第20話 「竜退治」

 クレシェイドとヴァルクライムは、竜の行方を追うため、東へと進んで行ったが、通り掛かった村々では、その手掛かりを得る事ができなかった。

 彼らは村の小さな酒場にいた。

「レイチェルの嬢ちゃんの聞き込みでは東へ向かったと言うが、竜は途中で進路を変えたのやもしれんな」

 魔術師は珍しく苦々しい表情を浮かべて話しを続けた。

「それに考えてみれば、グスコムですっかり腹を満たしたのだ。きっと、どこぞで休んでいると見るべきだったのやもしれん。あるいは、嬢ちゃんらを向かわせた霧の台地がそのねぐらだったという可能性もある」

 破壊と殺戮が襲ったグスコムの惨状を見て、クレシェイドは、レイチェルやサンダーらには竜の相手をするのは無理だろうと悟っていた。向かいに座る魔術師も同意見だった。その二人の願いを、有翼人の少女ティアイエルも察し、こちらに話しを合わせ、別行動をとることに決まったのだった。

 だが、その竜が、霧の台地にいる可能性が高まるとは、本当に迂闊であった。クレシェイドもヴァルクライムの意見の方が信憑性があるように思えてきていた。

 ならば、速やかに引き返すべきだと、二人は席を立った。

 クレシェイドは仲間達の無事を祈らずにはいられなかった。気を利かせたつもりが、己の浅はかさで、裏目に出てしまったのだ。

 だが、既に二日経っている。あのレイムと言う少女は霧の台地まで四日ほど掛かると言っていた。どう急ごうがティアイエル達には追い付けないだろう。有事の際、彼女達が蛮勇に囚われず竜を避けてくれれば良いのだが……。

 二人は大急ぎで馬を買いに走った。小さな村だが、幸いにも馬を求める事ができた。速さの魔術で街道を走る事もできたが、まる数日も走り続けるには幾らヴァルクライムが腕の良い魔術師でも随分な無理があった。それに、竜と戦うのに際し、力を温存してもおきたい。

