序-3
円田邸での任務を終えたマキは夜になってからようやく滞在先のホテルを出発した。だいぶ遅い時間になってしまったものの、仕事さえ完遂すれば多少の自由行動は構わないだろうという若干ルーズなスタンスでマキはいつも動いていた。同僚のリンサほど生真面目ではない。
マキの運転する車は大きな河川に沿って伸びる道路の上を走っている。都心部の幹線道路よりは交通量が少なく、今は周囲に他の車はない。だからというわけではないが、マキの車は明らかに制限速度をオーバーしており、彼女の奔放な性格を表しているようだった。
ハンドルを握るマキは円田邸を襲撃した時と変わらず白衣を纏っていた。この服装は彼女の属する『ホスピタル』と称させる機関において制服のような役割を担っており、今回は円田翠の目を欺くための衣装としても兼用できた。白衣の下に着ている刺激的な黒いワンピースに関しては自前で――そのスリットから伸びるセクシーな足でマキはブレーキを踏んだ。赤信号だ。
停車し、窓の縁に肘をつきながら信号が変わるのを待つ。川の向こう岸から伸びてくる道路橋との交差点。他に車は現れず、無音の時間が流れる。
その時、片耳に常時装着しているイヤーモニターに通信が入った。
『ナース・マキ』
円田邸でやり取りした時と同じ女性の声だ。マキは赤信号を見つめながら襟の裏についたマイクで応答する。
「どうしたの? ナース・リンサ」
連絡を受けるようなタイミングではない。
『急報です。昼間確保した円田翠を乗せた護送車が、ホスピタルへ帰還中に何者かの襲撃を受けました』
マキの目つきが険しくなる。
「なんですって?」
『乗っていた収拾班のニ名が負傷。円田翠は襲撃に紛れて行方不明となっています。状況から察するに、傀儡が彼女を救い出してどこかへ連れ去ったと考えられます』
「待ってちょうだい。円田家の傀儡たちは収拾班によってあの後全て焼却されたはずよ。糸屑に戻った傀儡は燃やすか裁断すれば二度と復活できないという話だったじゃない。それに、ブレシスに打ち込む麻酔薬は丸一日効果が続くでしょう? 彼女の意識がないうちは傀儡も活動を停止するという情報は誤りだったということ?」
リンサは音声案内のような平静さで答える。
『襲撃者は、恐らく円田邸とは別の場所に隠されていた傀儡かと思われます。そして傀儡は、円田翠が意識を失えば一時的に活動を停止するものの、時間が経てば復活して主の身を守ろうと自律的に行動を起こし始める模様です。いずれもホスピタル側の調査不足です』
マキは苦笑いを浮かべながら前髪を掻き上げた。
「参ったわねぇ……やってくれるじゃない、あの人形使い(パペット・マスター)。で、私は今から円田翠を探せばいいってわけ?」
『いえ、既にホスピタルが捜索隊を組んでそれに当たっています。ナース・マキは円田翠の居場所が特定できたのち、再び彼女の確保任務に就いて下さい』
「了解。じゃあ、とりあえず私はこのままホスピタルに帰――」
突然、外から雷鳴が聴こえた。マキは言葉を切ってフロントガラスから空を見上げる。雨雲などかかっていなかったが、それ以前に今の音は不自然なほど近くから聴こえた。
『どうかしましたか? ナース・マキ』
マキが答えるより先にもう一度同じ音が鳴った。どうやらそれは雷鳴などではなく地上から発せられているもののようで、大砲を連想させる重低音だった。
職業柄、不可思議な現象には意識と体が自然と反応する。
「……リンサ、ちょっと待ってて」
マイク越しに言い残したところで、ちょうど信号が青に変わった。マキはアクセルを踏み込み、少し進んだところの路肩にすぐに車を停めた。車から降りたタイミングでもう一回轟音が聴こえ、方角的に音の発生源は土手の向こう側であるとマキは確信した。
助手席に置いてあった鞄の中から電子双眼鏡(スコープ)を取り出した後、マキは車から離れて斜面を登り始めた。
土手を登りきったところで腰を低くして河川敷の方を見下ろす。道路橋の真下、唯一陸地に立っている幅広の橋脚の前に人の姿があった。スコープを覗き込んで暗視モードにし、めい一杯ズームしてみると、そこにいたのは身軽な出で立ちの少女だった。
その少女が助走をつけて橋脚を殴ると、轟音と共に柱に大きな窪みが穿たれた。普段動じないマキでも我が目を疑った。壁面には蜘蛛の巣のように亀裂が迸っており、これまでの音は全てあの少女が驚異的なパンチ力で柱を殴りつけた時のものであると見て間違いなかった。
もう一度少女が柱をぶん殴る。有り得ないほど大きな衝撃音が大気を揺らし、大量のコンクリートの破片を撒き散らしながら壁面が激しく陥没する。普通の人間の所業ではなかったが、これも職業柄、マキは素早く事態を飲み込むことができた。
マキはスコープで少女の顔を鮮明に捉えた状態で、襟元のマイクに話しかけた。
「リンサ、あなたにも聴こえていたわよね?」
すぐに怜悧な声が返ってきた。
『聴こえていましたが、それは一体何の音ですか?』
「待って、今から画像を送るから、そこに映っている人物の詳細をデータベースから割り出してちょうだい」
言うや否や、マキはスコープを持つ右手の人差し指のところに付いているシャッターボタンを押した。現在スコープ内に映っている映像が画像として自動的にホスピタルへと転送される。
「そっちに届いたかしら?」
『画像は受信できました。ですがナース・マキ、あなた今一体どこにいるんですか? ホスピタルに帰還中ではなかったの?』
「帰り際に朔詠(さくよみ)市を通りかかったんだけど、そこで思わぬ獲物を見つけたのよ。円田翠が見つかるまで、私はこっちの追跡をしていた方がいいんじゃない?」
マキの両目はスコープに隠れて見えなかったが、口元には高揚感を抑えられないと言った様子の薄笑みが浮かんでいた。
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