7.箱庭アースガルド
名取
第1話
まだ日本の学校に通っていた頃、自分が生きていることについて、感謝を忘れた朝はなかった。毎朝、まだ家族の寝ている薄暗い早朝のこと、私は目覚ましのベルを聞くまでもなく布団の中で目を覚ますと、静かに自分の心臓の音を聞いた。そして、ほんの少しだけ、ほとんど声にもなっていないような小さな声で、好きな歌を口ずさんだ。歌は良い。一度頭に入れてしまえば、誰にも奪われないし、汚されない。どこかに置き忘れたり、データを削除されたりするかもしれない本や写真や絵では、こうはいかない。歌には即効性がある。まどろっこしいこと抜きで、わかりやすく、それでも確かに心にほんのわずかな灯りを点してくれる。
けれどきっとそれは、大した理由もなく行われる朝の小さな祈りは、むしろ、死人の行為に等しかったに違いない。だって生きている人間は普通、訳も信仰心もなくただ祈ることなんて、しないに決まっているのだから。
「……」
でもまあ、それが癖なので、今更直すつもりもない。そもそも、ユウに出会ってからはその祈りも、日々の単調さと穏やかさに負けて、忘れがちになっていた。なにせ今では、家族に聞かれないよう小さな声で歌う必要もない。歌いたいときには歌えばいいのだ。歌だけでなく、描きたいと思っていた絵だっていくらでも描ける。それが私にとってどれだけの喜びだったか、きっと、わかってくれる人はほとんどいないだろう。わかってほしいともあまり思っていない。
だから目が覚めて、寝ぼけ眼のまま毛布にくるまりながら、私はただその温かさに幸せを感じた。これがどこの毛布で、誰の毛布で、そばに誰がいるか、そんなことはどうでもよかった。このまま、溶けて消えたかった。
と、その時、足先に何か柔らかいものが当たった。
「……?」
裸足なので、猫の毛のようなふわふわした感触が足の指に触れるのがはっきりとわかった。けれど、猫にしては大人しすぎるというか、なんだかあまりにも骨張っている。
すると、突然、人間の腕がにゅっと伸びてきて、私を抱きすくめた。
「わっ、」
身動きがとれない。足に当たったのと同じふわふわした感触に包まれ、頭上の方からは「うーん……」と寝惚け気味の唸り声がする。なんとか首を動かし、現状を把握する。
どうやら、もこもこした素材で作られた着ぐるみパジャマを着た人間のようだった。彼の目は閉じたままだったが、その羊のように真っ白な髪には見覚えがあった。
「……シノ?」
小声で呼ぶと、またも「うーん……」と、肯定とも否定ともつかぬ曖昧な答えが返ってきて、その後に彼はゆっくりと目を開く。目の色は両目ともブラウンだったけれど、その顔は紛れもなく、私が生まれて初めて得た、哀れな友人のものだった。
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