一-2

 学校に到着したルキトは昇降口をくぐったところでリュウヤと別れた。リュウヤは階段を上って一年A組の教室へ向かっていき、一方のルキトは一階の廊下を進んで別の場所へと足を運んだ。

 辿り着いた先は、校舎の隅っこにある部屋――『物理準備室』というプレートが掲げられた扉の前だった。控えめな力でノックすると、すぐに扉の向こうから低くて通りの良い男性の声が返ってきた。

「入りたまえ」

 気取った口調。ルキトは黙り込んだまま扉を開けて中に入った。

 これまで何回かこの部屋に来たことがあったが、いつ来ても印象は変わらない。一言で言えば書斎だ。両側の壁際には大きな本棚が腰を据えていて、綺麗なガラステーブルが部屋の中心に陣取っている。そのテーブルの両側には二組の高級そうな黒革のソファーが置かれており、部屋の床一面にはこれまた高級そうな黒い絨毯が敷かれていた。白いレースのカーテンが靡く窓辺には背の高い観葉植物が。極めつけに部屋の正面奥には、まるで王室の玉座のような存在感を放ちながら豪奢なライティングデスクが堂々と鎮座していた。

 とても学校の一室、それも物理準備室という地味なイメージが付き纏う部屋とは思えない空間だ。仄かに漂う紅茶の香りも重なって、上品で優雅な空気感が完成されている。

 そんな部屋の主は、デスクとセットのリクライニングチェアーに長い足を組んで座りながらゆったりと紅茶を嗜んでいた。

「おや、おはようルキト君。どうしたのかね?」

 そう言って気障な笑みを向けてくる紳士の名は、時任世生(ときとうせお)といった。年齢は四十代に見える。本校では物理を担当している教師であり、ルキトのクラスの担任でもあった。

「別に。ちょっとセオに見せたいものがあって」

 ぼそぼそと言いながらルキトはデスクの前までやって来て、セオと対面する。

 この部屋の様相にマッチするように、セオは普段から高そうなスーツを着ている。その色は月も星も煌かない夜空のような濃い黒で、ネクタイや革靴までも徹底的に黒一色で統一されている。もちろん髪の色と瞳の色も深い漆黒だ。リュウヤが勝手に付けた『蝙蝠先生』というあだ名は、故に案外と的を射ているかもしれない。

「私に見せたいもの? それは楽しみだねぇ。一体何かな?」

 セオはわざと期待に胸を膨らませるような素振りをしてルキトを見上げる。女性から見ればハンサムな顔立ちであろうが、ルキトからしてみれば単に嫌味っぽいだけだ。

 ルキトはポケットから携帯電話を取り出して開き、セオに向かって画面を見せた。

「これ、学校に来る途中の川に掛かっている橋の柱の写真」

 紅茶のカップを置き、セオは顎を擦りながら画面に注目する。ルキトが先ほど携帯電話のカメラで撮っておいた例の陥没した橋脚の画像が映っている。それなりに興味を惹かれたのか、セオはルキトの手からケータイを取ってまじまじと見物し始めた。

「ほう、これが例の」

「あんたも知ってたのか?」

「今朝警察から学校にも連絡があってね。安全のため橋全体を通行止めにするので、生徒の登下校に影響が出るだろうとのことだった。実際、通学にあの橋を利用している一部の生徒からは遅刻の連絡が来ているよ」

 ルキトはあの橋を利用していない――橋桁の下をくぐっただけ――から先ほどは分からなかったが、実は既に封鎖されていたらしい。迂回を強いられた生徒たちは暑い中気の毒だ。

