第7刑 監視する目―A

 百波ももなみ利里りりは怯えていたかもしれない。自分でも、あの時感じたものが何なのか、理解できていなかった。先日から事件現場の近くで感じる謎の気配。この半月で、もう3回も経験している。一瞬だけ捉えたあの人影は、一体誰のものだったのか。それが発する異質なオーラの正体は何なのか。


 恐怖なんて感情は、とうの昔に克服できたものだと思っていた。乃述加ののかと出会い、孤独に震える日々は終わったものだと思っていた。だが、再び彼女には恐れるものができてしまった。


「大丈夫だ……。私には仲間がいる。へっちゃらに決まっているのね……」


 そう自分に言い聞かせて、必死に悪寒を振り払おうとする。

 早く、この苦しみから逃れたい――――。




        × × ×




 休み時間。十谷とおやしょうは1人でトイレに籠り、1枚のプリントを見つめていた。学友に見せる訳にはいかない禁断のリストが、そこにあった。


「ここに、父さんに繋がる道がある……」


 彼の父、十谷達哉たつなりが死ぬ間際に研究していたことは何なのか。父と同様に『E.S.B.』の研究部に所属している武部たけべ荘也そうやがくれたこの情報は、非常に貴重なものだった。


「父さんが一緒に研究をしていた人たち……」


 そこに記されているのは、七人の名前。父自身を含む、彼の研究チームの名簿だ。


臼井うすいゆう江藤えとうとおる楠見くすみ耕太郎こうたろう/十谷達哉/ステンカ=デスデローサ/牧原まきはら治彦はるひこ名川ながわ代美しろみ


 しかし、見つかった資料はその名簿のみ。肝心な研究内容については、一切触れられていない。


 父さんは何を研究していたの? そう心の中で問いかけるが、当然応答はない。腕時計に視線を移すと、休み時間が終わる2分前だった。そろそろ教室に戻らなくてはいけない。


 早く、父の死の真相を知りたい――。




 席に着いて、鞄の中から教科書を取り出したその瞬間、教室の外から自分を呼ぶ声が聞こえた。そちらを向くと、那雫夜ななよが手招きしている。しかしもう、教師が教壇に立って授業の準備を始めている。どうしようかと戸惑う晶。だが、那雫夜の表情がどこか切羽詰っているように見えたため、そちらを優先した。


「すみません、失礼します」


 一言断ってから教室を出る。クラスメイトがざわついているのを感じたが、そちらに構ってはいられない。


「どうかしたんですか?」


「乃述加から連絡。仕事が入ったから、すぐに家に来るように、って」


「《罪人》絡みの事件、ですか?」


「それ以外にわたしたちの仕事なんてないわよん」


 もう1度教室に戻り、持ち物を纏めて、教師に「早退する」と伝えると、2人で帰路についた。




 邪庭やにわ宅。乃述加と利里は、既に出発の準備を整えていた。任務の内容は移動しながら話すと言われたため、4人でマンションの駐車場へ向かう。


 乃述加が運転するボックス車の中で、今回の任務の説明がなされた。


「今回は少し遠出しますわ。どうにもあたくし――執行部長の力を借りたい、ということですの」


「まだ詳しいことは私らも聞いていないんだけどね、どうやら前代未聞の《罪人》が現れたとか。まぁ気になるし、行くしかないのね!」


 やけに明るく振る舞う利里。しかしそれは、謎の気配に怯え続けていることを、誰にも気取られないようにしているだけであった。もしかすると、自分の心を誤魔化すためでもあるのかもしれない。ひたすら恐怖から逃げようとして、ちぐはぐな態度になってしまっている。


 だが乃述加はそれを察しているようで、憐れむような視線を利里へ向けていた。彼女は咥えた煙草に火をつけると同時に、車を発進させた。




        × × ×




 移動すること3時間。奧着おうぎ市から遠く離れた町へ着いた。向かったのは、この地域の『E.S.B.』の事務所。


「お忙しい所ありがとうございます。こちらの執行部代表の笹川ささかわです」


「初めまして、執行部長邪庭ですわ。――それで早速なのですけれど、《罪人》に関する異常事態とは何ですの?」


 握手を交わす代表2人。その後見せてもらったのは、とある写真だった。


「高速道路のゲートの監視カメラが捉えた映像から切り出しました」


 写っていたのは、全長6メートルはある巨大な化け物だった。シルエットはほぼ人間と同じだ。異なるのは異様に長い腕くらいか。その手の先には太い鉤爪が伸びている。全身は灰色の毛と苔で覆われており、非常に気味が悪い。


