信号機に生まれ変わった男は叫ぶ

風和ふわ

信号機に生まれ変わった男は叫ぶ

 人が死ねば神様になるだとか、星になるだとか、生前よく聞かされていた。だが押し潰されそうなほどの大量の仕事にそんなことはとうに忘れていた。そして見事にその仕事達に押しつぶされて死んだ今、私は人が死んだらどうなるのか、という質問の答えに辿りついた。

 答えは―――――信号機になる、だ。

 いや、実ははっきりとはわかってはいないのだ。もしかしたら私と違って上手く星になったり、神様になったりした人もいるかもしれない。魂としてふよふよと空中を浮いている輩もいるかもしれない。人間に生まれ変わった者だっているだろう。だが私は信号機に生まれ変わった。だがそれは人間に生まれ変わるよりはましだと思う。死ぬ直前まで仕事に追われていた身だったので、上司の鼻息を窺う日々を送るのはもううんざりであった。同僚に裏切られた事だって何回もある。妻はせっかくの給料を湯水のように使った。そしてそれをぼんやりと黙って眺めている自分の情けなさといったら……。考えるだけで収まりきれない怒りと後悔などといった己のあらゆる負が湧き上がってくる。もし自由に生まれ変われたら、猫に生まれ変わって気楽に昼寝というのも捨てがたいと思う。だがよく考えたら、こんな汚い現代社会に野良猫が気楽に昼寝のできる場所なんてあまりないだろう。あっちいけと石を投げられ、少しの同情で泥に汚れたミルクを飲ませられるのも嫌だと思った。そもそも人間以外のどんな生物に生まれ変わっても、食物連鎖という恐怖からは逃れられないだろう。そう思うと、やはり無機物である信号機に生まれ変わってよかった。そう思っていたのだ。


………いつからだろうか、そんな毎日に恐怖するようになったのは。

 

確かあれは信号機に生まれ変わって一カ月が経った頃。いつものように歩行者ボタンを押されたため、私は体を真っ赤に輝かせた。だが、一番先頭の車は止まらなかった。信号機に生まれ変わって、初めての信号無視。私は戸惑った。そして聞こえるはずもないのに、慌てて叫んだ。


止まれ!!


 勿論、車は止まらなかった。辺りに響く鋭い自動車のブレーキ音。気付いたら、赤い水たまりが道路に広がっていた。ざわめく周辺。誰かの叫び。どこか遠くでカラスの鳴き声が聞こえてくる。道路沿いに並んであった桜の木々もざわざわと風に揺さぶられていた。そして道路に広がったのが血液だと理解したのはブレーキ音が響いた数十秒後だった。水たまりの真ん中に横たわっている女性。動く気配、いや、生きている気配すらない。今、目の前で人が死んだ。もし無機質な信号機でなかったら、私の体は小刻みに震えていたことだろう。そっと女の人を轢いた自動車を覗けば、真っ青で泣きわめいている男が運転席に座っていた。こいつのせいで、こいつが無視したせいで……。男はなぜか新品のグローブを抱きしめて泣いていた。私は倒れている女性に視線を移す。未だに動かない女性。よく見ればいつもこの横断歩道を通る女性だった。道路向かい側にある保育園。そこにいる愛しい娘を迎えに女性はここを毎日通っていた。小さな娘の手を握って、長い黒髪を風に流して、この横断歩道の上をその細い脚で毎日歩いていた。今日だって、我が子の笑顔を想って、あんなに嬉しそうにここを渡ろうとしていたのに。私はとても泣きたかった。女性が過ごすはずだった母親としての未来が目の前で消えたのだから。だが無機質な私の体から涙なんて出るはずもなかった。その代わりなのかは知らないが、繊細な雨がその日が終わるまで降り続いたのを今でも私は覚えている。

