女装男子は膝の上に

「それではまずは物理の基礎の確認からしていきましょう」


「はーい。とは言っても千尋よりはできるわよ」


「一言多いよ」


「千尋はこれから黒羽根さんとトレーニングでしょ。早く行かないと」


 わたしに黙って朝から二人で勉強してたのに、わたしが榊原さんのところに行くときはしっかりついてくるんだから。


 千尋は朝に榊原さんから課題をもらっていたみたいで、真新しいノートを渡すと理科室を出て校庭へと向かっていった。


「それではちょっと失礼しますね」


「えっ、ちょっとなんでわたしの膝の上に乗り込んでくるのよ」


「ここが一番落ち着きますので」


 小さな体を器用に潜り込ませて榊原さんはわたしの膝の上に収まった。まるでそこにいるのが当然みたいな顔をして、驚いたわたしの顔を見上げている。


 スカートから伸びた脚がわたしの脚に重なっている。もっちりとしたすべすべの感触が合わさっている。見れば見るほど女の子ね。背が低いこともあって黒羽根さんや蛇ノ塚さんよりもわかりにくいわ。


「そろそろ降りてもらえない?」


「いえ、このまま始めましょう。この方が集中できますし」


「わたしは全然できないんだけど」


「今回はちゃんと男の子同士ですし、何の問題もありません」


 確かに千尋の膝に乗られるよりは何倍もいいわ。わたしの体は間違いなく男なんだから。それにしても千尋も榊原さんもこういうスキンシップに無頓着むとんちゃくね。もうちょっと年頃らしい自覚ってないのかしら。


「千尋さんもよかったですが、伊織さんの膝もなかなか素敵ですね。お姉ちゃんには負けますが」


「膝ソムリエのテイスティングはいいから」


 ちょっと動かしにくい両手を使って教科書を開く。どんなに難しい研究も基礎はこの教科書の中に入っている。まずはここを理解してないと、榊原さんの研究を理解なんてできないわ。


「それではフリーズドライの基本となる圧力と沸点の話から始めましょう」


「研究って、やっぱりあのオムライスの話なのね」


「はい、いつでもどこでもおいしくオムライスを食べるための崇高な研究なのです」


 本当にそれって崇高なのかしら。賢い人の考えることはよくわからないわ。


 でもフリーズドライって地震や台風でライフラインが途切れたときに水だけで食べることができて常温保存もできるから活躍するのよね。そういう意味ではたくさんの人の助けになる研究なのかも。


「気圧が低くなると水などの沸点が下がります。山の上でカップラーメンを作ると失敗する話は有名ですね」


「聞いたことあるわ。ぼこぼこ沸騰してるのに、実際の温度は百度じゃないから三分じゃ麺が柔らかくならないのよね」


「そうです。たとえば富士山の山頂では沸点は八七度ほどになります。さらに高くエベレストの山頂になると七〇度ほどまで下がります」


 学校の勉強だと思うと聞くのがなんとなく嫌になるけど、こうやって聞いていると不思議な話ね。水なんてどこでも百度で沸騰するって勝手に思っているけど、実際は環境や水の中の不純物なんかでちょっとずつ温度も変わるらしい。


「そして気圧をどんどん下げて真空に近くなると」


「近くなると」


「沸点と融点が同じになるのです!」


 キラキラとした目で膝の上からわたしの顔を見上げる榊原さんはとっても楽しそう。でもわたしはその感動を共有してあげられないわ。


「そうするとどうなるの?」


「なんと、沸騰しながら凍っていくんです」


 ちょっとイメージできないわね。榊原さんによると、沸騰しておみそ汁なんかから水分が抜けながら凍っていくとフリーズドライになるらしい。冷凍と違って水分が抜けちゃうから味が落ちないんだとか。


「ってわたし物理の勉強をしに来たんじゃ?」


「いいじゃないですか。フリーズドライに詳しい高校生モデルなんてなかなかいませんよ」


「そりゃそんなニッチなジャンルのモデルなんてそうそういないわよ」


 まぁクイズ番組で出てきたらすぐに答えられそうな気がしてきたわ。問題はそれが出題されるかってことだけど。


 ときどき話が榊原さんの趣味に逸れながら、なんとか物理の基本の復習は一日で終わらせられた。このままの調子で賢くなれるかはわからないけど、浅く広く勉強するよりは確かにインパクトはありそう。


 だって圧力と食べ物の話をしているときの榊原さんはニコニコしていてかわいいもの。やっぱり笑顔は男の子でも女の子でも魅力をアップしてくれるわ。


「さて、じゃあ千尋でも迎えに行きましょうか」


「明日もいらっしゃってくださいね。お待ちしています。伊織さんのお膝はとても素晴らしいですので」


「勉強代だと思ってまた座らせてあげるわ」


 名残惜しそうに私の膝から下りようとしない榊原さんを抱き上げようとする。それと同時に理科室の入り口から千尋の叫び声がした。


「あー! 伊織も詩栄理を膝に乗せてるじゃん! ズルい!」


「ズルいって何よ。こうしないと教えてもらえないのよ」


「僕にはダメって言ったのに」


「千尋は今女の子なんだから当たり前でしょ」


 わたしが見張ってない間にそこらの男と仲良くなっていそうで不安になるわ。千尋に自覚がなくても勝手に無防備な姿をさらしていそうだし。ここで勉強してるのが不安になってくるわね。黒羽根さんに頼んで一人にならないようにさせておかないと。


「ほら、こっちも終わったから帰りましょ」


「では明日もお待ちしていますね」


 榊原さんはこれから研究に戻るのかしら。わたしと千尋に勉強を教えて自分の研究も進めて大変そうね。これだけ付き合ってくれてるんだから少しくらいは成果を出してあげないとね。


「伊織は物覚えも良さそうでいいなぁ」


 二人並んで帰りながら、夕陽を見上げて千尋がぽつりと言った。


「そうでもないわ。わからないものはわからないわよ」


「でも僕よりは絶対わかるでしょ」


「千尋だって毎日頑張ってるんだからすぐにできるようになるわ」


 こうしていると、もう一人の千尋くらい自信がある方が何かとうまくいきそうにも見えてくる。でもそれじゃダメなのよね。今の千尋ができるようにならなきゃ意味がない。


「ねぇ。千尋がよければ、観覧席に招待できるか聞いてみる?」


「それって伊織が出るテレビ番組に?」


「うん。社長さんなら一枚くらい用意してくれると思うわ」


「テレビの収録なんて初めて見るよ。楽しみだなぁ」


 画面で見るよりも案外面白みのないものよ。それでも千尋が喜んでくれるならもらってくる価値は十分あるわね。


 わたしより楽しそうにテレビ番組を語る千尋が出たらどのくらいの人気者になるんだろう。そんなことを考えながら、わたしはキラキラと輝く千尋の表情を見つめていた。

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