あやし拾遺集

狂言巡

水底の乙女

 ――ねぇ、知ってる? ×××小学校のプールにはね、×××が棲んでるんだって……


「なあ、お前達は人魚の存在を信じるか? 日本で人魚といえば八百比丘尼伝説だ。これは最近先生に聞いた話なんだが、韓国にも似たようなお話があるんだってな。浪奸と言うらしいぞ。中国は……何だっけ? 今すぐは思い出せないな。脱線しかねないからここまでにしておこう。要するに、アジアの人魚伝説はだいたいその肉に関する話で、肉を食べたものは不老長寿になるという伝説だ」

「それに対してヨーロッパの人魚伝説では、あまりそういう話は聞かないよなあ。どちらかといえば歌声がどうたら、みたいな有名な気がするし。しかも不吉な象徴らしいんだって? 私は西洋の方はあまり詳しくはないんだが、ギリシャのセイレーンは知っているぞ! とっても素晴らしい歌で誘惑して、船を沈めてしまう恐ろしい化物なんだってな。そういえばドイツのローレライなんかもそういう感じの仲間だっけ。日本でもそこそこ知られているよな」

「こんな風に、西洋の人魚と東洋の人魚という存在は大きく違ってくるが、これからの話というのはヨーロッパの人魚の方を想像してほしいんだ。学校のプールに、人魚が住んでいる話だ」

「……今笑ったな? まあ、確かにおかしなことかもしれないよな。普通、人魚といったら海に出るものだし。でもアジアでは、池や川に住むものも多くいるようだぞ。ヨーロッパを想像してくれとは言ったが、やはりここは日本――多少のアジアの考え方が混じりこむのは、そうおかしなことじゃないからな」

「それでもプールに住んでいるのはおかしいって? そうだな、私もそう思っていた。でも、それにはちゃんとした理由があるんだよ。そろそろ本題に入ろうか」


 怪事件はプールではなく、とある山村の総合体育館の前から始まった。定期的の人が集まる所には、必ず露店というものが現れる。大阪のような都会となるとそれも結構厳しく規制されているものだが、田舎ではそうそう上手くいかない。

 だから、偶に怪しい人間がいることがあった。そんな連中の一人だったんだろう。初老を少し越えたらしいその男性は露天商で、いつも不思議な、それでいてよく分からないものを階段脇の道端に並べていた。大人たちは関わってはいけませんと言っても、その商品は子供の好奇心を引くようなものが多かったらしい。

 夏休みも半分過ぎたある時、一人の少年が稽古終了後にその露天商を見つけ、興味本位で並べられた売り物を眺め出した。老人は視線もくれず、銅像のようにただじっと座っているだけ。有象無象の怪しい商品の中で、一つ少年の眼を引いたものがあった。水に落とした油をそのまま固めたような色の、大きな魚の鱗のようなもの。


「じいさん」


 少年ははじめて話しかけた。


「じいさん、これなに?」


 老人はそこで初めて少年の方に視線をくれると、しわがれた声で答えた。


「豊かな黒髪を持つ、人魚のウロコじゃよ」

「ウソだろ」


 突飛な返事に少年は笑ったが、生意気な口とは反対に、彼は鈍く光るその大きな硬い鱗に魅入られたように手を伸ばし、また尋ねた。


「じいさん、これいくら?」


 老人は少年が払えない額ではない値段を提示した。男の子は少し迷ったものの、やがて財布を取り出した。なぜかどうしてもその時、この鱗が欲しくなったのだ。帰りにアイスを買うお金として母親に貰っていた金を受け取った老人は、にたりと笑みを浮かべて言った。


「坊主。この人魚は寂しがりだからね、ちゃんと見ていてあげるんだよ」


 その時、少年は言われた言葉の意味が分かっていなかった。

 ――後に事件が起こるまでは。


 鱗を買った翌日は登校日で、少年は早速それを学校で皆に自慢して回った。綺麗といってくれる子もいれば、どこがいいんだと首を捻る子もいてクラス内でちょっとした騒ぎになった。

 その日の授業は水泳があって、しかも全クラス合同だったので、少年はその鱗を他のクラスの友達にも見せてやろうと思い、プールに持っていった。水着のポケットに鱗を入れ、プールサイドに向かったはいいが、やはりそこは子どもだ。

 楽しいプールに飛び込めば、そちらに夢中になってしまう。自分が鱗を持ってきたことなんて忘れて、少年はそれこそ魚のようにプールの中を泳ぎ回っていた。


 授業が終わり、着替え終わった頃。少年はやっと鱗のことを思い出したが、水着のポケットには何も入っていなかった。プールの中に落としてしまったのだろうか。でもその日の授業はそこでお終いだ、一応プールサイドまで行って覗いてみても、鱗のようなものは見つけられなかった。

 仕方がない、明日もプールがあるからその時に探せばいいやと、少年はその日の捜索を諦めて学生寮に帰った。次の日のプールの時間、少年はプールの底を一通り見回してみたが、ついに鱗を見つけることは出来なかった。

