ラプラス

青山 葵

ラプラス

 がやがやというざわめきがどこか遠い。僕の体はムーディな照明に満たされたパーティ会場にあったが、意識は体を離れていた。

「向井くんさぁ、もーちょっと自分で考えて動けないかなぁ?」

 目の前のショートヘアの女性が、呆れたように顔を歪めている。

「もうバイト始めてから半年だよね? シフトも結構入ってるよね? そろそろさ、指示なしでもある程度仕事できるようになってもらわないと困るんだよね」

 すでに会場の盛り上がりは峠を越えていて、幹事がマイクを片手に締めの挨拶を述べている。客たちの意識はそちらの方を向いており、僕たちスタッフには見向きもしない。それ故か、店長は心置きなく僕に嫌味を投げつけてくる。

「安くない時給渡してるんだから、その分きちんと仕事しなきゃ、って自覚してね。お店来て制服着てぼーっと立ってればお金もらえると思ったら大間違いだから」

 そう言い残し、彼女はフロアの方へ出て行った。バーカウンターに一人残された僕は、静かにため息をついて、洗い場に山と積まれたグラスを洗い始めた。

 安くない時給とか言うけど、最低賃金に毛が生えたくらいじゃん。それしか出せないくせに要求ばっかしてきて、何様のつもりだよ。それに自分で考えて動けとか、考えてるよ。突っ立ってるだけに見えた? 僕には僕のペースがあるんだから、そっちこそ考えて仕事振ってくれないかなぁ。

 なんて、口が裂けても言えないような考えが脳内でぐるぐると巡る。

 論点をずらし、責任を転嫁して自己防衛を図るが、同時に自分の能力が足りていないことも自覚しているからこそ、クズになりきれなくて余計に自己嫌悪が捗る。

 このレストランでバイトを始めたのは半年前。動機は、幼なじみの友人に誘われたからだ。大学に入ってからしばらく経って、お金が必要だと感じていたから、当時の僕はその誘いに一も二もなく乗った。が、その判断は軽率だったと、今なら思う。

 アルバイトの経験がない僕が、よりにもよって働くことになったのはベンチャー企業の直営店だった。学生が食事をするような雰囲気ではなく、仕事の接待だとか、特別な日のデートのディナーだとか、結婚式の二次会の貸し切りパーティだとか、そういうシーンで使われるようなものだ。最初こそそのハイソサエティな雰囲気に魅力を覚えたが、いざ仕事を始めてみれば、マニュアルはない、人出もない、そのくせ仕事の量は多い、要求されるサービスの質も高い。大手チェーン店で働く級友たちから聞いた話から想像していたバイトの環境よりも、ずっと過酷だった。

 同時期に始めた幼なじみもアルバイトは未経験だったが、彼はすでに一通りの仕事を覚えて、店長に気に入られていた。彼は小さいときから要領がよく、何事もそつなくこなす奴だった。翻って、僕はいつまで経っても仕事を覚えきれず、先輩や社員の指示を仰がなくては行動できない体たらくだ。

 人には向き不向きがある。この仕事は昔から自分で考えて動くことが苦手だった自分に合っていない。そこまでわかっているのに、辞めたいという一言が言えない。逃避を選択する勇気が足りない。だから半年もずるずると続けてしまった。なまじ長い間働いているだけ、バイトスタッフの先輩たちとは縁が深くなってしまっている。そのせいで、余計に辞めにくい。負のスパイラルに飲まれている。

 自覚していながらそれを抜けだそうと行動を起こすことができない自分が、嫌いだった。

 だから、目の前のグラスの山に集中する。お酒の注がれていたグラスを水ですすいで、洗剤のついたスポンジで洗って、泡をすすいで水切りラックへ。一連の動作の繰り返しには、頭を使わないで済む。単純作業は好きだった。


「……お先に失礼します」

 つい先ほど小言を言われた手前気まずい表情を浮かべながら、僕はスタッフルームのパソコンで事務作業に勤しんでいる店長にお辞儀をした。彼女はこちらを見向きもせず、おつかれー、と定型句のように労いの言葉をかけてくるだけだった。

 すでに夜十時を回っている。他のスタッフたちはキッチンの人が用意してくれたまかないを食べながら談笑しているが、僕はさっさとこの場を後にしたかったので、真っ直ぐ家路につく。

 冷たい秋風に顔をしかめながら、ぼんやりと思考を巡らせる。

 昔から自分の意思を表明するのが苦手だった。幼少のときから、周りについて動いていた。ああしたい、これがほしいと考えはする。だが、その欲求を成就させるために、どういう行動を取ればいいのか、考えることが僕は得意でなかった。

 だから、何をすればいいのか、誰かに決めてもらって生きてきた。

 親に従って小学校に通い、先生に従って勉強をした。

 中学生になると、同い年のみんなは自分のしたいことをするようになった。その中で、僕だけは自分ではなく、仲のいい人がしたいことをしていた。友達に誘われた部活に入り、友達に誘われた遊びをした。

 高校に入ると、なんとなく世間のことがわかってきた。理由はわからないが、大学に行くために勉強するのが当たり前らしい。だから、考えるまでもなく僕の進路は進学だった。

 予備校に入って、講師に与えられた教材で勉強して、大学へ入った。

 大学に入ると、段々自分の今までの生き方が通用しない事に気がつき始めた。時間割は自分の好きなようにデザインできるし、サークルも色んな種類があるから、自分の好きなものを選ぶことができる。大学は自由だ。決められたレールの用意されていた高校までと違い、好きなことをいくらでもできる。

