十一-3

 これが、セオが言っていた『チャンス』――。

 今しがた空中に現れては消えていった銀マントの青年が誰なのかルキトには分からない。だが彼が傀儡の胸部に穿った裂け目こそが他ならぬ好機であることは確かだった。

 まるで同化するように傀儡の体内に埋まっていた老婆のブレシス、円田翠をヘリから視認し、ルキトは水鉄砲を握り締める。水の残量はあとニ・三発撃てる程度。ルキトはスイに狙いを定め――しかし銃を下ろした。

 ルキトの脳裏に葛藤が過る。ギフトを振るう理由は、ブレシスによって違う。ギフトの使い方は持ち主のブレシスにしか決められない。そう主張したのはルキト自身だ。

「なるほど、円田翠にとってあの人形は守護者であり家族であり、家ってわけね。けど今なら機関砲が届くわ」

 操縦席のマキがヘリの頭部を傀儡の胸に向ける。ルキトは慌てて声を割り込ませた。

「撃ち殺すつもりか?」

「他に選択肢がある?」

 ルキトは水鉄砲の蓋を開けて残りの水を右手に振りかける。

「俺があのブレシスを止める。傀儡に飛び移るからヘリで助走を付けてくれ」

 「正気なの!?」と、驚いてこちらを振り返るマキ。

「俺が失敗したら、後は好きにすればいい」

 マキは迷うように目を泳がせたが、すぐに意を決した。

「打つ手は多いに越したことはないわね。いいけど、どうなっても知らないわよ」

 マキの操縦によってヘリが傀儡から離れていく。ルキトは乗降口の横に備えられた手すりをしっかりと握って敵を見据える。異形の怪物は身を捩ってワイヤーを引き抜こうとしており、傘による拘束はもうそんなに長くは持たないような気がした。

「坊や、スイのところに飛びかかるならこれを持っていきなさい」

 マキが片手を伸ばして麻酔銃を渡してくる。ルキトは受け取ろうとはしなかった。

「俺はナースじゃない。ブレシスとして、あの人を止める」

 マキは気に入らない様子で麻酔銃を白衣の裏に戻し、武装ヘリの機体を反転させた。傀儡からは十分な距離が空いていた。マキは操縦桿を力強く握り、敵の胸元、メスで切開されたような裂け目に潜む円田翠を睨みつけた。

「突っ込むわよ!」

 合図と共にヘリが巨人に向かって突進し始めた。ルキトは片膝をついて姿勢を低くし、負荷に耐えながら飛び移るタイミングに備えた。

 ヘリの急接近を察知した怪物は近くに建つビルの屋上を腕で薙ぎ払った。そこにあった建材をヘリめがけて吹っ飛ばしてくる。

 マキは操縦桿を動かして瞬時にヘリの高度を下げる。素早い回避行動によって、プロペラのすぐ上を大きな看板が通過していった。

 しかし次の瞬間には折れた電波塔の鉄柱が飛んできている。マキは機体を横にずらしてそれを紙一重で受け流し、続いて斜め上に急上昇することで給水タンクの直撃を避けた。鍛錬された反射神経と操縦技術を持つマキだからこそ成せる技だ。

 最後に降りかかってきた大きなコンクリートの破片は機関砲を斉射することで粉砕し――全ての飛来物を掻い潜った先に傀儡の分厚い胴体があった。

 これが接近できる限界の距離だ。マキは「今よ!」と叫び、スピードを維持したままスピンさせるように機体の向きを横にした。

 強力な遠心力と慣性力がかかる。ルキトは押し出されるかのようにヘリから飛び出した。目指す先は傀儡の胸の裂け目。空を駆け抜けるルキトの濡れた手中に、蒼白の輝きを零す氷の槍が一瞬にして出来上がる。

 飛びかかってくる小柄な少年を殴り飛ばそうと、傀儡がパンチを繰り出してきた。スイの姿を遮るように大きな拳が迫りくる。宙にいるルキトに太刀打ちできる術はない。

 突如として目の前を、残像を残すほどの速度で誰かが横切っていった。

 エレンだ。

 拒絶の力の跳躍で天高く飛翔したエレンが、今正にルキトに襲いかかろうとしていた巨人の剛拳を――ぶん殴った。

 尋常ならざる爆発音と共に、怪物の腕が大きく弾き返される。と同時に開ける視界。敵の懐ががら空きになり、スイの姿が曝け出される。エレンが作ってくれた空の道。遮るものは何もない。

