八-3
驚くように瞼を開ける。いつの間にか気を失ってしまったらしい。ルキトは最初に目を覚ましたときと同じく、病室のベッドの上で眠っていた。先ほどと違う点は、室内に紅茶の香りが漂っているのと――少し離れたところにあるパイプ椅子に黒スーツの男が足を組んで座っていることだった。
「起きたかね?」
気絶する直前に聞いたのと同じ声だ。
「……誰?」
ルキトの問いかけに、男は手に持った缶の紅茶を揺らしながら答える。
「最初に言っておくが、キミはまだ自分の能力を制御しきれていない。また先程のように暴走を起こしたくなければ、なるべく精神(こころ)を落ち着かせるように努めたまえ。それを踏まえて話をしよう」
さっきの得体の知れない凍結の発現は夢ではないことが男の口ぶりから察せた。しかし今は床を覆っていた薄氷も消えているし、ガラスコップも元の状態で台の上に戻されている。謎の黒服の紳士が現れた以外は、病室は冷凍庫になる前の様相へと戻っていた。
「私は時任世生。この春から朔詠高等学校に赴任することになった、物理担当の教師だ。同時にキミのクラスの担任でもある。宜しく頼むよ、碓井瑠己人君」
缶の紅茶――香りから察するにロイヤルミルクティー――を一口飲み、男は嫌味なほど気障な微笑を湛えながらそう名乗った。
ただの教師とは思えなかったが、少なくとも今のルキトよりは現状を把握しているようだった。聞きたいことは山ほどあり、それに答えてくれる人物であればこの際誰でも構わない。ルキトはまず、一番不可解なことから尋ねることにした。
「俺の体はどうなってるんだ?」
触れたものを一瞬にして凍結させるという、常識から逸脱した現象。それを引き起こすようになった自分の体についてまず知らなければ、他のことに頭を回せそうにない。
時任という男は足を組み替え、あたかも用意していたようにスムーズな口調で語り始める。
「キミのあの能力は、『経験』の代わりにキミが得た『知識』だ。正確には、具現化された知識とでも言うべきか。キミは今回の事件で瀕死の重傷を負い、ニヶ月もの間死の淵を彷徨っていた。その長い眠りの中で死に触れることでキミは死とはどういったものかを知ったのだ。臨死という経験がキミに死の知識を与え、それを物理的に主張できる能力を与えたのだよ」
「推測だがね」と付け加えてミルクティーを一口飲み、時任は言葉を区切る。この時点で疑問があれば何なりと、という意味を含んだ待機のようだ。
「言っていることがさっぱり分からないんだけど」
時任は鼻で笑い、再び話し始める。
「世の中を形成する自然の摂理の一つに、『天秤の理念』というものある。人生におけるプラス要素とマイナス要素の大きさ・重さは最終的に同等になるという概念だ。しかし、片方の重さがあまりにも大きい場合、人智を超越した『錘』によって均衡が半ば強引に修正されることがある。その錘こそが、キミが得た凍結の能力のような異端の力――『ギフト』だ」
「ギフト……」
「そう。キミの場合は瀕死の重傷を負って死の淵に沈んだという不幸な経験が天秤の負の皿に多大な荷重を加えることとなり、その代償として『知識』の会得というプラス要素が正の皿に舞い落ちた。知識は経験によって得られるものだからね。
しかし、その『知識』だけでは負の皿を浮き上がらせるには至らなかった。だから天秤は最終手段として『贈り物』を正の皿に載せることにしたのだろう。それこそが、キミが得たギフト――死の知識を温度という物理概念としてこの世に具現化させる能力だ。こちら側の業界では、ギフトを得た者のことを『ブレシス』と呼んでいる。ルキト君、キミはそのブレシスになったのだよ」