 二人が馬を引き、石垣で囲まれた村の入り口まで来た時であった。

 突然、風が吹き荒れた。それは凄まじい突風で、クレシェイドの鎧の身体でさえも、下手をすれば飛ばされそうなほどの勢いであった。

 すると、どこからか、重く空気を孕んだような音が、木霊の如く聞こえてきた。

 程なくして、二人の頭上を両翼を羽ばたかせた、首の長い、見るも巨大な影が通り過ぎていった。

 クレシェイドは唖然として、その様子を見送っていた。

「見たか友よ。あれこそ、我らが追い求めている邪竜、デルザンドに相違無い」

 ヴァルクライムが胸を躍らせるようにして言い、クレシェイドは正気に戻った。

 竜の影は東へ向かって、虚空へと消えていた。

「追うぞ、ヴァルクライム」

 驚きと慄きで騒ぎ始める村の人々を背に、二人は馬上の人となって街道を駆け始めていた。



 二



 竜は町に舞い降りた。

 凄まじい地響きが、人間達の住む家を震撼させ、道行く人々の足の自由を奪い、転倒させた。

 竜は空腹であった。

 それがベルハルトにはよくわかっていた。

 デルザンドは、グスコムとかいう町をそうしたように、人々を平らげにやってきたのだ。

 デルザンドが咆哮を上げると、人々は途端に悲鳴を上げ、あたふたと逃れ始めた。

 その群衆の背に向かってデルザンドは、痺れを齎す毒の息を吹き掛けようとしていた。

 しかし、大きく息を吸い込んだだけで、その動作は中断されていた。

 竜は、己を形成するもう一人の意思である破壊神の神官ベルハルトに問うた。

 何を惑っているのだ、人の子よ。

 ベルハルトの脳裏には姉の言葉が過っていた。

「もはや、そんなことをしても意味は無い! 私と共に来い、我々はこの世界の人々と生きながら新しい道を探し出し歩んで行くべきなのだ! 行こう、ベル!」

 その言葉が、あれだけ燃え上がっていたベルハルトの復讐の心を、揺さぶり、吹き消そうとしていた。

 確かに、今の時代の者達に復讐をしたとて、何が果たされようか。姉上の言う通り、この世界の人々と共存し、新たな道を歩むべきではないだろうか。

 ベルハルトは、姉が紹介した妹代わりの者のことを思い出していた。

 青い髪の少しずんぐりした、可愛らしい女の子であった。

 私はそうなると、彼女の兄になるのか。

 逃げ惑う人々を、竜の目を通して見下ろし、ベルハルトは苦悩していた。

 この時代に生きるならば、これ以上、罪を重ねるべきではない。ベルハルトの心は決まった。

 彼は人々に迫ろうとしている竜の意思に抗った。

 何の真似だ、人の子よ。我らは共に、人を蹂躙し、絶望の世界を築こうという盟約を交わしたはずではなかったか。

 竜は怒りを含めてベルハルトの意思に訴えてきた。

 デルザンドよ、お前に、これ以上人々を食らわせやしない。

 ベルハルトは必死に抵抗し、竜から己の姿を取り戻そうと躍起になった。

 しかし、邪竜も強力な意思で、ベルハルトに向かって抗った。

 盟約を違えるか。愚かなる人の子よ、汝が血族が言に惑わされ、竜に反逆するか。

 ベルハルトは、圧倒しようとする敵の意思に呑まれ始めていた。

 姉上、私は決めました。私もまた、この世界で新たなる生を送る事を。そのためには、デルザンド、お前の力を抑え込ませてもらう。滅ぶが良い! 邪悪なる竜の魂よ!

 すると竜は嘲笑った。

 愚かなり。人の子、一人の力に屈する竜では無い。ならば、逆に我が身体の中で、お前の魂を打ち消してくれようぞ。

 竜の意思が、ベルハルトを圧倒しようとする。

 ベルハルトは必死に抗った。しかし、敵の強大な意思はじりじりとこちらの防衛線を縮めてくる。

 闇の神よ! いや、戦神ラデンクスルトよ、今こそ我に力を与え給え!

 ベルハルトの全力の前に竜の意思が明滅し、その邪悪なる魂が苦悶の叫びを上げた。

 もう一息だとベルハルトは確信した。



 人々は、ただ立ち尽くす竜を、遠巻きに怪訝そうに眺めやっていた。

 そのうち、その間を掻き分け、武装した一団が姿を現した。

 漆黒に塗られた大剣を構えた司令塔のような男が叫んだ。

「見つけたぞ、竜だ! オザード戦士団、ぬかるんじゃねぇぞ! まずは矢を撃て!」

 武装した人間達が、こちらの眼前に展開し、矢を番えた弓や弩を構える。

 そして一斉に矢が飛来したが、それは竜の身体に当たり、パラパラと石畳の上に落ちていった。



 竜の意思が突如として勢いを盛り返した。

 それは黒い怒りの本流そのものであった。

 小賢しや、人の子どもめ。

 その憤怒の魂は、徐々に膨らみ始め、ベルハルトの魂を追い返し、塗り潰そうとしていた。

 ベルハルトは舌打ちし、竜の目に映る武装した人々を一瞥した。

 馬鹿者どもが! あと一息だったというのに! 無念だ、姉上……。

 ベルハルトの魂は支え切れず、ついに竜の怒りによって覆い隠されてしまった。

 意思と魂の居場所をせしめた邪竜が、憤怒の咆哮を上げた。


 