 あの日から丁度一年が経った頃だったか。時々、一人の少女が私の足元を訪れるようになった。彼女は新しい真っ赤なランドセルを背中に背負って、黄色い帽子を輝かせて、私の足元にずっと立っていた。私は彼女があの女性の娘だと気付いた。ここ一年は彼女を見ていなかったので、少し大きくなった彼女に私はなんとも言えない気持ちになる。彼女は毎日毎日、私の足元を訪れた。時々手を上げ、何かを掴むような仕草をした。だが彼女の手を包んでくれる母の手はもうない。彼女の手は寂しく空中で行き場を失う。そしてその度に彼女は号泣する。そんな彼女に思わず手を差し伸べたくなったが、信号機に手などついてはいない。だが何故か、彼女が泣いていると必ず一匹の白い小さな猫が彼女の足元にやってくるのだ。彼女を見つめる猫の優しい眼差し。私はドキリとした。猫は愛しそうに彼女を見上げる。彼女は、そんな猫に気づかずに、泣きながら帰っていった。猫は黙ってその後姿を見送った。彼女の後姿が見えなくなるまで、その場を動かなかった。もしや、猫の正体はあの女性ではないかと私は思った。娘を見守るために、女性は猫に生まれ変わったのだろうか。あっちいけと石を投げられても、少しの同情で泥に汚れたミルクを飲ませられても、女性は娘を見守る人生を選んだのだろうか。なんて美しい人なんだろうと私は思った。猫は少女の背中に小さく鳴いた。


 「泣かないで」


 女性のそんな言葉が聞こえたような気がした。私が女性を守れなかったばっかりに……。私は本当になんて情けない男なのだろう。涙は出なかった。なぜなら、私はただの信号機に過ぎないのだから。

また、一人の少年が私の足元を訪れることもあった。彼は同級生からいじめられているようで、友達から「人殺しの子供」と呼ばれているのを聞いた。もしかしたら、彼はあの信号無視をした男の子供かもしれないと私は勝手に思っている。なぜなら彼はあの男が抱きしめていたグローブをいつも持っていたからだ。持っていたといっても人に見せたくないのか、両腕で隠す様にグローブを抱いていた。彼はあの少女より年上のようで、黒いランドセルはなんとも痛々しい。傷ついている大きな体を縮こまらせ、私の足元に立っていた。そのままずっと立っているかと思えば、急に私の足元を思い切り蹴りつけてくるからたまったものじゃない。「やめろ!!」と怒鳴りつけたくなったが、どうせ怒鳴ることも出来ない。しかし彼が泣いていることに気づいて、私は戸惑う。彼は私の足元に大事に抱いていたグローブを投げつけた。私ははっとした。あの男は人を殺した。その事実は変わらない。だがあの男は早く家に帰って息子にグローブを与えてやりたかった、ただの父親だったのかもしれない。もしそうだったとしても人は殺したのだ。だから今、この少年が、あの少女が、苦しんでいるのだろう。彼は自分の親のせいで、友達だと思っていた同級生に「人殺しの子供」なんて呼ばれるようになった。不幸の原因である父親は彼を愛していた。その証拠となるグローブを残されたら、彼は父親を恨めなくなってしまった。どうしていいか分からない悲しみと怒りに苦しんでいる。彼は毎日毎日私の所に来ては私を蹴った。だが私は全く怒る気にもなれなかった。

 泣きながら帰っていく少女と少年の背中は段々大きく成長し、ついに私の足元に訪れなくなっていた。信号機になってからもう数十年。猫もどこか汚い場所で静かに死んだにちがいない。昔と随分車の姿形は変わっているけれども、私がそんな車達を恐れているのは変わりない。あれから、何回目の前で人が死んだだろうか。ほとんど、私の赤い忠告を無視したことが原因のものだった。なぜ、私を無視するのだろう。待っているのは死んだ人を大切に想っていた家族の涙で、恋人の涙で、友人の涙で。そんな人達が、私の前で膝をついて泣いていく。やめてくれ、そんなの、私は見たくないのに。

 きっとこの流れる車の運転手たちは私がそんな事を叫んでいることを知らないのだろう。そう思いながら、私は今日も体を赤く輝かせる。何度も何度も、願いながら。


………お願いだから、私を無視しないでくれ!!!!


 そう願ったというのに、また止まらない車が一台、私を通り過ぎて行った。あぁ、まただ。私は恐怖で震えることも、涙を流してこの揺れ動く感情を消費することも出来ないのだ。なぜなら私はただの信号機なのだから。


 私の前で死なないでくれ!!

 私の前で泣かないでくれ!!

 私の前で恨まないでくれ!!

 止まってくれ、止まってくれ!!


 何度叫んだことだろう。だがその叫びは辺りに響く激しい衝突音によって、虚しく桜の花びらと共に散っていった。

 

 終 

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