 それに、その個人的な落とし物をミスディレクションさせる、おかしなことが起こったんだ。プールの授業を受けていた同じ学年の女の子が、誰かに足を引っ張られたと悲鳴を上げた。


「危ないから悪ふざけはやめなさい」


 最初先生達は生徒達に口で注意するだけだったが、引き上げられた女の子を見て血の気が引いた。女の子の足には、真っ黒な髪の毛が何本も絡みついていた。

 ……何故か右足だけにぐるりと。たまたま抜けた生徒の髪が偶然同じ箇所に何本も何本も引っかかったとは、考えにくいことだったが、他に考えようも無いので先生達は無理やり解釈し、怯える女の子を保健室に連れて行った。

 そしてその先生が再びプールサイドに戻ると、またしても誰かの悲鳴が上がった。今度は少年のクラスメートの男の子だった。彼は背が低い上に、あまり泳げないタイプではなかったから大変だ。先生たちは急いで彼を引き上げて無事だったとはいえその子は心底怯えきっていた。


「やったのは誰だ」


 学校の一番年配の先生は凄い剣幕で怒った。


「さっきからひどい悪戯を繰り返すのは誰なんだ。もう冗談じゃ済まされないぞ」


 子供たちはお互いに顔を見合わせ、不可解な表情に怯えを滲ませた。


「あの鬼由利先生、ちょっとすいません」


 他の先生が呼んだ。


「見て下さい、これ」


 先生が目を向けると、悲鳴を上げた少年が先程女の子を保健室へ送った先生に抱きかかえられていた。そして彼の左足には、先ほどと同じように黒い髪の毛が。先生達は黙り込んで、それから生徒達全員にプールから上がるように指示した。結局いつもの半分程の時間でプールの授業は終わりを告げた。


 不可解な事故が起こったのは、この学年だけではなかった。他の学年も、上級生も下級生も、必ず誰かが溺れかけて足を引っ張られたと訴える。そして引き上げてみると、必ず引っ張られた箇所に黒い髪の毛が絡みついている。


『プールの中に、何かが棲んでいる』


 そんな噂が学校中に広まり、プールの授業は一時休止になった。先生達は一度水を抜き、点検することにした。不審者が、何か生物やゴミでも投げ込んでいるのかもしれない。

 異例の事態に、鱗を買った少年も当然怯えていた。彼は足を引っ張られてはいなかったが、被害に遭った怯えた様子を見てすっかり怖くなってしまった。でも彼は、これが自分の買ったあの鱗に関係しているとは、夢にも思っていなかった。

 プール掃除は残りの登校日の間に行われた。水を抜かれたプールはあまり汚れていなかった。当然いえば当然だ。プール開きからまだ一カ月もたっていなかったのだから。

 でもそれにしては、妙に髪の毛の量が目立った。排水溝にまでびっしりと絡み付いていて、しかもどれもこれもが真っ黒で長い。同じ人間のもののようだが、それにしては量が多すぎる。しかも、落ちているはずのない奇妙なものまで発見されたそうだ。

 油のように光る、大きな魚の鱗のようなものを。それが何枚かプールの底にくっついていた。気味の悪いものを誰もが感じながらも、業者による掃除が完了し、再びプールに水が入れられた。

 夏休みが開けると再びプールの授業が始まったが、最初の学年で足を引っ張られる事故が三件、相次いで二件起きた。髪の毛が絡みついているのも、夏休み前に発見されたものと同じ。


 しかし今回はまた新たに発見されたものがあった。それは、髪と一緒に被害者の身体に張り付いた鱗。それは掃除の際にプールから発見された鱗と同じものだったそうだ。

 おかしい、掃除は全て完了したはずなのに、どうしてそんなものがまだ出てくるんだ。引っ張られる足、絡みつく長い長い髪の毛、見つかった鱗。その学校に


『プールに人魚が出る』


 一見荒唐無稽な噂がまことしやかに広まるのは、そう遅くはなかった。そして少年はその噂を聞いた時、ようやく気付いた。プールの中にいるのは、自分が買って、学校に持ってきた鱗のヌシか。豊かな黒髪を持ち、海の何億分の一にも満たない水の中で、不可思議な存在が泳いでいる。

 少年の頭の中で、老人の声が蘇った。


「坊主。この人魚は寂しがりだからね、ちゃんと見ていてあげるんだよ」


 足を引っ張るのはとって食うためか、はたまた水底に引きずり込んで仲間を増やそうとしているのかも……。少年は怖くてたまらなくなり、けれども親や先生に言うのもなんとなく憚られて、ついには沈黙を貫き通した。

 プールの授業の方はといえば、これ以上の何か起こり、万が一重大な事故が起こってしまったらという懸念から無期限休止された。

 そして少年が最後にあった日を境に、あの露天商は、彼の地元にぱったりと姿を見せなくなったそうだ。


「――以上、弟から聞いた人魚伝説でした。あいつ、一昨年に海で居なくなっちゃったから、もう時効だろうし。お前たちも気をつけろよ、海に出る妖怪からって、海以外に出ないって確証はないんだからな」


 語り終えた少女の斜め後ろに置いてある水盆が、ばしゃんと音を立てた。

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