 漆黒の竜の咆哮に、遠巻きにしていた人々は度肝を抜かれ、居並ぶ戦士達は耳を塞いでいた。

 竜の長い首がこちらを見下ろした。緑のような黄色の両眼が、オザードを真っ直ぐ睨みつけるや、竜は進撃した。

 竜の腕が、太い尾が左右の建物を薙ぎ倒し、崩落させる。

 臨時に募った戦士団だが、どうやら厳つい顔面とは裏腹に、性根が臆病な者達の集まりだったようだ。部下達は茫然自失としながらも、ジリジリ後ずさりしている。

 オザード自身は、腕に覚えがあるが、人一人ではとても竜に敵わないことを最初から悟っていた。人間は小さい。大きなものに立ち向かうには徒党を組むしかないのだ。それに、オザードは何としても竜殺しの名声が欲しかった。北の山脈を跋扈する翼竜などではなく、本物の竜を倒し、人々に一目置かれたかったのだ。

「お前ら、ビビってんじゃねぇ! 竜の奴は所詮一匹なんだ。左右からでも、後ろからでも包囲して、切り付けてやりゃ良い! お前らは欲しくねェのか、竜の皮は高く売れる! いや、目玉も胃袋も何もかも高く売れやがるんだ! こいつを倒せば、お前ら、大金持ちだぞ!」

 オザード戦士団は団長の叱咤に平静を取り戻した。彼らは飛び道具を捨て、足元に置いてあった長槍に持ち替えた。それは竜討伐のために用意した、三人組で操る大きなものであった。

 よし、それで良い。後は、この俺が勇気を見せれば、連中も闘志を取り戻す。

 オザードは黒塗りの大剣を構え、竜を睨み返して、突っ込んで行った。

 竜が長い首を引き、息を大きく吸い込んだ。息が来る。グスコムで集めた情報だと、緑色の麻痺毒を含んだ息だ。

 そして竜は顔を突き出し、息を吐き出した。

 緑色のガスが突風の如く噴き出し、放射状に広がった。オザードはあらかじめそれを片側に寄って避けた。

 彼の後ろを、また竜のもう片側を、彼の募った戦士団が、長槍を抱えて通り過ぎて行く。

「今だ、突け!」

 オザードは大音声で下知を飛ばした。

 竜の左右と、背後に回った長槍部隊が、一斉に太く鋭い切っ先を繰り出した。

 だが、槍先は黒い強固な鱗によって阻まれていた。

 オザードは目を瞠った。竜の皮がいくら硬いとはいえ、男三人がかりの長槍がビクともしないとは思わなかった。

 このままじゃあ、反撃を食らい、無駄死にする。オザードはすぐさま指示を飛ばした。

「離れろ!」

 だが、竜の方が素早かった。

 太い尻尾が旋回し、後ろと、向こう側を囲んでいた者達を激しく打ち付けた。

 その身体は風に舞う衣類のように空高々と打ち上げられ、鈍い音ともに地面に落ち、あるいは建物に激突した。

 早くも戦士団は十二名もの命が失われてしまった。

「オザード、こいつは無理だ! 勝てっこねぇ!」

 彼の隣で一人が言った。オザードも愕然としていたが、彼は頭を振り、そして大剣を鞘に納めると、傍の三人組から槍を奪って構えた。

 だったら、昔から名を上げている竜殺しはどうやってそいつらを討ち倒したんだ。弱点があるはずだ。そう、どこか柔らかくて脆い部分が、蟹味噌みてぇなのが、目玉や口の中みてぇなのが。

 オザードは竜を観察した。

 強固な黒い鱗は背と腹の分かれ目で、形状が異なっていた。いや、背中と同じ黒い色で騙されていたが、腹部だけは鱗が無かった。

「見つけたぞ、弱点を!」

 オザードは腰だめに槍を構え、竜に突進した。

 黒い竜はこちらを向いた。

 好機だ。オザードは魂の叫びと共に槍を繰り出した。

 硬い手応えがあった。しかし、彼が見る前で、槍先は半ばまで皮膚を貫いていた。

 よし、ここだ!