 そこで、ふと思った。僕は、一体何に興味があって、何をするのが好きなのだろう、と。

 わからなかった。

 大学では、誰も僕の生き方を決めてくれない。何でもできるけれど、その自由は僕の手に余る。そう、入学から一週間で悟った。

 人生にはいくつか関門がある。受験だとか、就職だとか、結婚だとか。

 何も考えずに乗り越えられるのは、受験までだ。それ以降の関門は、自分の幸せに直結することだから、どういう風に乗り越えるのがよいのか、きちんと考えなくてはならない。

 その考える力が、僕には明らかに欠如している。

 もう手遅れなのだと、そこでようやく気がついた。

 僕の中身は、幼い頃からなにも成長してはいない。子供のままの僕では、この先の関門を越えることはできない。普通の人は当たり前に突破していくその課題が、僕には解決できない。

 そう思い至り、危機感を抱いてから、半年が経った。

 いまだに僕は何も考えずに日々を貪っていた。


 その日も僕は大学に行って、大教室で何人かの仲間と講義を受けて、適当にサークルに顔を出し、その内の何人かと共に大学付近の店で酒を飲んで、特に何を得ることもなく家に帰ってきた。変わらなければならないのに、変わらない日々。ぬるま湯に浸かるような日常を謳歌。本当にこれでいいのか、と問いかけてくる自分の姿はアルコールでぼやけた。

 ふらふらする頭を抱えて、ベッドへ倒れこむ。風呂に入らなくちゃとか、明日の支度をしなきゃとか思いながら、それとは裏腹に布団に潜って、携帯を眺めた。

 インスタントに楽しいコンテンツで溢れたタイムライン。供給過多な娯楽を、与えられるがままに貪って無為に時間を過ごす。思いつく遊びがなくても、口を開けて待っているだけで餌の方から飛び込んでくるのだから、これほど楽なことはない。

 徐々に眠気が襲ってきて、携帯で何を見ているのか、意識できなくなってくる。半ば自動操縦になったまま思考は薄れ、気がつけば僕は眠りについていた。

 翌日、昼下がりのインターフォンの音で僕は目を覚ました。

 両親はすでに出勤していて家には僕しかいない。倦怠感に囚われながら僕はベッドを降りた。

「こんにちは。向井洋一さんにお届け物です」

 玄関を開けた先に立っていたのは、運送業者の男性だった。彼はにこやかな笑顔を浮かべ、僕の名前が記された荷物を持っている。通販かなにかで買った物だろうか。小さな段ボール箱に心当たりはなかったが、伝票にサインをして、それを受け取った。

 自室に戻って、改めて段ボール箱を検分する。控えの伝票には、日本社会生活支援機構という、覚えのない機関の名が差出人の欄に記されていた。携帯で検索してみると、非営利団体のホームページが最初にヒットした。

 この組織の理念は『市民一人一人が生を謳歌できる、明るい社会を築く』こと。この組織は現在社会生活支援用AI〝ラプラス〟を開発中で、実験を重ねているという。

 最初に抱いた感想は、胡散臭い、の一言だった。理念からして、新興宗教かカルト団体の匂いを感じる。だが、ページを読み進めていくに連れて、胡散臭い、だけでは片付けられない何かを僕はその組織から感じ取った。

 曰く、件のAIは、人が現代社会で生活していくにあたって必要な思考をすべて肩代わりしてくれるという。何時に起きればいいのか、朝食には何を食べたらいいのか、今日はどんな服を着たらいいのか、何時に家を出て何時の電車に乗ったらいいのか……等々、すべての判断を人間の代わりに行い、最適解を教えてくれるのだそうだ。

 現在、僕がもっとも関心を持っている問題を、このAIは解決してくれるのではないだろうか。そんな期待が、僕を駆り立てた。

 段ボール箱を開封する。その中には大判の封筒と、厳重に包装された機械が入っていた。封筒を開くと、カラーで印刷されたパンフレットのような冊子が出てきた。

『このたびは、社会生活支援用AI〝ラプラス〟の第一次臨床試験にご応募いただき、まことにありがとうございます』

 携帯の履歴を調べると、昨夜、まどろみの中で僕はこの組織のホームページに辿り着き、臨床試験の被験者として申し込んでいたらしい。

 偶然にしてはできすぎている。が、今は早くその技術を体験したい気持ちでいっぱいだった。僕は同封されていた機械を手に取る。

 両端が丸く膨らんだネックバンドのような形をしている。素材はアルミ合金だろうか。作りはしっかりしているようだが、重量はあまりなかった。それを、冊子の指示に従ってうなじに沿って装着し、ふくらみのところについていた電源ボタンを押して、装置を起動する。

 途端、ネックバンドの一部が震え、頭の中に直接声が響いた。

『これよりセットアップを行います。この作業には一〇分ほどの時間を要します。ベッドやリクライニングチェアなど、楽な姿勢を保てる場所へ移動してください』

 機械音声的な響きはあるものの、どこか柔らかな雰囲気の女性の声だった。指示の通りベッドに横になると、声は続ける。

『セットアップでは、あなたの脳波を解析し、あなたがどのような人格の持ち主なのかをデータ化します。この測定の精度は正式な動作に大きな影響を及ぼすため、なるべく体を動かさず、リラックスしてお待ち下さい』