「これ、本当に《罪人》ですか? こんな怪獣初めて見る……」


「我々もです。しかしあれが《罪人》だったことに間違いはありません」


 写真が別のものと取り換えられた。

 1人の男の写真だ。囚人服に猿轡、首輪と、まるで人権を否定されているような格好をしている。


「捕縛部の方で収容していた男です。こいつの《罪人》としての姿が、こっちの写真です」


 再び写真が取り替えられる。そこには処刑人と《罪人》の先頭の様子が写っていた。それを確認した乃述加は驚愕した。


「さっきの写真の怪獣と、同一の姿――?」


 彼女の呟きの通り、その《罪人》は全く同じ姿をしていた。高速道路の監視カメラが捉えた化け物と、である。これが示しているのは、どういう意味なのか。


「まさかこの囚人が巨大化した、なんてアホなこと言ったりしないでしょうね?」


 刺々しく尋ねる利里。だが笹川は「そのまさかです」と、申し訳なさそうに口にした。


「そんな話、今まで聞いたことがない・・・・・・」


「ですから、前代未聞の事態ですのでお手をお借りしたいと申し上げました」


 利里はチッと舌打ちすると、爪を噛み始めた。


 そこからは主に乃述加が話を聞いた。説明されたのは、写真に写っていた男は、《罪人》として覚醒し、捕縛部によって捕らえられていたこと。1週間前、急に暴れだし、拘束具を破壊して脱走したこと。4日前に高速道路のゲートの監視カメラがあの化け物を撮影したこと。そして――。


「昨日、山中で巨大な獣を目撃したという通報が、警察にありました。例の画像は警察の方にも送られていたので、向こうも『もしや』と思い、我々に協力を申しかけてきました。そうして合同捜査を行ったのですが、そこで発見されたのが、これです」


 4枚目、5枚目の写真が渡された。まず4枚目の写真には、巨大な怪物が谷で倒れているところが写っていた。


「これ、もう死んでいますの?」


「はい。死体であることが確認されました。そしてこれを調査のために移動させようとしたのですが――」


 そこでもう1枚の写真だ。


 写っていたのは、脱走したという囚人の男。身体が所々崩れている。死んでいることに間違いはない。だが問題は、その背景だ。


「怪獣が見つかった場所と同じ・・・・・・」


「はい。死体を運ぼうと近寄った瞬間、塵芥になりそれは崩れました。そしてその中から出てきたのが、その男です」


 それは間違いなく男が巨大な《罪人》になったことの証だった。ありえない・・・・・・と小声で繰り返す乃述加。笹川も同じ気持ちだろう。だが彼はその現場を実際に見てしまっている以上、信じるしかなかったのだ。


「かれこれ20年はこの世界に関わっていますが、こんなことは初めてです」


「あたくしも聞いたことありませんわ。こんな、《罪人》が巨大化するだなんて」


 この出来事は確かに不可解だ。だが一行はこの起きてしまったことに対しては、然程恐怖を覚えなかった。それよりも、これはまだ異常事態の始まりに過ぎないという、不吉な前兆の現れに、恐れを抱いていた――。




        × × ×




 時と場所は移る。邪庭班がその町を訪れた日の、深夜である。


 そこからそう遠く離れていない、警察の施設だ。ここには《罪人》ではない、一般の犯罪者たちが拘留されていた。当然監視が厳しい。アリ1匹入れないような、厳重な警備態勢が敷かれていた。