 左右から振り下ろされる暴風のような太い腕を避け、オザードは槍から離れた。

「どうだ、効いたぞ!」

 彼が部下達を振り返ると、そこには長槍だけが打ち捨てられていた。

「腰ぬけ腑抜けの役立たずどもが!」

 遠くに駆け去って行く複数の背を見ながらオザードは舌打ちした。

 彼は新たな長槍を拾い上げ、ただ一人で竜と対峙した。

 しかし、一人では巨体を撹乱することもできず、逆に迫る腕と、巨大な顎に翻弄され、建物を背に追い詰められていた。

 彼は槍を突き出した。それは竜の腹部に僅かばかり傷を付けたが、片腕によって撥ね退けられた。

 オザードはついに死を覚悟し、黒塗りの大剣を抜いた。

 その時、竜の横面に炎の塊が衝突した。

 彼が驚いて見ると、そこには魔術師の出で立ちをした男と、眼前の竜の如く、黒で染めた甲冑に全身を固めた戦士がいた。

 オザードは、戦士の手にしている太刀の大きさに驚いた。まさしく怪物が、トロルか、ミノタウロス、いや、サイクロプスでも使うような代物である。

 あんなものを振るえるってのか。

 こちらが驚いていると、竜は戦士と向き合い、戦士は猛然と竜に斬りかかって行った。

 戦士の突き出す太刀を、竜は、右腕で弾き返し、左腕を伸ばして掴もうとした。

 戦士は伸びてきた腕を打ち払った。そして素早く懐に飛び込み、太刀を突き出した。

 それは腹部に突き刺さったが、致命傷を負わせるまでには至らなかったようだ。

 戦士は退いた。そして太刀を捨て、背負っている棺のようなものを地面に下ろし、その蓋を開けた。

 鏡のように陽光を反射する箱の中から、黒い炎が塊の如く燃え上がる剣を取り出した。

 そして戦士は再び邪竜に斬り掛かって行った。

 


