第7刑 監視する目―A
恐怖なんて感情は、とうの昔に克服できたものだと思っていた。
「大丈夫だ……。私には仲間がいる。へっちゃらに決まっているのね……」
そう自分に言い聞かせて、必死に悪寒を振り払おうとする。
早く、この苦しみから逃れたい――――。
× × ×
休み時間。
「ここに、父さんに繋がる道がある……」
彼の父、十谷
「父さんが一緒に研究をしていた人たち……」
そこに記されているのは、七人の名前。父自身を含む、彼の研究チームの名簿だ。
『
しかし、見つかった資料はその名簿のみ。肝心な研究内容については、一切触れられていない。
父さんは何を研究していたの? そう心の中で問いかけるが、当然応答はない。腕時計に視線を移すと、休み時間が終わる2分前だった。そろそろ教室に戻らなくてはいけない。
早く、父の死の真相を知りたい――。
席に着いて、鞄の中から教科書を取り出したその瞬間、教室の外から自分を呼ぶ声が聞こえた。そちらを向くと、
「すみません、失礼します」
一言断ってから教室を出る。クラスメイトがざわついているのを感じたが、そちらに構ってはいられない。
「どうかしたんですか?」
「乃述加から連絡。仕事が入ったから、すぐに家に来るように、って」
「《罪人》絡みの事件、ですか?」
「それ以外にわたしたちの仕事なんてないわよん」
もう1度教室に戻り、持ち物を纏めて、教師に「早退する」と伝えると、2人で帰路についた。
乃述加が運転するボックス車の中で、今回の任務の説明がなされた。
「今回は少し遠出しますわ。どうにもあたくし――執行部長の力を借りたい、ということですの」
「まだ詳しいことは私らも聞いていないんだけどね、どうやら前代未聞の《罪人》が現れたとか。まぁ気になるし、行くしかないのね!」
やけに明るく振る舞う利里。しかしそれは、謎の気配に怯え続けていることを、誰にも気取られないようにしているだけであった。もしかすると、自分の心を誤魔化すためでもあるのかもしれない。ひたすら恐怖から逃げようとして、ちぐはぐな態度になってしまっている。
だが乃述加はそれを察しているようで、憐れむような視線を利里へ向けていた。彼女は咥えた煙草に火をつけると同時に、車を発進させた。
× × ×
移動すること3時間。
「お忙しい所ありがとうございます。こちらの執行部代表の
「初めまして、執行部長邪庭ですわ。――それで早速なのですけれど、《罪人》に関する異常事態とは何ですの?」
握手を交わす代表2人。その後見せてもらったのは、とある写真だった。
「高速道路のゲートの監視カメラが捉えた映像から切り出しました」
写っていたのは、全長6メートルはある巨大な化け物だった。シルエットはほぼ人間と同じだ。異なるのは異様に長い腕くらいか。その手の先には太い鉤爪が伸びている。全身は灰色の毛と苔で覆われており、非常に気味が悪い。
「これ、本当に《罪人》ですか? こんな怪獣初めて見る……」
「我々もです。しかしあれが《罪人》だったことに間違いはありません」
写真が別のものと取り換えられた。
1人の男の写真だ。囚人服に猿轡、首輪と、まるで人権を否定されているような格好をしている。
「捕縛部の方で収容していた男です。こいつの《罪人》としての姿が、こっちの写真です」
再び写真が取り替えられる。そこには処刑人と《罪人》の先頭の様子が写っていた。それを確認した乃述加は驚愕した。
「さっきの写真の怪獣と、同一の姿――?」
彼女の呟きの通り、その《罪人》は全く同じ姿をしていた。高速道路の監視カメラが捉えた化け物と、である。これが示しているのは、どういう意味なのか。
「まさかこの囚人が巨大化した、なんてアホなこと言ったりしないでしょうね?」
刺々しく尋ねる利里。だが笹川は「そのまさかです」と、申し訳なさそうに口にした。
「そんな話、今まで聞いたことがない・・・・・・」
「ですから、前代未聞の事態ですのでお手をお借りしたいと申し上げました」
利里はチッと舌打ちすると、爪を噛み始めた。
そこからは主に乃述加が話を聞いた。説明されたのは、写真に写っていた男は、《罪人》として覚醒し、捕縛部によって捕らえられていたこと。1週間前、急に暴れだし、拘束具を破壊して脱走したこと。4日前に高速道路のゲートの監視カメラがあの化け物を撮影したこと。そして――。
「昨日、山中で巨大な獣を目撃したという通報が、警察にありました。例の画像は警察の方にも送られていたので、向こうも『もしや』と思い、我々に協力を申しかけてきました。そうして合同捜査を行ったのですが、そこで発見されたのが、これです」
4枚目、5枚目の写真が渡された。まず4枚目の写真には、巨大な怪物が谷で倒れているところが写っていた。
「これ、もう死んでいますの?」
「はい。死体であることが確認されました。そしてこれを調査のために移動させようとしたのですが――」
そこでもう1枚の写真だ。
写っていたのは、脱走したという囚人の男。身体が所々崩れている。死んでいることに間違いはない。だが問題は、その背景だ。
「怪獣が見つかった場所と同じ・・・・・・」
「はい。死体を運ぼうと近寄った瞬間、塵芥になりそれは崩れました。そしてその中から出てきたのが、その男です」