そこまで言い、時任はミルクティーを啜る。今度はルキトに考える時間を与えるという意味合いの待機だ。飲み口から唇を離すと、時任は不満気に缶を見て「甘すぎるな……」などとぼやいた。
天秤……ギフト……ブレシス……。
俄かには信じ難い理屈が次々と飛び出し、ルキトの頭を混乱させる。これもやはり夢や虚構ではないかと疑わずにはいられない。
自分の手を見つめる。青白くなった手。死の温度が宿るという、冷たい手。
傍らの台に置いてあるガラスコップに片手を伸ばす。中には水が入っている。そのコップに人差し指をあて、意識的に思い起こす。あの死の世界で味わった凍結の冷たさを。
体の奥からひんやりとした感覚が湧き上がってきて、手の方に集まっていく。そして――人差し指で触れているだけなのに――コップの水がビデオの早送りのように有り得ない早さで凍っていき、あっという間に氷塊へと姿を変えた。
寒くて、冷たい。体中の血管に氷水でも流し込まれているような感じだ。体も心も震える。これ以上やっては先程のように凍えてしまいそうだったので、慌てて指を離して死の知識を封じ込めた。体を取り巻いていた冷気が鎮まり、心の動揺も収まる。
「もうそこまで力を制御できるようになったか。上達が早いな」
時任の気楽な声を耳に拾いながら、ルキトはまだ微かに震えている自分の手を信じられないものでも見るような目で見つめる。確かに、間違いなく、自分は死の知識によって凍結を発現させ、ものを瞬時に凍らせることができるようになっている。事実として、ギフトと呼ばれる異常な能力が宿っていることを自覚する。
「そんな馬鹿な……」
「世界とは、時に馬鹿げた一面を見せるものさ」
あまりに非日常的な展開にルキトは戦慄するが、現時点では他に信じるものがない。そして時任も嘘を言っているようには見えなかった。
ルキトはとりあえず受け入れることにした。凍結の能力はいわゆる死の温度であり、殺人鬼に刺されて死にかけた代わりに天秤とやらがくれた贈り物なのだと、そう自分の中で一応の決着を着ける。そうすることで心の均衡を保つことにする。
そして次なる重大な問題に気付く。
「そうだ、母さんは!?」
今の今まで自分の体に起きた異変ばかり気にして肝心なことを忘れていた。真冬の雨の夜、ルキトは母親が正体不明の何者かに刺されるのを目の当たりにし、その後に自分も刺され、姉の悲鳴を聴きながら冷たくて暗い眠りの底に堕ちたのだった。あれから二ヶ月も経ったという実感はまるでないが、あの夜の凄惨な光景ははっきりと瞼の裏に蘇る。全ての発端は、あの夜だ。
「キミの母上は、残念ながらあの夜に亡くなった。死因は出血多量によるショック死だった。ご冥福をお祈りする」
時任は弔うように目を瞑り、静かにそう告げた。
「嘘だ……そんな……っ」
ルキトは俯き、唇を噛み締めた。だがしかし、母の死を一番よく理解していたのはルキト本人だった。あの冷たい雨が降りしきる暗い路地、氷のように動かなくなって地面の上に倒れ伏していた母は、誰がどう見ても間違いなく死んでいた。
「姉さんは無事なのか!?」
姉の記憶もあの夜を最後に途切れている。ルキトを捜しに来た姉が弟と母の凄惨な姿を目撃し、絶叫を上げたのが最後の記憶。
「キミの姉上は――」
時任は一瞬だけ言い留まり、「無事だ」とどこか冴えない表情でそう答えた。
「当初はショックのあまり床に伏していたが、今ではもう普段通りの生活をしている。ここにも毎日のように見舞に来ているそうだ。今日もきっと来るだろうから安心したまえ」
「良かった……」
この男にしてはやや曇りのある声音だったが、無事であればそれでいい。父はルキトが幼い頃に事故で他界しており、それに続いて母だけでなく姉までいなくなったら、ルキトは完全に孤独となってしまう。
