三-4

 時任の部屋を後にしたエレンの心中は穏やかではなかった。

 ――気に入らない。気に食わない。上手くは説明できないが、エレンは苛ついていた。廊下の窓を一枚ずつぶち割って歩きたいほどむしゃくしゃしていた。

「御戸さん」

 そんなときに自分を呼び止めたのは、天敵とも言える人物だった。

 教室の前の廊下にいたメアルが近寄ってくる。

「先生に呼び出されてたみたいだったけど、何かあったの?」

 メアルはエレンのことを心配するような瞳で尋ねてきたが、エレンにしてみればこの話は今一番触れられたくない話題だった。

「別に何もないわよ」

「嘘よ。だいぶ長い間いなかったし、御戸さんだって今まで先生に呼ばれたことなんて一度もなかったじゃない。何かあったに決まってるわ」

 案ずる気持ちと疑う気持ちを同時に向けてくるメアル。エレンは呼吸を絞るようにして怒りを抑え込み、代わりに威嚇的な視線で相手を睨み返した。

「煩いわね。たとえ何かあったとしても、あなたには関係ないじゃない」

「いいえ、関係なくはないわ。クラスメイトのことを気にかけるのは学級委員長として当然の務めよ」

「はっ、なによそれ。お節介もいい加減にしてくれない? そろそろ本気で怒るわよ」

「ねぇ、御戸さんに限ってそんなことはないと思うけど、何か悪いことでもして呼び出されたんじゃないの?」

「違うわよ」

「たとえば誰かを傷つけたり、物を壊したり……。とにかく不祥事を起こしたことがバレてしまって――」

「違うわよッ!!」

 堪らずエレンは怒声を上げた。元々細い忍耐の緒が音を立てて千切れた瞬間だった。

「な、何よ、そんなに大声で怒鳴ることないじゃない! それとも私の言ったことが当たっているからムキになっているのかしら?」

「あなたがあまりにもしつこいからよ! クラスメイトのことを気にかけるのは学級委員長の務めですって? 冗談じゃないわ! そんなの他の人からしてみればただの偽善よ!」

「私は御戸さんのことを心配して言っているのよ! 偽善なんかじゃないわ!」

「それが鬱陶しいの! 何が心配よ! どうせ私は要らない人間なんだから、いちいち構ってこないでよ!」

 ――メアルの勢いがぴたりと止まる。

「え、何ですって? いらない?」

「あ……っ」

 エレンは端と我に返り、口元を押さえた。

 怒りに任せて、余計なことを口走ってしまった――。

「ちょっと御戸さん。今の台詞、どういう意味よ?」

 訝む目つきでメアルが掘り下げてくる。エレンは蒸気が出そうなほど熱くなっていた頭を無理矢理冷やし、威圧的な眼力をもってメアルの追究を押し返した。

「何でもないわ。この話はもう終わりよ、山津さん」

「あ、待ってよ御戸さん!」

 メアルを振り切り、エレンはいきり立った足で教室の中に入った。気が付けば廊下には騒ぎを聞きつけてちょっとした人だかりが出来ていた。

 歯切れが悪ければ居心地も悪い、最低最悪の状況。教室に入ったエレンは乱暴な仕草で自分の席に座り、肩肘をついて窓の外に視線を固定する。

 ああ、本当に、最低最悪だ。



 エレンが教室へ入っていった後も、メアルはしばらくその場から動けなかった。戸惑いと疑念が折り重なってできた、ある意味途方に暮れたような膠着だ。

「メアル、だいじょぶ?」

 呆然と立ち尽くすメアルの耳に語尾の緩い声がそよぎ込んできた。

 メアルはゆっくりと意識を引き戻し、後ろを振り返る。群衆の中から見慣れた背の高い少女が、場違いなほどに能天気な笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。

「カイミ」

 表情を緩ませ、メアルは肩から力を抜く。

「私は大丈夫よ。でも、ちょっと興奮しすぎちゃったみたいね」

「ホントだよー。今にも取っ組み合いのケンカになりそうだったもん」

 その言葉を聞いてメアルは苦笑する。

「カイミ、最初から私たちのこと見てたんだ」

「うん」

「止めに入らなかったのはなぜ?」

「だって、メアルはメアルの意思でエレンと言い争ってたわけでしょ? 私が邪魔しちゃ悪いじゃん。それに、メアルはいくら怒っても絶対に手は出さなもんね」

 無垢な笑顔で言うカイミ。メアルはそんな彼女を心から信頼している瞳で見つめ、頷く。

「そうね、ありがとう」

 それからクスクスと小さく笑った。

「カイミって、柔軟剤みたいね」

 栗色の長いお下げ髪を揺らしてカイミは小首を傾げる。

「どういうこと?」

「肩に力が入りがちな私を、いつも上手に和ませてくれる」

 依然分からずといった顔でカイミは目をぱちくりさせたが、やがて表情を明るくさせて二度ほど頷いた。

「そっか。メアルがそう言うんならきっとそうなんだろうね。なっとくなっとく」

「ふふっ」

 カイミとの会話には、メアルの神経を適度に解きほぐしてくれる効果がある。それを噛み砕いて言ったつもりだったが、当の本人には上手く伝わらなかったようだ。

 カイミと言葉を交わすことで冷静さを取り戻し、メアルは再び前を――先ほどまでエレンが立っていた場所を向く。彼女の吐き捨てた意味深な言葉がそこにはまだ残っている。

「御戸さん、自分のことを要らない人間だって言ってた……」

 それがどういう意味を持っているのか、メアルには分からない。けれど、とても哀しい言葉であることだけは確かだ。

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