「柱がどのように壊れているのかまでは把握していなかったが、よもやこれ程酷い有様だったとは。それで、何が原因でこうなったのかルキト君は知っているのかね?」

「分からない。夕べの内にできたみたいなんだ。車がぶつかったか、重機か何かで壊したように見えるけど、現場の状況から見てどうも違う気がする」

 「……って、リュウヤが言ってた」とルキトは一応付け加えた。

「セオ、あんたはこれ、どう思う?」

「どう、と言うと?」

「いや、だから……一体何が柱をこんなふうにしたのかって」

 口ごもるルキトをセオは上目遣いで見返してくる。心の中を探ってくるような眼差し。

「まずキミの考えを聞いてみたいところだ。分からない、と今キミは言ったが、恐らく何かしらの憶測は立てているのだろう? それに対しての確証を得たいがために私のところへ来たと見受けられる」

 「違うかね?」とセオは気障ったらしく唇の片端を上げた。相変わらず食えない男だ。図星を突かれたルキトはふてくされるようにセオから一旦目を逸らし――やがて観念する。

「あんた、以前言ってただろ。この世界には人智を超えた特別な能力(ちから)を持っている人間が存在するって」

 セオは納得したように頷く。

「ふむ、なるほど。つまりキミは、コレが『ブレシス』の仕業であるかもしれないと言いたいのだね?」

 ルキトは瞳に真剣さを湛えて首肯する。

「ブレシスが振るう『ギフト』なら、分厚いコンクリートの壁を身一つで破壊できてもおかしくない。そして仮にそうだとしたら、警察じゃ犯人を見つけられない」

 そこまで伝えてルキトはセオの反応を待つ。セオもやや真面目な表情をしていたが、すぐに苦笑を漏らした。

「さてね。携帯電話で撮られた画像だけ見せられても何とも言えんよ」

「あんたなら何か分かるはずだろ」

「無茶言わないでくれたまえ。この画像から一体何の情報が得られると言うのかね? 重機などを使った形跡がないのなら、複数人が手持ちのハンマーやドリルなどで一晩中柱を砕き続ければこのような凹みができるだろう。要はただのイタズラさ」

 セオは興味を失い、携帯電話を閉じてルキトに返してきた。手元に戻ってきた端末を見つめてルキトは拗ねるように押し黙る。

 セオの言い分はもっともだった。遠目から撮った写真だけでは何も分からないのは当然だし、今彼が口にした方法であれば周囲に何の痕跡も残さずに橋脚の壁面を砕くことができる。そもそもブレシスの仕業であると考えることの方が突拍子もない予想だった。

「では逆に質問するが――」

 紅茶を一口飲んでからセオが切り出してくる。

「この柱を破壊した犯人が仮にブレシスだったと判明した場合、キミはどうするつもりかね?」

「どうって……」

「犯人を見つけ出して、二度と同じことをさせないように忠告するのかね? それとも捕まえて警察に突き出すのかね? だとしたら見上げた正義感だが、堅牢なコンクリートの塊をあれほどまでに破壊するような輩に、安直な考えで近づこうと思い立つのは些か軽率だと思うがね」

 セオとは今年の初春、つまり高校に入学する前の春休み頃に知り合ったのだが、彼がどのような性格の人間かは大体把握することができていた。

 セオは――優しい人間ではない。

 常に理屈と理論を重んじ、無意味かつ理に適っていないと判断した物事に対してはどのような頼み事であったとしても関与しようとしない。正当な理由がない限り一筋縄では動こうとせず、簡単に人に手を貸したりはしないのだ。