 三



 ギラ・キュロスを握り締めた瞬間、彼の内側の闇が強烈に吸い出されてゆくのを感じた。

 勝負は一度きりか、それぐらいだろう。

 クレシェイドは、覚悟を決め、聳え立つ竜の懐へ飛び込んで行った。

 左右から両腕が迫るが、それを避け、脚に剣を突き立てようとしたが、横薙ぎに尻尾が襲い、勢いを削がれた。

 尚も握っている間に、己の力は剣に奪われて行く。

 ヴァルクライムが魔術の稲妻を竜の顔に撃ち込んだ。

 しかし、竜は怯まず、突進してきた。

 その動作は素早く、間はあっと言う間に巨体に詰められ、クレシェイドは危ういところで横に跳び、身をかわしていた。

 竜は建物を身体で粉砕し、こちらを振り返った。

 意識が薄れて行く。鎧の内側の闇の精霊達が力を吸い取られ悲鳴を上げ始めている。ギラ・キュロスを握り締めるにはそろそろ限界であった。

 もう後が無い。突っ込むしか道は無い。

 竜が大きく息を吸い込んだ。

 途端にクレシェイドの身体は魔術の橙色の光りによって包まれた。

「息が来るぞ! だが突撃せよ、友よ! 我が魔術が必ずお前を護り抜く!」

「承知だ、ヴァルクライム!」

 魔術師の声に応じ、クレシェイドは竜へ向かって駆け出した。

 竜が顔を突き出し、口を大きく開いた。

 緑色のガスが眼前を染めるが、クレシェイドは構わずその中を駆け抜け、そして竜の顔の大きな影を見つけるや、そのまま渾身の剣を突き出した。

 彼の鎧の内側で、崩壊寸前の闇の精霊達が咆哮を上げた。

 切っ先は深々と、竜の右目を貫いていた。彼はそのまま力を加え続けた。

 勝負はこの一刀だ。決して放しはしない。

 黄色の右目が拉げ、赤い血が流れ出してくる。

 貪欲なギラ・キュロスが竜の闇を奪い去り、勢いを増すのを、彼は柄越しに感じた。

 そして竜の身体が一回り萎む様に小さくなるのを確かに見た。

 だが、竜は激しく身動ぎした。クレシェイドは宙釣りになったが、ギラ・キュロスから手を放さなかった。そのまま竜は首を振るい続け、絶叫した。

 クレシェイドの内側で、剣に力を吸い取られた闇の精霊達が、弾け飛んでゆく。それに連れ、力が失われ、彼は半ば意識を失いつつあった。

 その時、彼の身体に光を帯びた魔術の縄が絡み付いた。途端に魔術の縄は闇の色へと染まり、クレシェイドの鎧の内側に力を満たし始めた。振り返らずともわかる、状況を悟ったヴァルクライムが助け船を出したのだ。

 しかし、ギラ・キュロスは竜から闇の力を奪い去る一方、クレシェイドの鎧の内側からも吸収している。

 竜が再び、一まわり小さくなった。

 こうなれば根競べだ。それは闇の法力を送り続けているヴァルクライムも承知している事だろう。クレシェイドは決して剣を放すまいと強く握りしめた。

 竜は振り解こうと躍起になっていたが、やがてその身体も、更に一回り、二回り小さくなると、ついに地面に倒れた。



 四



 石畳に亀裂が走っている。その中央に竜が横たわっていた。

 随分小さく萎んだその身体が、ふと、明滅し始めた。

 クレシェイドは力の消耗のあまり、たまらず妖剣を取り落としながらも、魔術師と並んで下がりながら様子を見守っていた。

 竜の身体から蒸気が湧き立ち、視界を白く染める。クレシェイドはミノスの大太刀を握りつつ、油断せずに霧が開けるのを待った。

 そうして、視界が晴れた先に現れたものを見て、二人は驚愕した。

 そこには、男が一人横たわっていた。金色の長い髪をした若い男で、純白の神官の衣装を身に纏っていた。

「どういうことだ?」

 クレシェイドは、眩暈に耐えつつ尋ねた。

「この男が、デルザンドを蘇らせたと見て間違いは無いだろうな」

 ヴァルクライムは屈み込み、男の息があるかどうか確認すると頷いた。

「生きている。かなり弱っているがな」

「どうする気だ? 邪竜を操った容疑でエルド殿に突き出しでもするのか?」

「竜を討った証拠が無い以上は、そうするべきかもしれん。だが、いずれにせよ、お前さん共々衰弱が激しい。何処かへ運び込もう」

 


 五



 今の今まで見ていた世界は、はたして白かったか、黒かったか、それは忘れてしまったが、今、彼は閉じた瞼の向こうに眩しさを感じ取っていた。

 ベルハルトは目を覚ました。

 木の天井が見え、彼はぼんやりしながら、それを眺めた後、脳裏に竜のことが過った。

 そして思い出した。人間どもを絶滅させるという悪しき竜との盟約を破り、その身体の乗っ取り合いに敗北した事をだ。

 彼は右手を近付けて、それが人の形をしている己の腕であることを確信した。

 つまりは、今は竜の姿ではなく、自身の姿を取り戻しているということだ。

 ベルハルトは身を起こした。

 身体は鈍っていたが、それでも不思議な身軽さを感じ取っていた。そうして、心の声に耳を澄ませたが、身体を共有していたはずの邪竜デルザンドの声は響いてこなかった。

 この身体の軽さは、デルザンドが消え去ったものだろうと彼は確信した。

 しかしと、彼は訝った。誰がデルザンドのみを器用に消し去ったのだろうか。

 彼が目を向けると、そこには窓があった。

 下の道を人々が平和に行き交っている。そうして窓の隅に、こちらを見て椅子に座っている、魔術師の出で立ちをした男の姿が映っているのを見たのであった。

「目覚められたか」

 その男はそう言った。

「何者だ?」

 ベルハルトが尋ねると、相手は答えた。

「私はヴァル・クライム。魔術師だ」

「ヴァル・クライム?」

 ベルハルトは茫然としながら相手の名を呟いた。そして質素な部屋中を軽く一望し、自分がどこかに運び込まれて、介抱を受けていた事を悟った。無論、この魔術師が救ってくれたのだろう。