 それでは、測定を開始します。と残し、声は消えて穏やかなBGMが鳴り出した。この脳裏に直接響くような音はどのような仕組みで鳴っているのだろう。骨伝導のような技術を用いているのだろうか、と考えているうちに測定は終わったらしく、再び声が聞こえてくる。

『お疲れさまです。それでは、これから少し諸々についてご説明をいたしますね。同封の冊子をご覧ください』

 言われるまま、紙束を手に取る。

『私は社会生活支援用AI〝ラプラス〟です。お気軽に名前でお呼び下さい』

 まるで人間のようなしゃべり方をするんだな、と驚いた。

『これから実験の概要をご説明いたします。まず被験者様には、今日から二ヶ月間常に端末を身につけていただきます。その期間のデータはすべて記録し、実験期間が終了した後、研究の対象として回収されます。あらかじめご了承下さい』

 端末を身につけるということは、常にラプラスと共に生活しろ、ということなのだろうか。

『被験者様の日常生活に発生する様々の判断に、私のほうから助言させていただきます。どうぞ、ご活用ください。以上で説明を終了いたします。なにか、ご質問はございますか?』

 正直、どういう仕組みで動いてるのかとか、どこまで判断を頼ってよいのかとか、わからないことだらけだったが、それは付きあっているうちにわかってくるだろう、と思った。

「えっと、大丈夫です」

『かしこまりました。それでは、これからよろしくお願いいたします』

 律儀な挨拶に、思わず会釈してしまう。

『被験者様、早速ですが、そろそろ大学に行くお時間では?』

「え? あっ、やべっ!」

 時計を見ると、正午を回る頃だった。大学のキャンパスは都内にあるため、家からだと一時間近くかかる。ラプラスの言う通り、そろそろ家を出ないと三限に間に合わない。

「……って、なんで僕の三限の時間わかんの?」

 素直に疑問に思い、僕は問いかけた。

『セットアップの脳波測定では、被験者様の側頭葉――記憶も読み取らせていただいておりますので、被験者様の身辺の情報はほとんど把握しております』

 唖然とする。改めて、とんでもない技術ができたものだと思った。


『本日の最高気温は二〇度、最低気温は十七度。脱ぎ着して調整しやすい羽織り物のような衣服をお勧めいたします』

『電車が遅延していますね。途中で降りて、××線で向かうのはいかがでしょう?』

『四両目の先頭側のドア付近にいると、乗り換えがスムーズです』

『お昼の時間帯の生協は混んでいます。時間もあまりありませんし、アクシデント回避も兼ねて昼食は駅構内のコンビニエンスストアでゼリー飲料などを購入することを推奨します』

『三限は六人班でのグループワークですか。緊張を解くためにも、まずは簡単に挨拶してみませんか? こんにちは、だけでも充分な効果が見込まれます』

『現在の仕事の割り振りだと、プレゼン資料作成の二人にタスクを負担させすぎなように感じます。代わりにプレゼンターを申し出るのはどうでしょうか?』

『予定よりも閉講時刻が早いですね。サークルの部室で四限が始まるのを待つのもいいですが、早めに教室へ行って、ご友人の分も席を確保しておくのはいかがでしょう。講義が始まるまでの時間をプレゼンの原稿作成のための作業に充てると、後で楽だと思いますよ』

『講義が終わりましたね。十九時からアルバイトです。頑張りましょう』

『ソファ席のお客様のドリンクがなくなりそうですね。お済みのお皿を下げる際に、次のお飲み物を伺ってみましょう』

『お客様がお手洗いから戻られますね。お席に先回りして、椅子を引いて差し上げましょう』

『あちらのお客様は一通りお食事が済んでいますね。一息ついていただくために、お水と替えのおしぼりをお持ちしましょう』

『お仕事が終わりましたね、お疲れさまです。他のスタッフや店長さんに挨拶をして退勤しましょう』


 ラプラスの指示はどれも的確で合理的だった。アクシデントへの対応やBプランの提案も早いし、根が怠惰な僕には思いついても実行に移そうとはしないような行動も、彼女に指示されるとやってみよう、という気になる。口調が丁寧なおかげか、母親にああしろこうしろ、とうるさく言われているような気分にもならない。

 普段の流れに身を任せた一日とは異なり、心地よい疲れが体を包んでいることに気がつく。

「お前、すごいな」

 入浴を済ませ、ベッドで今日一日を振り返り、僕は呟く。

『被験者様の助けになれたのなら幸いです』

 特に助かったのがバイトの時だ。接客業は、客が何を求めているのか、それを叶えるためにはどういうアプローチでサービスをするのがよいのか、他のスタッフはどう動いているのかなど、考えなければならないことが非常に多い。僕はそれが苦手でいつも先輩に指示をもらっていて、他のスタッフたちの足を引っ張っているような嫌な気分になることが多かったが、今日は店を回す一員として適切に行動できていたように感じる。店長も褒めてくれた。

 カタログスペックだけでなく、実際に使用してみて、ラプラスの有用性に舌を巻かされる思いだった。彼女さえいれば、僕を悩ませる問題はすべて解決できるような気にすらなる。