 引き攣った顔でこちらを見上げる老婆を視線で射ながらルキトは裂け目の中に飛び込んだ。その勢いに載せ、両手で持った氷の槍をスイめがけて思い切り突き出す。

 氷柱(つらら)のように冷たく尖鋭な槍の切っ先は――腰の辺りまで毛糸に埋もれたスイの体には刺さらず、数センチ横の毛糸の壁に深く突き刺さった。

 短く悲鳴を上げるスイ。ルキトの攻撃が的を外れたことを察すると、途端に顔をにやけさせた。

「おやおや。坊っちゃん、惜しかったねぇ」

 裂け目の中は毛糸で覆われた小さな空間となっていた。天井は低く、奥行きもさほどない。その一角に槍をめり込ませたまま、ルキトは死人のような無表情でスイに言う。

「あんた、コレをやめる気はないのか?」

「あたしの平穏な生活を脅かすホスピタルの連中を一人残らず誘き出して踏み潰してやるのさ。邪魔者がいなくなるまでやめるつもりはないねぇ」

 ルキトは冷眼に圧力を帯びさせる。

「あんたの足元では、何百人もの人たちの生活が脅かされている」

「知ったこっちゃないよ。これはあたしのギフトさ。ヘリコプターが空を飛ぶと空気が掻き乱されるように、あたしのギフトは、使うとこうなるんだよ」

 力を込めてスイが言う。すると、毛糸の天井の中から次々と人が逆さまに這い出てきた。

 老人、若い男女、そして幼い女の子の、計四人。皆零れんばかりに両目を見開き、口角をめいいっぱい上げて声なく笑っている。上半身だけを天井からぶら下げたその姿は、異様そのものだった。

「あたしの家に、よぉぉぉぉこそォォ!」

 悍ましい声でスイが叫ぶと、四人の傀儡が一斉にルキトへと腕を伸ばしてきた。

 ルキトは氷の槍を引き抜いて若い男の顔面に切っ先を突き刺した。男は毛糸の塊となって破裂するように飛散する。すぐさま老人の頭部も刺し貫いて糸屑へと変えた。

 しかし若い女がルキトの二の腕を掴んできた。ルキトは槍を振るって女の首を撥ねる。爆ぜた布切れが落ちる間もなく、今度は幼い女の子が頭上からルキトの首を絞めてきた。

 息が止まり、ルキトは呻く。焦燥した手つきで何度か天井を槍で突き、女の子を串刺しにした。

 女の子の傀儡が破裂して綿が降り注ぐ。その向こうでスイはまだにやけている。

「せっかくのお客さんだからねぇ。まだまだたっぷりともてなしてあげるよ」

 今しがた倒したのと同じ傀儡たちが再び這い出てきた。今度は天井だけでなく足元からも現れ、しかも同じ人間が何人もいる。空間はあっという間に傀儡たちで犇めき、皆一斉にルキトに向かって手を伸ばしてきた。

 上半身だけ生やした人間が蠢く裂け目の中は地獄絵図のようだ。ルキトは険しい表情を浮かべ、両手で氷の槍を握って思い切り深々と足元へ突き刺した。

 両手からギフトの力を溢れさせながら、ルキトは傀儡たちの向こうにいるスイへ言う。

「できれば思い留まってほしかった」

 槍が刺さった箇所から瞬間的に青白い霜が広がる。裂け目内部の空気が一瞬にして冷え落ち、冷凍庫の中のような気温に包まれた。

 異変に気づいたスイが顔を歪ませる。

「な、なんだいこれは!? お前、一体何をした!」

 主の精神に同調してか、周りに蠢く傀儡も怯えるように縮み上がった。それを見つめるルキトの瞳は真冬の夜空のように冷たい。

「お互い、自分の思うようにギフトを振るう。ただそれだけだろ?」

 触れたものに極寒の冷気を齎すギフト『死の温度』は、ルキトの両手から槍を伝って巨大傀儡の体内に注ぎ込まれていく。冷気に晒されたスイの上半身にもみるみるうちに霜がせり上がっていった。

 あまりの寒さに体を激しく震わせながらも、スイは天井から生える傀儡たちに命じる。

「何をしているんだいお前たち! 早くこいつをどうにかしな!」

 傀儡の群れがルキトを押さえ込もうと掴みかかってくる。しかしルキトの体そのものが死の温度を纏っているため、触れるや否や傀儡たちは真っ白な霜に包み込まれていく。

 すると巨大傀儡の胸の裂け目が閉じ始めた。ルキトを飲み込んでしまおうという怪物の最後の抵抗だ。

 ルキトは槍を突き立てたまま逃げようとはしない。怪物が苦しんでいる様子が振動から伝わってくる。ここで退いてはもうチャンスはない。

 裂け目がどんどん塞がっていく。差し込んでいた街の明かりが徐々に遮られていき、胸中の空間が暗闇に包まれていく。

 そして――ついにルキトは怪物の体内に完全に飲み込まれた。

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