 それにも関わらず、侵入を許してしまった。


「ホォント、男ってのは簡単だねぇ。アタシの美声を耳元で囁いたら、すぐ落ちちゃうんだから」


 廊下を進む女は、真っ赤な唇を撫でるように舌なめずりする。ハイヒールの打ち鳴らす足音は、軽快だった。


「待て!」「止まれ!」


 そんなに物音を立てていれば、すぐに見つかってしまうのは当たり前だ。だが女は、警備員の登場に一切動揺しなかった。


「「!!??」」


 むしろ恐怖に悲鳴を上げたくなったのは、警備員の方である。まだ10メートルは先にいたはずの女が、視界から姿を消したかと思うと、いきなり肩に手を回してきたのだから。


「悪い子ちゃんたち。アタシに手を上げようなんて、100年早いんだゾ」


 女は片方の警備員の耳にフッと息を吹きかけてから、そこを一舐めした。さらにそれから彼女の手が、警備員の股間に重ねられる。


「こんな場所でお仕事していたら、溜まっちゃうでしょ? ほら、全部吐き出しちゃえ。大丈夫、ぜぇんぶアタシが受け止めてあげる。ガマンしないで。ビュビュッてしちゃっていいんだよ?」


 彼女の囁きと、股間を弄る快感に耐え切れなかったのか、警備の男は絶頂に至った。吐き出された精液がズボンに滲んでいく。そして男は、快感に身を委ねたまま事切れた。


「ヒイィッッ!!!」


 怯えたもう一人の警備員は、脱兎のごとくその場から逃げ出した。だが虚しくも簡単に捕まってしまう。


「どうして逃げるの? すっごく気持ちいいんだよ? それとも手だけじゃ物足りない? それなら、いいよ。アタシの中で果てさせてあげる――――」




 淫行の後に倒れた男を尻目に、女は施設のさらに奥へと進んでいった。


 実を言うと、彼女には特定の目的はなかった。実験台になるのであれば、誰でもいい。ただ、施設の最奥にいて、最も監視されていそうな人物の方が単純に強いと思ったのだ。そこの監視のしていた男たちも同様の手口で口封じし、ようやく実験台に相応しいと思える人物の元に辿り着いた。


「ハァイ。始めまして、アタシ、サクラっていいまぁす。あなたを迎えに来ました」


 独房の中で横になっていた男は、声を聞いた瞬間、跳びつくように扉の元へ移動してきた。


「誰だお前は。俺をどうする気だ」


「あなたにはアタシたちの仕事に付き合ってもらいたいの。だから、ここから出してあげる」


「どうやってここへ来た。あのクソ野郎どもはどうした」


「みんな幸せそうな顔をしてイッちゃったわァ。だからもう、あなたの邪魔をする奴は誰もいない」


 それを聞いた男は、嬉しそうに口を開いた。喉が渇ききっているのか、上手く笑い声を出せずにいる。そして、早くここから出せとでも言うように、格子を蹴りつけた。


「もう、そんなに焦らないで」


 この状況を楽しむように、女は格子の隙間から自分の手を部屋の中に入れる。意味がわからず、男はその手を観察した。


「触れて。あなたにとっておきの力をア・ゲ・ル」


 理解できていないが、言われたとおりに男は女の手を握った。すかさず女は、空いている方の手に持っていた注射針を男に刺した。驚く暇もなく、男の身体に変化が起こる。全身に力が漲る。同時に熱を感じる。あり得ない話だが、筋肉が沸騰しているように錯覚をする。


「お前……俺に何をした――?」


「ウフフ。ねぇ、今どんな感じ? 滾っている? 興奮している?」


 確かに彼女の言う通り、男の全身には快感が奔っていた。


「少しの間だけ我慢してね。いずれあなたに順応した力が、あなたを表に出してくれるはずだから。ほぉら、何でもすぐにできてしまったら、つまらないでしょ? 堪えて堪えて、もう限界って時にイッた方が気持ちいいんだから」


 蠱惑的な声で語りかけるも、女は徐々に部屋から遠ざかっていた。


 やがて立つことすらできなくなった男は、喘ぎ声を上げながら床を転がった。


「あぐぅ――アッ、アァァァッ! ああ……ひぐっ、アアァッ!!」


 その身体に変化が起きる。腕は毛むくじゃらに、足には爪、口からは牙が生える。じわりじわりと、異形と化していった。歪な化け物は、誰もいなくなった暗い廊下に向かって絶叫すると、格子を破壊し、牢を飛び出した。

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