 寝転がっているうちに、眠気が訪れる。

『明日は二限から大学ですね。ゆっくりお休みください。明日もよろしくお願いいたします』

 眠りに落ちていく中で、彼女の声が心地よく響いた。

 講義、ゼミ、サークル、バイトの繰り返しとはいえ、それからの日々は非常に充実していた。 以前と比べ、色んな仕事を率先して受け持つようになった。これまではコミュニティから排斥されないため、という消極的な動機でしか誰かの代わりに物事に取り組むことはなかった。しかし、自分からタスクを担当すると感謝されるようになり、そのコミュニティの成員として受け入れられているような感覚を得ることが多くなっていった。

 徐々に任されることも増えてきて、忙しい日々が続くようになったが、ラプラスのタスク管理は完璧で、どれも高いクオリティで期限内にこなすことができた。体は疲れるが、達成したときの充実感や、仲間に感謝される満足感のおかげで、さして気にはならない。

 僕が思いもしていなかった、充実した大学生活が、そこにはあった。


     *   *   *


 講師の号令で四限の英語の授業が終わり、クラスの中の生徒たちは思い思いのメンバーと共に教室を後にしていく。

「向井くん、いつも仕事任せちゃってごめんね」

 僕も次の講義の教室へ向かおうと教科書をバッグにしまう。そこへ、一人の女子が僕に話しかけてくる。

「気にしないで。安田さんだって仕事してくれてるじゃん。僕、人前に出るのは苦手だからさ、助かってるよ」

 彼女はこの英語の他に、ゼミで同じ班に所属している。この授業では、彼女にはプレゼンの際に前に出て喋る役をしてもらっている。ラプラスがいても注目を集めると緊張してしまう性格だけはなんともしがたいため、彼女に助けられる場面はいくつもあった。

「そうだけど、向井くん、ゼミとか他の授業でも色々受け持ってるでしょ? この授業の資料とか原稿作るのだって楽じゃないんだから、忙しかったらたまには休んでいいんだよ」

 気の利くいい娘だな、と思いつつ、僕は応える。

「大丈夫、忙しいの好きなんだ。でもありがとう。なにかあったら頼るよ」

「……うん、わかった。無理しないでね」

「わかってるよ、ありがとう」

 気遣ってくれていることにもう一度礼を言って、僕は教室を後にした。

『被験者様。五限は教授の都合により休講のようです。どうされますか?』

「あ、そうなんだ。……んー、サークルに顔出して飯食ってくのもアリだけど、最近外食ばっかだしまっすぐ帰ろうかな」

『かしこまりました。帰りは十七時二〇分の電車に乗りましょう』

 ラプラスの提示した通りのルートで帰途につき、家へ帰ってくる。玄関の扉を開く頃には日も沈み、あたりは薄暗くなっていた。

『被験者様、そろそろお眠りになってはいかがでしょうか?』

 食事と入浴を済ませ、デスクで作業をしていると、ラプラスが問いかけてくる。

「まだいいよ。明日のバイトは十二時からだろ? キリのいいところまでやってから寝るよ」

 赤ペンを指先でいじりながら、紙束に線を引いていく。これは教授から配布されたもので、次回のゼミでディベートを行うため、それまでに読み込まなければならない資料だ。

『かしこまりました』

 そう言うと、彼女はそれきり黙った。作業中はあまり気を散らさないように、いつもこうしてもらっている。

 しとしとと降りしきる雨の音が、僕の意識を目の前の文書だけに集中させる。資料の内容は、経済的に豊かであれば幸せな生活が送れると主張する者と、真の幸せは暖かな家庭にこそあると主張する者の対談形式の文章で、僕の興味をそそるものだった。

 半時間ほどかけて三分の二を読み終わったところで、肩こりや腰の疲れが気になってくる。時刻は深夜一時を過ぎようとしている頃だった。ラプラスのインストールされた端末を外し、直接肩を揉む。少し楽になったような気がしたが、手を止めるとまた疲れが押し寄せてきた。

 目頭が重い。資料の内容は熱中できるものだったが、朝からずっと授業を受けていたせいで如何せん目が疲れている。そろそろ眠りたいな、と思った。

 だが、あと少しで文章を読み終われる。明日はバイトの前に起きるとして、今寝てしまったら続きを読めるのはバイトが終わった後だ。この文章を読んで考えたことを元にディベートを行うとなると、なるべく新鮮な感想を書き残しておきたい。

 そう考え、僕はもう少しだけ頑張ることにした。


 意識が覚醒する。頭を支えているのは低反発の枕ではなく、机の硬い天板だった。

 首が痛い。机から頬を離すと、鈍く痛んだ。寝違えてしまっただろうか。

 椅子の背もたれに身を預け、天井を仰いでぼうっとする。徐々にまどろみの中から意識が這い出てきて、視界がクリアになってきた。

「………………あ、」

 ふと、部屋に差し込む陽の光がいつもより明るいことに気がつく。同時に嫌な予感がして、心拍数が急激に上がり目が覚めた。壁の時計をおそるおそる見やる。どうか、この感覚が間違いでありますようにと祈りながら針を読んだ。