 だが、ベルハルトは相手の様子を窺った。この男は、邪なる者なのだろうか。それとも、あの真紅の屍術師マゾルクの手の者なのだろうか。

 もしもそうならば、手切れを宣言するつもりでいた。もはや、この世界の人々に復讐する事に虚しさを感じていたからだ。それに姉もその選択を喜んでくれるはずだ。

「何か食べるか飲むかするか?」

 魔術師が尋ねてきた。

「お前は誰かの差し金か?」

 ベルハルトは相手の問いに応じず語気を鋭くして問い質した。

「私はただの魔術師だ。魔術師にして冒険者だ。大した男ではない」

 狼のように厳めしい面だが、魔術師は柔らかい口調でそう言った。

 相手の様子を窺いつつ、嘘ではなさそうだと彼は判断した。

「私を介抱してくれた事には感謝する。私はベルハルト・ロッソだ」

 礼を述べると、相手は頷いた。

「既に承知している」

 相手の意外な答えに、ベルハルトは度肝を抜かれ、ベッドから跳ね起き、魔術師を見据えた。

「私の名を知っているだと? やはり貴様は何者かの手先か!?」

 声を荒げて尋ねたが、魔術師は朗らかに笑うと言った。

「確かに、我が風貌は怪しい者に見えるだろうが、安心しろ。ここにお前さんに危害を加える者はいない」

「質問に答えろ、何故、我が名を知っているのだ!?」

 魔術師は頷いた。

「それは、お前さんの姉上が身元を証明したからだ。だから私や仲間も、お前さんがベルハルト・ロッソという人間……いや、ラザと同じ人に造られた存在だということがわかったのだ」

 ベルハルトは目を瞠った。この男は、自分がホムンクルスである事を見抜いている。それに姉が身元を証明したとも言った。

 こちらが何から問い質すべきか思案していると、魔術師ヴァル・クライムは言った。

「お互い、知りたい事があるだろうが、今はまず、対面を果たそう」

 魔術師が意味ありげにニヤリとすると、その隣にある扉のノブが回った。

 そして扉が開かれ、新たな人間が姿を現した。

 小僧と、見覚えのある青い髪の小娘と、彼らの両肩に愛しげに手を置く長身の女性は、見間違うはずの無い姉の姿であった。

「ベル!」

 姉はこちらの名を驚愕したように呼んだ。

 ベルハルトも応じようとしたが、目を伏せるしかなかった。自分は罪深い男だ。かつての時代に、姉にした惨い仕打ちと、邪竜とともに多くの人々を殺戮した事を思い出していた。

 そうして後悔に心が震えた。

 だが、ラザは歩んでくると、その身体を抱きしめてくれた。それはずっと求めていた姉の温もりであった。思わず彼の目から涙が溢れた。そして自分の罪を振り返り、全てを懺悔した。

