かっこよく言えば、自分と向き合うこと。でもじっさいは、

 自分と向き合うって、どういうことなのだろうか。

 こういうことなのだろうか、とか、エッセイを書いていると思ったりする。


 フィクションを書くのもいい。というか、そもそもはそれが目的だった。フィクション、そのまま直訳すれば、嘘、ってことになるけれど、言わずもがな小説のこと。物語のこと。私がずっと本気で打ち込んできていると自覚しているのは、どっちかといえばそっちだ。


 エッセイ、つまりノンフィクションやら、どうやらすくなくとも私にとってはそうではない。それでなにかをなすとか、やってくとか、そういうことではなくて、いや、そういうのが皆無とは言わないけれど、たぶんそれはフィクションほどのそれ、ではないはずだ。


 けれどもやっぱりこういう文章も書かないと、書き散らかさないと、だめだ、という実感がある。これは、いったい、なんなのだろう。優先順位的にはフィクションを、物語を書くべきなのに、どうしてこんな気持ちがつねにあるのだろう、って。



 思っていたけれど。たぶん、日記に似ているんだな。



 日記をつけるというのは自分自身のことを文章化するということだ。ギャラリーはそのときいるかもしれないし、いないかもしれない。でもすくなくとも自分自身は文章にしたそれを読むし、だれかにあるいは読まれる可能性をすこしは、わずかはいだいて、書くことであろう。


 自分のことを文章化するということは客観化するということだ。主観の檻、あるいは天国ともいうべき、もやい、から離れて、自分自身のことを、言葉というごくありふれた共有できるものに、落とし込む。



 言葉というごくありふれた共有できるものに、自分自身というほんらいそこに還元しきれない、なにか、得体の知れないものを、落とし込むから、



 その瞬間、クリアになることがある。

 そうでもしないと生きていけない。

 そうでもしないと生きていけないどうしようもなさがあるならなおさら、




 私というのは、ほんとうに生きていてどうしようもないところのある人間なので、だから、こういう文章が不可欠なのかなあと思った。いつもいつも書きまくる必要はないけれど、でもやっぱりあんまり書かないと、自分がやがて主観の檻にまみれてまみれて――淀んでいくんだなあ、と、あらためて思った次第なのだ。

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