 午後一時二〇分。本来であれば、とうにバイト先で仕事をしていなければならない時刻だ。

「う、ウソだろ、おい……!」

 どうしてこんなに寝過ごしたのか、答えは机の端にあった。

 そこに転がっていたのは、取り外されたネックバンド型端末だった。

 普段はラプラスがその日の用事に合わせ、睡眠の周期も考慮して目覚めやすい時間帯に起こしてくれる。だが、今日に限って端末を外してしまっていたため、彼女も仕事のしようがなかったのだろう。

「ラプラスっ、どうしたらいい!?」

 慌てて端末を首にかける。

『アルバイト先に連絡を入れましょう。素直に寝過ごしたことを伝え、謝罪するのが得策かと』

 いつも通りの落ち着いた声でラプラスは言った。僕は携帯を手に取る。震える手でホームボタンを押すと、ロック画面に不在着信を報せる通知がずらりと並んでいた。店長や他のスタッフの怒った顔が目に浮かぶようで、喉が干上がった。

 ロックを解除し、連絡先一覧からバイト先の電話番号をタップする。無機質な呼び出し音が却って僕の焦りを加速させた。

『はい』

 電話に出た店長の声は、思っていたよりもずっと低く響いた。

「す、すみません、向井です! すみません、遅刻しました……!」

『とりあえず、急いでお店来てくれる?』

「は、はいっ! すみませんっ!」

 プツンと電話が切れる。ショックのせいで中身が全部流れ出した頭の中で、ツー、ツー、という音が反響して止まなかった。

 寝癖を直す時間も惜しく、跳ねた髪をワックスで無理やり固め、一番取りやすい位置に仕舞われていた服を着て家を飛び出す。自転車をかっ飛ばし、更衣室で制服に着替え、ホールに出たのは一時四十五分。一〇〇分を越える大遅刻だ。

 店内は多くの客で賑わっていた。観光スポットのそばに居を構えるこの店は、休日のランチタイムはいつも超満員なのだ。

 メインホールのほうに店長の姿を見つけ、彼女の元へ駆け寄る。

「お、遅れてすみません……! ゼミの課題に夢中になっていて寝過ごしました……」

 深々と頭を下げる。

「言い訳はいいから、仕事しようか」

 冷ややかな声と視線に射竦められ、僕は何も言えなくなる。

 とにかく、なにか仕事をしているように見せないと更に叱責を受けるような気がして、僕は逃げるようにキッチンのほうへ走って、カウンターからサラダの入った木のボウルを手に取る。

 それを客の元へ早足で運び始めたタイミングで、アルバイトの先輩と目が合う。

 そちらに意識を取られたせいで、前を通ろうとしていた子供の客に気がつかなかった。

 どん、という衝撃自体は大したものではなかったが、それに驚いて身が竦んだ。その拍子に握力が緩み、ボウルが手から離れる。軽い音を立てて、ボウルが床を転がった。

 気がついたら、ドレッシングをたっぷりまとった野菜があたりに散乱していて、小学校低学年くらいの女の子が今にも泣きそうな表情で尻餅を突いていた。

「う、うぇっ、……うええええええええええええええええええええええええええええええん!!」

 店長と先輩が飛んできて、駆け寄ってきたその子の保護者に何度も何度も頭を下げているのを、僕は一緒に頭を下げながらどこか遠い所から眺めているような気分で見ていた。


 その後、どうやって今に到ったのかはもはや覚えていないが、なんとかランチタイムを乗り切り、一度クローズした店内でディナーの準備をしていた。

 ひたすら、自分の至らなさを恥じ入る思いだった。先輩は気にするな、とフォローしておおらかに笑ってくれたが、それでも気は晴れなかった。

『あと三〇分でディナータイムが始まります。少しペースを上げましょう』

 ラプラスの声に、僕はかすかな苛立ちを覚える。今は誰にも声をかけられたくなかった。やり場のない腹立たしさとやるせなさをぶつけるように、僕は箒をかける手を早める。

「向井くん」

 店長に呼ばれ、僕は箒を置いた。

「土日のお昼が忙しいのはわかってるよね? シフト、どうして守れなかったのかな?」

「…………すみません」

 努めて平静を装っている、という様子が声音からありありと伝わってきて、僕は萎縮してしまう。言い訳はいいから、と釘を刺されているせいで、何を話しても意味がないように感じて、口をつぐんだ。

「最近、よく仕事してくれるから見直してたんだけどね」

「すみません」

「あと、あの保護者様が優しい方だったから、お洋服のクリーニング代だけで許していただけたけど、それも損害だからね。給料もらっておきながら店に損害出すなんて、もっての外だからね?」

「……はい、理解してます。すみません」

「本当に反省してる? なんか、叱られて不貞腐れてるだけに見えるんだけど」

 傷口に塩を塗られるような気分だ。店長の舌鋒が、僕の心を容赦なく刻んでいく。

「とにかく、今後はこういうことのないように。遅刻も、お客様を傷つけるようなことも」

「………………はい」

「じゃ、オープン準備よろしくね。あと三〇分しかないから、急いでね」

 そう言うと、店長はつかつかと踵を鳴らしてスタッフルームへ去っていった。

 深く深くため息をつく。だがその程度で渦巻く感情の内圧が下がるはずもなく、ただただ虚しく肺の空気が抜けるだけだった。

 床に箒をかけ、テーブルの食器類をディナー用のものに切り替え、予約の入っている席にカードを置く。その動作一つ一つが煩わしかった。とにかく、この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 やがて定刻が来て、店の扉が開かれる。ほとんど間を置かず、客が二組入ってきた。