それは間違いなく男が巨大な《罪人》になったことの証だった。ありえない・・・・・・と小声で繰り返す乃述加。笹川も同じ気持ちだろう。だが彼はその現場を実際に見てしまっている以上、信じるしかなかったのだ。
「かれこれ20年はこの世界に関わっていますが、こんなことは初めてです」
「あたくしも聞いたことありませんわ。こんな、《罪人》が巨大化するだなんて」
この出来事は確かに不可解だ。だが一行はこの起きてしまったことに対しては、然程恐怖を覚えなかった。それよりも、これはまだ異常事態の始まりに過ぎないという、不吉な前兆の現れに、恐れを抱いていた――。
× × ×
時と場所は移る。邪庭班がその町を訪れた日の、深夜である。
そこからそう遠く離れていない、警察の施設だ。ここには《罪人》ではない、一般の犯罪者たちが拘留されていた。当然監視が厳しい。アリ1匹入れないような、厳重な警備態勢が敷かれていた。
それにも関わらず、侵入を許してしまった。
「ホォント、男ってのは簡単だねぇ。アタシの美声を耳元で囁いたら、すぐ落ちちゃうんだから」
廊下を進む女は、真っ赤な唇を撫でるように舌なめずりする。ハイヒールの打ち鳴らす足音は、軽快だった。
「待て!」「止まれ!」
そんなに物音を立てていれば、すぐに見つかってしまうのは当たり前だ。だが女は、警備員の登場に一切動揺しなかった。
「「!!??」」
むしろ恐怖に悲鳴を上げたくなったのは、警備員の方である。まだ10メートルは先にいたはずの女が、視界から姿を消したかと思うと、いきなり肩に手を回してきたのだから。
「悪い子ちゃんたち。アタシに手を上げようなんて、100年早いんだゾ」
女は片方の警備員の耳にフッと息を吹きかけてから、そこを一舐めした。さらにそれから彼女の手が、警備員の股間に重ねられる。
「こんな場所でお仕事していたら、溜まっちゃうでしょ? ほら、全部吐き出しちゃえ。大丈夫、ぜぇんぶアタシが受け止めてあげる。ガマンしないで。ビュビュッてしちゃっていいんだよ?」
彼女の囁きと、股間を弄る快感に耐え切れなかったのか、警備の男は絶頂に至った。吐き出された精液がズボンに滲んでいく。そして男は、快感に身を委ねたまま事切れた。
「ヒイィッッ!!!」
怯えたもう一人の警備員は、脱兎のごとくその場から逃げ出した。だが虚しくも簡単に捕まってしまう。
「どうして逃げるの? すっごく気持ちいいんだよ? それとも手だけじゃ物足りない? それなら、いいよ。アタシの中で果てさせてあげる――――」
淫行の後に倒れた男を尻目に、女は施設のさらに奥へと進んでいった。
実を言うと、彼女には特定の目的はなかった。実験台になるのであれば、誰でもいい。ただ、施設の最奥にいて、最も監視されていそうな人物の方が単純に強いと思ったのだ。そこの監視のしていた男たちも同様の手口で口封じし、ようやく実験台に相応しいと思える人物の元に辿り着いた。
「ハァイ。始めまして、アタシ、サクラっていいまぁす。あなたを迎えに来ました」
独房の中で横になっていた男は、声を聞いた瞬間、跳びつくように扉の元へ移動してきた。
「誰だお前は。俺をどうする気だ」
「あなたにはアタシたちの仕事に付き合ってもらいたいの。だから、ここから出してあげる」
「どうやってここへ来た。あのクソ野郎どもはどうした」
「みんな幸せそうな顔をしてイッちゃったわァ。だからもう、あなたの邪魔をする奴は誰もいない」
それを聞いた男は、嬉しそうに口を開いた。喉が渇ききっているのか、上手く笑い声を出せずにいる。そして、早くここから出せとでも言うように、格子を蹴りつけた。
「もう、そんなに焦らないで」
この状況を楽しむように、女は格子の隙間から自分の手を部屋の中に入れる。意味がわからず、男はその手を観察した。
「触れて。あなたにとっておきの力をア・ゲ・ル」
理解できていないが、言われたとおりに男は女の手を握った。すかさず女は、空いている方の手に持っていた注射針を男に刺した。驚く暇もなく、男の身体に変化が起こる。全身に力が漲る。同時に熱を感じる。あり得ない話だが、筋肉が沸騰しているように錯覚をする。
「お前……俺に何をした――?」
「ウフフ。ねぇ、今どんな感じ? 滾っている? 興奮している?」
確かに彼女の言う通り、男の全身には快感が奔っていた。
「少しの間だけ我慢してね。いずれあなたに順応した力が、あなたを表に出してくれるはずだから。ほぉら、何でもすぐにできてしまったら、つまらないでしょ? 堪えて堪えて、もう限界って時にイッた方が気持ちいいんだから」
蠱惑的な声で語りかけるも、女は徐々に部屋から遠ざかっていた。
やがて立つことすらできなくなった男は、喘ぎ声を上げながら床を転がった。
「あぐぅ――アッ、アァァァッ! ああ……ひぐっ、アアァッ!!」
その身体に変化が起きる。腕は毛むくじゃらに、足には爪、口からは牙が生える。じわりじわりと、異形と化していった。歪な化け物は、誰もいなくなった暗い廊下に向かって絶叫すると、格子を破壊し、牢を飛び出した。
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