「ところで犯人だが、あの夜の内に逮捕された。キミの姉上がすぐに警察に通報してくれたおかげだ。逃走中に捕まり、今では獄中だ」
残っていた三つ目の疑問に対する答えは時任の方から回答してくれた。
「誰なんだ、犯人は?」
憎しみから思わず声音が低くなる。ルキトは犯人の顔を見ていない。
「キミたち家族とは何ら面識のない、通り魔の男だ。怨恨でも金目当てでもない精神異常者さ」
「ッ! そんなやつに母さんは……!」
何の理由もなく母は殺され、自分も殺されかけたという到底許しがたい事実に、ルキトは破れんばかりに布団の裾を握り締める。充血した目を時任に向け、「そいつは当然死刑なんだろ!?」と半ば冷静さを欠いた声で訊いた。
「まだ裁判中だ、私からは何とも言えんよ。ただ、キミの姉上が警察から聞いたことをこの前私にも話してくれたのだが――精神鑑定の結果どうも犯人は心神喪失の状態にあるらしく、刑事責任を追及されない可能性もあるらしいとのことだ」
ニュースなどで耳にしたことのある単語が飛び出して来た。
「それってつまり……」
「死刑どころか、そもそも処罰すらされないかもしれないということだ」
信じられない現実にぐらりと頭がふらついた。
これは一体何の冗談か。人を二人も殺傷しておきながら、当の本人は罪に問われることなくこの先ものうのうと生き続けるというのか。
「くそ……ッ!」
認められない。認められるはずがない。ルキトは俯き、ぶつけようのない怒りに顔を歪ませる。
色々なことが狂ってしまった。家庭も、自分の体も。運命の歯車がおかしな方向に廻り出したとでも言うべきか。あまりにも唐突に崩れ去った平和な日常はもう戻っては来ず、ルキトの心身に深い爪痕だけを残した。ルキトの世界は、氷のように凍て付いてしまったのだ。
悲しみと憎しみから涙が溢れ出す。その雫はルキトの白い手の甲に滴り落ち――蕾が花咲くように凍りついた。
そこを起点に手の表面が氷で覆われていく。ベッドを中心に不穏な冷風がそよぎ出す病室。ルキトは怒気を孕んだ視線でなぞるように氷を尖らせていき、右手と一体化する形で氷の剣を形成した。
湖に張った薄氷を刀剣の形にくり抜いたような、切れ味鋭い武器。死の温度によって生み出された氷剣はルキトの感情を体現したかのように冷たく殺気立った輝きを放つ。それを見つめるルキトの表情もまた、冷酷だ。
「――その刃を、キミは誰に向けるつもりかね?」
少年の様子を黙って見ていた時任が低い声で問いかけてきた。
「復讐しかないだろ。この力は、きっとそのための贈り物なんだ」
ルキトは鋭利な切っ先から目を離さずに答える。
「そうか。ならばそれもよかろう。ブレシスはキミの他にもこの世界のあちこちにいる。皆それぞれ自分のギフトに対する存在意義を見出している。キミはギフトを使って殺人鬼に復讐すると言った。つまり復讐こそが、キミがギフトを振るう理由となるわけだ。私にはそれに関してとやかく口出しする資格はない」
「だが」と、時任は強調する。
「では、その後はどうするかね? イメージしてみたまえ。殺人鬼を殺してキミの復讐は達成された。そうなった時、キミは今後の人生で、己のギフトとどう向き合って生きていくつもりかね?」
「それは……」
口ごもるルキトに同調して薄氷の刃が微かに震える。ギフトを使う目的を復讐と定めた時点で、その先の目標はない。殺人鬼をこの手で葬ったら、それで終い。