『メニューを持っておしぼりをお渡しに行きましょう』

『ドリンクを出したら、お料理を運びましょう』

『取り皿が不足しているようです。お持ちして差し上げましょう』

『電話が鳴っていますね。店長さんはお客様の対応をされていますから、被験者様が対応しましょう』

『お会計のようです。伝票を男性の方にお渡ししましょう』

『こちらのトレンチコートは男性様の、Pコートは女性様のものです。お渡ししましょう』

 ラプラスの指示は今日も正しかった。正しいが、優しくはなかった。

 既に仕事に取り組む精神的余裕はほとんどない。が、彼女は普段と変わらず、いつも通りに指示をしてくる。必死に心に蓋をし、微笑みを顔に貼り付けて、客と向き合う。

 午後一〇時半。やっとの思いで客を捌ききり、ラプラスに指示されるまま明日の準備を終えて、タイムカードを切る。

 家に帰り、布団に潜っても、今日の失態が頭から離れることはなかった。寝坊に気がついたときの心臓の音、無機質な電話の呼び出し音、低く冷ややかな電話越しの声、サラダボウルが床を跳ねる音、幼女の泣き声、失望を隠しもしない店長の声と表情。目を閉じても耳を塞いでも、こびりついて取れなかった。

 気を逸らそうと、携帯を眺める。いつもは追い切れないタイムラインを読み尽くしても、眠気は訪れるどころか冴えていくばかりだった。悪態をつきながら、深夜二時を越えた時点で布団を出た。

 冷蔵庫から、父の冷やしていた缶ビールを取り出す。ビールは嫌いだったが、今は酔うことができればなんでもよかった。乱暴に持ち出したせいで噴き出したが、構わず飲み下す。麦の香りが鼻に抜ける。炭酸の刺激と苦みに、僕は顔を歪めた。一本を干し、そのままの勢いで二本目も空けた。三本目を開封する頃にはぐるぐると頭が痺れ、僕はキッチンの流し台に体を預けるように崩れる。

 何もかもがぼやけるが、それでも苦々しい記憶は晴れず、僕の頭の中に留まり続けた。ただ、それをつらいと感じる頭は麻痺していて、一時的に気分はマシになった。

 だが、それも長くは続かない。やがて急激な血中アルコール濃度の上昇を検知して、体がごく自然な生命維持機能として嘔吐を催した。

 咳き込む。喉と鼻の奥が灼けた。

 吐いた勢いで嫌な記憶も出て行けばいいのに、とどこか醒めた自分が思うが、そう簡単にはいかなかった。

 ひとしきり吐き出してから、温めた牛乳を飲んで胃を落ち着かせ、僕は最悪な気分のまま布団へ戻った。相変わらず感情の内圧は高まり続け、出口を求めて僕の中で彷徨っていた。

「……ラプラス。僕は、どうしたらいい?」

『眠ることをおすすめします。生活リズムの乱れは今後の予定に重大な支障を来す恐れがあります』

 無感動な声に、僕は尚更嫌になった。

 夜が更けていく。


 結局、翌日は自己嫌悪と二日酔いでベッドから出ることができなかった。本来なら、今日の内に抱えた仕事を終わらせる予定だったが、何もできず、気がついたら夜が来ていた。

 その次の日、ラプラスの声で目を覚まして、いまだに重い頭を抱えて大学へ行った。友人に赤い目を指摘されて笑われたが、それに対応する余裕すらない。幸い、月曜日は教授の話を聞くだけの授業しか履修していなかったので、それでも問題はなかった。その夜も中々寝付けず、気は晴れなかった。

 さらに翌日。この日はプレゼンがあった。資料は先週既に用意してあったので、僕はプレゼンターの話している内容に合わせて資料のページを送ることしかしなかった。次回の分も、以前と変わらない量の仕事を当然のように依頼してくる班員に、気が滅入った。

 夜はまた眠れなかった。この四日間、バッテリーが切れるように寝落ちるのがせいぜいで、まともに休めていない。そろそろ、日常生活にも支障が出てきた。

 翌日。

『被験者様。お目覚めの時間ですよ』

 耳の後ろの振動とラプラスの声に意識が覚醒する。が、体が動かなかった。

 目は覚めている。大学に行かなければ、という義務感もある。だが、皮膚の内側に鉛を注がれてしまったかのように全身が重い。生存本能が休みを求めているのだと感じた。

 その体に鞭を打ち、必死にベッドから這い出る。

『今日の二限はゼミの時間です。ディベート用の資料はお持ちになりましたか?』

 バイトを寝過ごした日に書き上げた資料は、きちんとその日の内にファイルに収めた。大丈夫だ。悲鳴を上げる全身を励起して、僕は家を出た。

 支度に手間取ったせいで、乗った電車はいつもより二本遅いものだった。普段なら授業が始まる二〇分前に大学の最寄り駅に着くように調整しているが、今日はそんな余裕などない。電車がホームに着いた瞬間、走って車両を飛び出す。