「良い、ベル。私の事はすべて許す」

 姉はそう言うと、身体を放し、両手をこちらの左右の肩に置いて、涙に濡れる双眸を真剣なものにして言った。

「だが、無関係の人々を殺戮した事を忘れてはいけない。今後は、罪を償うために生きてゆかねばならない」

「その通りです、姉上」

 ベルハルトは強く頷いた。

「私もお前の罪を被る。だから二人で償いながら生きて行こう」

「いや、姉上まで罪を引き受ける必要はない。これは私の罪です」

 ベルハルトは頑としてそう言い、魔術師を振り返った。

「私を然るべき場所に引き渡してくれ。それで罪は償える」

 だが、ヴァル・クライムは首を横に振った。

「そうしてしまえば、お前さんは間違いなく死罪だ」

「それだけのことをしたのだ、甘んじて受けよう」

 ベルハルトが頑として言うと、魔術師は言った。

「ヴァルクライムさん!」

 今まで状況を見守っていた青い髪の神官の少女が、助けを求めるように魔術師を見た。

 魔術師は頷き言った。

「一つ、不思議に思っていた事がある。先のこのスーファの町を邪竜が襲った際、その被害は、以前のグスコムに比べれば死者こそ出たが、それでも比較すればとても軽微だったという。グスコムでの際は、竜は人間と言う人間を食らったと聞く。だが、その貪欲な竜が今回は一人も食らわなかったそうだ。それは、もしかすれば、お前さんが、何かしたのではないのかな?」

 ベルハルトはゆっくり頷き言った。

「これ以上、罪を重ねたくなかったのだ。だから竜に抗った。しかし、上手くはいかなかった」

「つまりは、お前さんは、竜の前には力不足だったわけだ。ならば、先の殺戮などは、竜が空腹を満たすために、その意思で行ったに過ぎない。お前さんにはどうしようもできなかったのだ」

 ベルハルトは頭を振った。

「いや、そうだとしても、その様な竜を呼び起こしたのは私なのだ」

「そうだな。だが、しかし、お前さんの罪はそこまでだった。あとは竜が勝手にやったにすぎない。お前さんの手は、死罪になるほど穢れては無いということだ」

「いや、だが、間接的には私がやったも同然だ」

 ベルハルトが尚も訴えると、魔術師はついに頷いた。

「そうだな。私がこれ以上、お前さんの正当性を主張したところで、結局どれもが甘く信憑性にも欠ける。それに、生真面目なその意思をむしろ尊重してやるのが、お前さんのために良い事なのかもしれん」

 ベルハルトは頷き返した。

 少年と少女が驚愕の声を上げ、魔術師に何とかする様に食い下がったが、魔術師は首を振るばかりであった。

「これで良いのだ」

 ベルハルトがいうと、少年と少女は顔を見合わせ落胆していた。

 こんな私のために、肩を落としてくれるのか。そう思うと、改めて無関係の人々をデルザンドとともに殺戮したことが悔いられた。どんな時代にも善と悪はあるのだ。全てを悪と決め付けた己は本当に愚かだった。

「私が憲兵を呼んで来よう」

 魔術師が言った。

「頼む」

 ベルハルトは応じた。

 不安げに見る少年少女の視線を受けて、魔術師は外に出て行った。



 六



 薄暗い独房の中にベルハルトは座り込んでいた。

 彼は現れた憲兵達によって詰め所に連行されたのだ。竜を呼び、共に殺戮と破壊に及んだことが、罪状であったが、彼が主張するのに対し、憲兵達は半信半疑であり、物狂いでも相手にしているかのような態度で応じていた。