「よく覚えておきたまえ、ルキト君。キミの腹の傷が完治しようが、キミの復讐が達成されようが、キミの母親が生き返ろうが、キミのギフトは一生キミの中に居座り続ける。一度手に入れたギフトを手放すことはできない。過去の経験をなかったことにはできない。だから大切なのは、人生という長い期間において、自分が持つギフトの意味を見出すことだ。その意味の中に殺人鬼への復讐が含まれているのであれば、もちろんそれでもいい。肝心なのは突発的な使い道ではなく、恒久的な使い道。ギフトは体の一部だ。手は物を掴むためにある、目は物を見るためにある、ではギフトは何のためにあるのか、それを考えることがブレシスにとって最も重要なことだ」
自分が持つギフトの意味――無音が過る病室の中でその言葉を脳裏に反芻させながら、ルキトは氷の剣を下ろす。右手に発現させていた死の温度を抑え込むと、刃が先端から細かな破片となってぽろぽろと砕け落ちていった。
ギフトとは、不幸な経験の代わりに人に与えられる特別な錘だ。ルキトは今まさにその錘の重さを実感している。これは一時的な能力などではない。一生ついて回る、いわば刻印みたいなものだ。これからの人生でその刻印をどのように見つめていくべきか、どのように掲げていくべきか、考えなければいけない。ルキトはそのことの重要性を、知らされる。
世界は厳しい。訳もなく大切な人を奪い、生きている者にすらこうも重荷を課してくる。
「私は別にこの場で答えを強いているわけではない。ただキミに、考えておくべきことを教えたまでだ。ご理解して頂けたかな、ルキト君?」
時任は気障ったらしい微笑を見せつけて来た後、パイプ椅子から立ち上がった。どうやらもう帰るようだ。氷が完全に消え去った右手を擦りながら、ルキトは黒服の紳士に懐疑的な目線を送った。
「あんた、何者なんだ? どうしてここに来た?」
「担任が生徒の安否を気遣って見舞にやってくるのは至って自然なことだと思うが?」
「ただの教師が何で天秤の理念とかいう普通の人間が知らないようなことを知っているんだ? それに、偶然ギフトを得た俺の前に、まるで示し合わせたかのように現れたのも、タイミングが良すぎるんじゃないか?」
「疑り深い少年だな。まず、ここに見舞客として現れたことは本当だ。殺人鬼に刺されて二ヶ月間も昏睡状態の生徒がいるという話を学校側から聞いたので、とりあえず今後の担任として容態を確認しておこうと思ってね。そしたらちょうどキミがギフトの暴走に陥っているではないか。これにはさすがに驚いたよ。
次に、私が天秤の理念について詳しいのは、以前までそれに関する仕事に携わっていたからだ。もう辞めて今ではこの通りしがない一教師だがね。とにかく、キミがギフトを得た瞬間にちょうど立ち会ってしまったものだから、見舞ついでにキミの体に起きたことを説明しておこうと思ったのだ。こうしてキミが再び目を覚ますまで待っていたのは、私のささやかな優しさなのだよ。
私の釈明はこんなところだ。納得してくれたかね?」
どうにも核心に触れるような部分に関しては上手く誤魔化された気がしたが、とりあえずルキトは頷いた。おそらくこれ以上追究しても口を割りそうにない。
「さて、では私はそろそろ失礼させてもらうよ。まぁ心配するな。できる限りキミの道案内(ガイド)はするつもりだ。気軽に下の名前で呼んでくれても構わんよ」
時任――セオはそう言い残し、くるりと踵を返して出て行った。
病室に静けさが戻る。ルキトは暫くベッドの上に体を起こしたまま俯いていた。
まだ曖昧な気持ちもある。迷いだってあるし、分からないことだって山程ある。
雪のように白い手を開閉させる。この力とは長い付き合いになるだろう。だから、その長い道程の上で、ゆっくり付き合い方を学んでいけばいい。自分のペースで、自分の意志で、そうしていけばいい。
……それからもう一つ。あの黒スーツの男とも、長い付き合いになりそうだ。
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