 遅刻を確信して開き直った学生たちがだらだらと歩いている道を、必死で駆け抜ける。教室に入ったのは授業開始の三〇秒前だった。

 他のゼミ生たちはぱりくりと丸い目で僕を見てきた。

「諸君、おはよう」

 十時四〇分。二限の開始時刻きっかりに教授が姿を現す。

「前回話したとおり、今日は二班に分かれてディベートを行う。テーマは、幸せな人生に必要なのは経済的な豊かさか、温かい家庭か。それぞれA班、B班とする。それでは分かれて」

 教授の号令に、ゼミ生たちは席を移動する。僕の主張はB班だ。

「では、ディベートを開始します。A班のほうから、順に意見を述べて」

 相手の班がメモ書きを見ながら口を開く。僕は額に浮かぶ汗を拭いながら、ファイルから自分の資料を出した。自分の論旨の細かい内容までは覚えていないが、最後のページに論理構成のフローチャートを組んであったはずだ。そのページをめくる。

 だが、それを見て、まずいと思った。

 殴り書きされた字が、自分でも解読できないほどに崩れていた。思えば、これを書いたときの記憶がない。眠気がピークに達していたせいだろう。

 慌てて赤線を引いてメモを取りながら読んだ本文に目を通す。だが、必死で頭を回しても、靄がかかったように、一度書いたはずの文章が思い出せなかった。

 着々と順は進んでいる。A班の意見表明が終了し、こちら側の班の番になる。焦りが脳をオーバーヒートさせ、余計に思考を散文的にかき混ぜていく。

 頼みの綱のラプラスも、

『申し訳ございません。被験者様がそれを記入されている際、端末が外されていたため私は一切の感知が行えませんでしたので、記憶しておりません』

 と、今回に限ってその力を発揮できない。

 結局、自分の番になって、しどろもどろになりながら、どうにか薄い記憶を辿って、要領を得ない意見表明を終えた。その後も相手班のインタビュアに論理の矛盾を指摘されたり、教授に怪訝な表情を浮かべられたり、散々な結果に終わった。

 恥を晒す結果となったディベートが終わり、皆が移動した後の教室で打ちひしがれていると、二限を終えて昼食の場所を探していると思しき集団が入ってきて、僕は慌てて教室を後にした。

 重い心持ちのまま食堂で昼食をとっていると、ラプラスが声をかけてくる。

『今日は二件のタスクがあります。時間があまりないので、効率的にこなしましょう』

「え、二個もあるの……?」

『はい。本来なら一昨日と昨日にも分割する予定でした』

 サボっていた分取り返さなくてはならない、と言われているようで、余計に気分が重くなる。

 三、四限の講義を訊きながら、タスクである英文の和訳課題を内職で進める。だが、疲れで頭が働かず、文章が読めない。加えて単語がやたらと難しい。本来の講義の板書もある。まるで捗らなかった。

 四限が終わると同時に教室から出て、無心に駅を目指し、朦朧とする意識のまま電車に乗る。気付けば眠っていて、ラプラスが起こしてくれなければ乗り過ごすところだった。

 家に帰ってきても気は休まらない。すぐに机に向かって課題に取り組む。結局和訳は諦め、ネットの翻訳サービスに頼ることにした。質は落ちるが、提出が間に合わないよりはマシだ。

 もう一つのタスクは、プレゼンの原稿の準備だ。なんとかすべてをやり終えた頃には食事を取ろうという元気もなくて、そのままベッドに崩れ落ちた。その日は久しぶりに何も考えず、泥のように眠ることができた。


 ラプラスに声をかけられることもなく、自然に目覚める。時刻は十時半。家を出るまではまだ二時間ほどの時間があった。

 状態を起こした瞬間、自然に目が覚めたのは疲れが取れたからではなく、体の機能を維持するために、睡眠以上に必要なものがあったからだと感じた。依然体は重く、倦怠感が全身を苛んでいた。

 呻きながらキッチンへ足を運ぶ。冷蔵庫の中に昨夜の夕食が残っていたので、温めて腹に入れた。二十二時間ぶりの食事に、腹の虫が思いだしたように騒いだ。体が求めていたのは食事だったらしい。

『被験者様。そろそろ家を出ましょう』

 腹を満たした後はシャワーを浴びて身支度を調えていると、ラプラスが語りかけてくる。ああ、まただ。と、どこか辟易とした気持ちになる。

 ああいやだ、家を出たくない、と嘆きながら玄関で靴紐を結ぶ。けれど、あと二日乗り切れば、バイトもない休みの日だ。それを目の前のニンジンに、僕は立ち上がった。

 立ち上がって、立ち尽くした。

 我が家では、鍵を玄関に置いた小物入れにしまって一元管理しているのだが、何度探しても、僕のキーホルダーがなかった。それがないと、家の鍵もかけられないし、自転車のチェーンも外せない。冷や汗をかいた。

 リュックサックのポケットにも、上着のポケットにも、自転車に差しっ放しでもなかった。

『時間が迫っています。自転車は諦め、今日は駅まで歩いてはどうでしょう』

 ラプラスの指摘はもっともだが、停めてある自転車に鍵がかかっている以上、昨日の僕は鍵を持っていたはずだ。絶対に家の中にあるはずなのだから、落ち着けば見つからない訳がない、と僕は視野狭窄を起こしていた。