 彼が引き立てられる前に、ライラ、いやラザは涙を流しながら抱き締めてくれた。

「姉上、僅かの間でしたがお世話になりました」

「お前がそう決めたのなら仕方がない。どうにもできない、この私を許してくれ」

 そうしてラザは声を上げてワッと泣いた。

 ベルハルトはふと思い出し、口元を緩やかに綻ばせた。

 これで良いのだ。罪を償うために私は死のう。

 彼は強くそう思った。

 独房は詰め所の地下にあり、外の様子は窺い知れなかった。しかし、そろそろ真夜中だろうと彼は思った。

 ふと、階段を下り、こちらへ向かってくる来る足音が聴こえてきた。

 夜中の内に、どこか詳しい取り調べのできることまで移送されるのだろうか。ベルハルトはそう思っていた。

 目の前の廊下に、橙色の灯の帯と、長くなった人影が映った。

 彼が覚悟して待っていると、そこに現れたのは、魔術師ヴァル・クライムであった。

「どうして、いや、どうやってここに?」

 ベルハルトは驚いてそう尋ねた。

「階上の警備兵達には眠って頂いた」

「なぜそんなことを? 私に何か用でもあるのか?」

 魔術師は頷くと、牢屋の錠前に鍵を差し込んでいた。

 ベルハルトが戸惑っていると、鎖が外れ、そして鉄格子の扉が開かれた。

「私に更に罪を重ねろと言うのか?」

「確かに脱獄は罪だな」

 そして魔術師は話し始めた。

「被害が被害だからな。お前さんは、おそらく中央の法廷に連れて行かれ、詳しい取り調べを受けるだろう。だが、きっと、邪竜を復活させた手掛かりを見つけることはできないはずだ。しかし、それでもお前さんはその咎で裁かれるだろう。中央の連中は手柄に飢えている。ましてや、邪竜を復活させ、殺戮を齎した大罪人を裁いたとあらば、この緩やかな平和の世に、一つの偉大なる功名を刻む事ができるだろう」

「何が言いたいのだ?」

 ベルハルトは解りかねて尋ねた。

「つまりは、お前さんの罪状は無罪放免だ。立証できぬのだからな。しかし、腐敗した中央の人間の邪な功名心で死罪となるのだ」

「なっ……」

 そうしてベルハルトは宿の一室で己が脳裏を過った言葉を思い出した。どんな時代にも善と悪はあるのだ。

「すまんな、ベルハルト殿。この時代には、あなたが生まれ育った時代のような戦は無い。しかし、だからこそ手柄に焦る者どもは、虚言妄言をでっち上げ見境なくその命を容易く裁いているのだ。そのようなことが横行しているのが、今の時代なのだ」

 そうして魔術師は道を開けて言った。

「だからこそ、行かれるが良い。ここに居ては無駄死にするだけだ。もはや、あなたには生きながら罪を償うすべしか残っておらぬぞ」

 魔術師は衣類と食料と路銀の詰まった皮袋、鞘に収まったベルハルトの剣を差し出した。

「し、しかし……」

 ベルハルトは差し出された物を見つつ、決心できずにいた。

「行くのだ、ベルハルト殿。世界中のあなたの助けを待っている者達のもとへ。そして、いつか、ほとぼりが冷めた頃、再びラザに顔を見せてやってくれ」

「私の助けを待っている人々……」

 ベルハルトはかつての戦争の時の難民達のことを思い出していた。

「そのような人々が、この時代に本当にいるのだろうか」

「いるさ、必ず。それを見つけるのもあなたの新たな人生の使命ではないだろうか」

 魔術師が言い、ベルハルトは強く思案した後、頷いた。

 彼の心は新たな希望に躍り上がっていた。

「ヴァル・クライム殿、忝い」

 彼は頭を下げ衣類を受け取った。そして目立つ神官装束から用意された旅人の衣装へ着替え、袋を背負うと最後に帯に剣を差した。

「姉上のこと、頼みます」

 彼は薄暗い廊下を駆け抜けて行った。



 ヴァルクライムが部屋に帰ると、レイチェルとサンダーが慌てて駆け寄って来た。

「ヴァルクライムさん!」

「おっちゃん、どうだったの?」

 サンダーが尋ね、レイチェルも魔術師を見上げていた。

 ヴァルクライムは頷いた。

「彼は、無事行った」

 少年と少女はみるみるうちに笑顔になり、互いに頷き合い、一斉にヴァルクライムに抱き着いた。

 ヴァルクライムは彼らを労わるように撫でつつ、窓の方を見た。

 そこではライラが涙に濡れた顔を微笑みに輝かせ、こちらを見ていた。

「ヴァルクライム、すまない、ありがとう」

 サンダーと、レイチェルはライラの方に駆けて行った。

「よかったね、ライラ姉ちゃん」

 サンダーが言うと、ライラは二人を思い切り抱き寄せて二人の胸の中で泣いたのだった。

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