 手厳しくて食えない男、それが時任世生という人間。

 黒服の男は組んだ指に顎を乗せてルキトのことを見ている。焦れることなく冷静な姿勢で、ルキトが自分から答えを返してくるのをただ黙って待っている。

 ルキトは口を噤みながらも真剣に考える。ブレシスと遭遇した場合の自分の行動、目的を。

 やがてルキトは顔を持ち上げてセオを見据え、思っていることを素直にぶつけた。

「もし犯人がブレシスだったら、俺は――そのブレシスと話がしたいと思う」

 ぽつりと零れたルキトの言葉。セオは、演技でも何でもなく素の表情で、目を見開く。

「すまない、何だって? もう一度言ってくれないかね?」

「だから、ブレシスと話したいんだよ。俺はずっと前からこういう機会を待ってたんだ。なぜなら俺も――ブレシスだから」

 セオは滅多に見せることのない唖然とした顔で少年を見つめ返し――

「ふふっ、ははははは!」

 堪え切れずといった様子で豪快に吹き出した。

「あのさ……俺は結構真面目に答えたつもりなんだけど」

「いやいや、失敬失敬。あまりにもキミが面白かったので、ついね」

「俺は別に冗談なんて言ってない」

「そうだね、ははっ、その通りだ。ブレシスとおしゃべりがしたい、か。うむ、実にキミらしい。はははっ」

 賛同しながらも肩を震わせるセオ。一体何がおかしいのか、完全に小馬鹿にされている。虫の居所が悪かったので、ルキトはさっさと話を進めることにした。

「どうなんだよ。力を貸してくれるのか?」

 笑いを収めたセオはすぐには答えず、焦らすようにやたらゆっくりと紅茶を飲み込む。

「――いいだろう。協力しようではないか」

「俺の目的に納得したのか?」

「まぁね。キミが他のブレシスと対話して何らかの意見を得たがっているんだろうというその考えは、分からなくもないよ。過去のキミを知っている私であれば、尚更ね」

 気障ったらしい口調で語ると、セオはデスクの引き出しから細身の懐中電灯を取り出した。

「ただし、私が貸せるものは道具(これ)くらいだ」

 何の変哲もない懐中電灯を顔の横でちらつかせる黒服の男を、ルキトはじっとりとした目つきで睨む。それで夜道を照らせとでも言うのか。

「……やっぱり馬鹿にしてるだろ」

「ルキト君、見た目と本質が必ずしも一致するとは限らないのだよ」

 気障な仕草で人差し指を振り、セオは話し始める。

「『力』というものは発生と同時に熱(エネルギー)を放出するものだ。力の強さが大きければ大きいほど生じるエネルギーも膨大なものになり、余熱も長く残る。仮に橋脚を凹ませたものが何らかの強い力であったとしたら、それ相応のエネルギーの余熱も残されていることになる」

 「だが」と区切ってセオは続ける。

「一言に『力』と言っても、この世界には様々な種類が存在している。重力をはじめ、引力、電磁力、摩擦力、大気圧力……種類が違えばエネルギーの性質も異なり、観測の仕方もそれぞれ専用の手法が必要になってくる。この『赤写灯(せきしゃとう)』は、世の中に働く数多の力の中でそのどれにも属さない超常的なエネルギーのみを赤く照らし出す『裏科学暗器(アーティファクト)』だ」

 ルキトはようやく納得した。ただの懐中電灯に見えていたそれは、実は彼の怪しげな発明品だったということだ。

「例えば、自然に吹いた風とブレシスが引き起こした風――両者は外見上は同じ風力としてのエネルギーを生むが、発生要因が異なるため厳密には別物だ。気圧の不均一によって生じた自然の風か、気象学を無視して引き起こされた超常的な風か――このライトは、それを可視的に判別するためのものだ」

「つまり、柱の陥没した部分にそのライトの光を当てて、もし赤く照らし出されたら、ブレシスによる超常的な力が振るわれた証拠になるということか」

「そういうことだ。また、仮にブレシスの仕業だった場合、分厚い壁を破壊するほどのエネルギーを発したくらいだから、本人の体にも当分はギフトの余熱が残っているはずだ。泥の付いた靴で歩き回るように、河川敷から赤い足跡がどこかへ続いてるかもしれないよ」

 セオは懐中電灯を投げて寄越してくる。慌てずにそれをキャッチすると、ルキトは試しにスイッチを点けてライトを手の平に当ててみた。ごく普通の光が色白の手を照らすだけだった。

「まぁキミの場合は例外だがね。さて、そろそろ教室に戻りたまえ。あとはキミがそれを使って好きに調査するといい」

 ルキトはライトを消して赤写灯を握り締め、小さく頷いた。

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