 その後五分ほどかけて家を探したが、見当たらない。ふと、小物入れの中に母の鍵が残っていることに気がつき、ある考えに思い至って僕は母の携帯に電話をかけた。

『もしもし、どうしたの洋一?』

 数コールで母が出る。僕は自分で考えた仮説が間違っていることを祈りながら彼女に尋ねた。

「母さん、僕の鍵間違えて持って行ってない?」

『え、まさか――あ、』

 最後の一言ですべてを察し、僕はくずおれた。震える指で通話を切る。

『――この周辺にはバス停もありません。歩きましょう』

 ラプラスがそう提案してくるが、体が動かない。

 なんで――僕は悪くないのに――人のミスで――ふざけんな――課題もやったのに遅刻じゃん――しかも駅まで歩きだなんて――

 あらゆる思考が脳を埋め尽くし、体を動かそうという信号を飲み込んで、指先一つ動かせなかった。

『被験者様。予定に間に合う最後の電車があと二〇分で出てしまいます』

 家から駅まで、早歩きで十五分。急げばまだ間に合う。

 かろうじて残ったなけなしの理性が、かろうじて切れた糸をつないだ。もぞもぞと立ち上がり、僕は母の鍵で家の玄関をロックし、歩き出す。

 が、その速度は亀の歩みにも匹敵するのろさだった。義務感を燃料にして行動できる余裕が僕の心には残されていなかった。

 一歩一歩が、老人のように小さく、遅かった。

『あと十五分です』

『あと一〇分です。授業が始まっても三〇分以内なら課題の提出は受け付けていただけます。そちらを目標にしましょう』

『最後の電車が駅を発車しました。次の電車は一〇分後です』

『また、電車が駅を発車しました。次の電車は七分後です』

 虫が止まるような速度でも、時間をかければ目的地までの距離は縮む。三〇分かけて、僕は駅までの道のりの半分を踏破していた。

 だが、どういう訳か駅までの距離が短くなればなるほど足取りは重くなる。もはや足を動かしているのは義務感ですらなく、ただの惰性だった。

「……………………かえりたい…………」

 ぽつりと口にして、やっと気がついた。僕は、休みたいのだ。

 言葉にすると余計にその気持ちが強くなって、どうしようもなくなる。課題も、プレゼンも投げ出して、家へ帰りたかった。もはや義務感などとうになく、逃避を望む気持ちしかなかった。

 気持ちが楽になる。安田も言っていたじゃないか、無理をしてはいけない、と。

 よし、帰ろう。一日くらい、休んだっていいじゃないか。いつも頑張っているんだから、今日くらい。帰ったら何をしよう。まずは寝るか。ああでも、溜まったテレビ番組を見るのもいいな。ゲームをするのもいい。ああ、なんだか気分が明る――

『プレゼンの資料がないと、他の五人の班員に迷惑がかかってしまいます。急ぎましょう』

 冷や水を浴びせられたように、頭が冴えきった。

 そういえば、プレゼンの班の一人には、生活が厳しくて奨学金が必要だと話している生徒がいた。もし僕が資料を持って行かなかったことでプレゼンができず、結果として彼の評定が下がってしまったとしたら、奨学金を給付できなくなってしまうかもしれない。もしそうなってしまったとしたら、それは僕のせいだ。

 ふたたび義務感が足にまとわりついて、その歩を進めさせた。今度こそ、僕は僕を休ませることを諦めてしまった。

 駅に着く。改札を通る。通路を渡って、ホームで電車を待つ。

『急ぎましょう』

 ああ、着いてしまった。あとは電車に乗るだけで、限りなく大学が近くなってしまう。授業中の教室に入って、クラス中の注目を浴びながら教師に遅刻したことを謝らなくてはならない。プレゼンの資料を班員に渡し、また次の資料作成を引き受けなくてはならない。この先も忙しさは変わらない。

『急ぎましょう』

 駅構内のスピーカーがジングルを鳴らし、快速電車が通過することを報せる。見れば、遠くの方から電車が迫っていた。









――あ、これに飛び込めば、大学行かなくて済むじゃん。










『次のニュースです。全国で社会生活支援用人工知能〝ラプラス〟による被害が続いています。

 日本社会生活支援機構の開発したAIラプラスは、場面によって適切な行動を使用者に示唆し、判断を支援する機能を持った画期的なものだとして、以前から注目を集めていました。

 先月から日本社会生活支援機構は、一般人を対象にした臨床試験として、被験者を募っていました。その試験の結果、ラプラスには致命的な欠陥があることが指摘されました。

 それは、「使用者のストレス状態を考慮しない」ことです。

 我々人間には、ストレスが許容量を超えた際、逃避を選択するという防衛機能が備わっています。ですが、ラプラスは「精神的に健康的な人物」を使用者として設計されたため、追い詰められた人物や、精神的に不安定な人物に対しても同じ提案を続けてしまうのです。

 その結果、全国でラプラス使用者による傷害事件や交通事故、果ては自殺などが連続しています。今朝も一人、被験者と思われる十九歳の少年が××駅にて、通過する電車に飛び込んで亡くなりました。

 これを受け、警視庁は一連の事件、事故に影響を与えた疑いがあるとして、日本社会生活支援機構代表理事の△△氏に刑事責任を問うものとして、捜査を進めています。

 それでは、次のニュースです――』

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ラプラス 青山 葵 @writing_aoi

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