音。鏡はまた罅割れ白く濁った。それが落ちるのを見届けず登行は部屋から出た。

 扉が閉まりきる瞬間に硝子が硬い床に落ちる虚しい音がしたが、防音扉のおかげで廊下は静けさを保っていた。

 登行はようやく、逸早く寝室に戻るべきだと思い至った。






(全て、精神的に酷く疲れている所為だ)


 登行はそう自己完結してベッドに腰掛けた。

 ふと顔をあげると、自分が同じようにベッドに腰掛けてこちらを見ていた。鏡の中から。

 少ししてから鏡の中の俺は出かけるべく身支度を始めた。あっという間に写真でしか知らない祖父が着用していた式典用の軍服と瓜二つの格好になり、制帽を被った登行は、不意にはっきりともう一人の自分を見た。

 登行は、もう自分の顔をした男と、鏡面越しに睨み合った。

 男は登行を睨みつけたまま懐に手を入れる。それと同時に登行はベッドの下の収納棚に飛びついた。そこには高校時代に使っていたバッドとボールが入れてあったのを思い出したからだ。

 案の定男が拳銃を取り出した時、登行は抽斗からボールを取り出していた。

 そのまま登行は銃を構えようとした男に向かって衝動的に投げつけた。

 鏡に大きな、蜘蛛の巣のような罅が入る。結局撃たなかった男と鏡はあっさり床に雪崩れ落ちた。

 それと同時に、登行はそのままベッドへ仰向けに倒れ込む。

 鏡が落ちる一瞬前、罅の向こうから笑い声が聞こえた気がした。


「眠っていたのかどうかは分からんが――我に返ると朝になっていた」


 飛び起きて壁際の床を見たが、どこにも鏡の破片など一切見当たらない。だが、夢と言い切るにはおかしかった。

 床にはボールが転がっていて、だが壁にはぶつかった跡など無かった。

 登行はボールを元の場所に仕舞った。

 その後家中を見て回ったが、全ていつも通りだった。

 しかし。元から設置されていた鏡――洗面所、各部屋のクローゼットの扉の内側についている姿見、それから玄関脇のそれらもなくなっていた。

 あの夜、家中を埋め尽くした、『あるはずの無い』鏡は何だったのか……当時はもちろん、今になってもわからない。この歳になってもわからないだろうし、むしろわかりたくはない。

 ……今でも、時折夢にあの自分と瓜二つの男は現れる。

 

『わすれるな』


 まるで、そう伝えたいばかりに。


「……俺の体験談はこれで終いだ」

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あやし拾遺集 狂言巡 @k-meguri

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