メリッサ
櫻井 理人
メリッサ
二十世紀初頭のイタリア。ナポリのあるヴァイオリン工房。
男はいつもどおり、せっせとヴァイオリンを作っていた。店の中は沢山のヴァイオリンや材料の木材、工具が雑然と並ぶばかりで、男以外に客一人見当たらない。そんな中、軒先にかかったベルが鳴る。
「いらっしゃい」
男がドアの方へ目をやると、上品に着飾った若い女性が立っている。あまりの美しさに、男はしばらく言葉を失っていた。
「ヴァイオリンを、私に一つ作っていただけないかしら?」
男は我に返る。
「よ、喜んで! 納品まで二か月ほどかかりますが」
「構わないわ」
「では、お名前をお伺いします」
「メリッサ・アルディーニ」
メリッサが店を去った後、男が店の郵便受けに目をやると、一通の手紙が届いていた。差出人には「L」と書いてある。
「ロレンツォからか」
すぐさま封を開け、中を確かめる。
Lからカリストへ
次なるターゲットはS.アルディーニ。
娘のメリッサを招き入れよ。
たった三行の手紙。カリストは無言で手紙を見つめていた。
やがて、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
「アルディーニ……どっかで聞き覚えがあると思えば、さっきの女……官僚の娘か。
二か月後、メリッサはカリストの店へ現れた。
ヴァイオリンを受け取ったメリッサは、ヴァイオリンの出来を確かめようとその場で演奏を始める。彼女が演奏したのは、ヴィヴァルディの「
カリストは、目を閉じて演奏に聞き入った。彼女の奏でるヴァイオリンの音色はどこか心地が良い。
「裏の顔など忘れて、このまましがない職人として一生を終えられたら」などと、叶うはずのない願望を胸に秘め……。
「やはり、お噂はかねがね。父の言ったとおりだわ。素晴らしい職人さんだって」
メリッサの笑顔にこれっぽっちも穢れなどなかった。純真無垢な彼女の笑顔にすっかり虜になってしまった。
だが、同時にロレンツォからの手紙を思い出した。
「ありがとう。また機会がありましたら、お願いしますね」
メリッサが入口の方へ向いた時、カリストは彼女の腕を掴んだ。驚いた彼女が振り向くと、カリストはメリッサの
「悪く思わないでくれ……あくまで命令だ」
カリストは車を出し、ロレンツォの元へ向かった。
「早かったな」
「ああ、店の客として現れたからな」
カリストは、テーブルに置かれたエスプレッソに口をつけた。
「端からお見通しさ。リサーチした上での指示だ」
「やはり……」
カリストは心の中でそう呟いた。
「この後は、父親に身代金の要求か?」
「ああ、その上で
カリストは瞠目した。
「身代金だけではないのか?!」
「あ? そんなに驚くことか? 生かして返せば、間違いなく足がつく。ファミリー諸共監獄送りになるだろう」
「……それも、そうか」
「何だ? それともお前……あの女の知り合いか?」
ロレンツォは鋭い眼差しでカリストを見た。
「いや、そうじゃない。単に聞いてみただけだ」
「それなら良い。万が一情を持たれても困るんでな」
「……心配するな」
カリストは残りのエスプレッソを飲み干した。
「お前に限って、ないとは思うが……」
ロレンツォは拳銃を取り出した。
「ファミリーを裏切ることがあれば、お前の口に鉛玉をぶち込んでやる。肝に銘じておけ」
カリストはごくりと唾をのんだ。
「ああ、分かってる」
「あのヴァイオリンの音色は、この上なく美しかった」
心の声を誰かに吐露することもなく、カリストは無言で地下の小部屋に向かった。部屋の中からはドアを叩く音と、「開けて!」という女性の声がひっきりなしに聞こえる。声の主は間違いなくメリッサだ。
鍵のかかったドアの前で男が番をしている。カリストに気が付いた男は躊躇なく尋ねた。
「カリストじゃないか。どうした、こんなところで……」
カリストは咄嗟に答えた。
「お前と交代してやろうかと思って来た」
「交代?」
「ああ、そこに立って長いだろう?」
「言われてみればそうだな。んじゃ、ちょいと用を足してくる。その間代わってくれ」
「了解した」
男が離れたのを確認し、カリストは部屋の鍵を開けた。中に入ると、メリッサは怯えた様子で彼を見上げていた。
「あなたたち……こんなことをして……」
カリストはメリッサに拳銃を向けた。
「悪い……少しだけおとなしくしていてくれ」
カリストは車を走らせていた。後部座席に毛布でくるんだメリッサを乗せて……。
彼女は周りに気付かれぬよう、頭まですっぽり毛布をかぶっていた。
走ること約二十分。車は警察署の前で止まった。カリストはメリッサを連れ、署へと入る。
「諸事情あって、コイツを保護してやってほしいんだ」
入り口にいた警察官二人にメリッサの身柄を引き渡す。驚いた警察官はカリストに名を尋ねるが、彼は無言で車に乗り込んだ。海岸へ向け、車を走らせる。
「こんなことやって……タダで済むわけねーよな」
心の中で呟く彼の脳裏にロレンツォの拳銃がよぎる。同時に、メリッサのヴァイオリンの音色が流れてきた。
「もう一度……聞きたかったな」
そう漏らした直後、背後から銃声が響いた。
弾は運転席を貫通し、カリストの左胸に届いていた。
「ふっ……やっぱ、おいでなすった……か。けど……後悔は、ねぇよ」
カリストの目には、メリッサの残像だけが残っていた。
まもなく、彼の体はハンドルの上に倒れ込み、車は海へと静かにダイブした。
(了)
メリッサ 櫻井 理人 @Licht_S
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