第5.5話 断章1 「闇の戦士」

 夜の街道に幾つもの馬蹄が木霊していた。

 クレシェイドの隣には、ドワーフのアディー・バルトンが並走し、その後をアーチボルトを始めとするペトリアの警備隊が続いている。彼らが村を出立して間も無くすると、幾つかの大きな影が行く手に立ち塞がっていた。

 月明かりがその背を照らし出す前に、一行は迎撃態勢に移っていた。

 クレシェイドは己の長剣を振り上げ、更に馬の速度を上げた。村の自警団員達が思ったよりも勇ましかったとしても、トロルの強固な皮膚を貫くには相応の技量が必要だ。そして見通しの悪い夜の戦場でもある。彼らの目が慣れるまでは、不利を強いられるだろう。

 この呪われた身体は、闇の魔力によって制御されている。いや、本来肉体にあるべき全ての感覚が、鎧の中を渦巻く強力な闇の力の中に融け出ているのだ。中でも夜という環境は陽と相反するためか、闇の魔力や精霊達を一際活性化させるようである。今、クレシェイドの目にはトロルの姿がはっきりと見えていた。滑らかな青っぽい灰色の肌と、岩のような丸い頭、そこにある大きく見開かれた2つの眦も、何もかも鮮明に見えるのだ。まさしく、この身体は夜に祝福されていると言っても過言ではない。

「クレシェイド、お主は飛ばしておるようじゃが、敵の姿が見えているのか?」

 ドワーフのアディー・バルトンが気遣うように尋ねてきた。

「しっかりと見えている。まずは俺が一太刀入れに行く。他の皆は、協力して止めを刺してくれ」

「相分かった。お主の腕前を信用しよう」

 前方には一匹のトロルが進み出てきていた。まるで、蟻でも見るかのような呆けた表情を見せている。

 先手必勝だ。敵の虚を衝き、同時にこちらの戦意を高揚させる。

 その最初の戦場の生贄との距離がグングン縮んで行く。

 トロルの手には大きな棍棒が握られていた。敵はそれでこちらを叩き潰そうと考えているようだ。

 クレシェイドは巨体との距離を測ると、棍棒が届く辺りで馬の方向を脇へ回り込ませるように仕向けた。

 トロルは慌ててこちらを目で追う。

 クレシェイドはその脛に剣を振るい、駆け抜けた。

 頑強な手応えだったが、長剣は一瞬の燻りの後に深々と肉へと滑り込んでいた。

 背後で怪物の野太い絶叫が上がる。しかし、クレシェイドの目には新たなトロル達の姿が映っていた。

「それっ! 皆の衆、止めをさすのじゃ!」

 アディー・バルトンの声が木霊した。

 二匹のトロルが揃って歩み出てくる。

 仲間の声に感化されたのか、間抜けな眼は本来の凶暴な野性味を帯びていた。

 奴らが土煙を上げ、軽く地鳴りを響かせ迫ってくる。一匹は両手を広げ、こちらを捕まえ、握り潰したい旨を見せている。

 巨木の幹のような腕がすぐ隣を掠めた。クレシェイドは避けるが早いか、その腕を一刀の下に打ち落とす。そして敵の背後へ回り込みながら、もう一匹の腿を突き刺し、再び正面に戻った。

 アディー・バルトンと、アーチボルトの他に四人の警備兵が合流した。

 警備兵達はすぐさま深手を負ったトロルへと殺到していった。

「あのトロルの皮膚を容易く断つとは」

 アーチボルトがこちらを見て心底感心するように言った。

「まだまだトロルは居たはずじゃ。急ぎ、退治に向かおうぞ」

 アディー・バルトンが言い、クレシェイドは再び先へと馬を駆けさせた。

 しかし、その後ろで驚きの声が上がった。

 振り返ると、トロルの集団が街道脇から現れているところであった。何らかの意図があるかは定かではないが、奴らは自ら森を進んで、背後を断ってみせたようだ。

「指揮する頭目でも居る様な動きじゃな」

 アディー・バルトンが訝しげに言った。

 トロルは四匹いたが、その後ろに一際大きな身体が君臨した。

 背丈も幅も並みのトロルの倍はある。そいつは醜い面の上に不釣合いなほど煌びやかで見事な王冠を戴き、身体には木の皮や草の蔓で編んだと思われる鎧を纏っていた。

「やはり居ったか」

 アディー・バルトンは溜息を吐くように言ったが、声音には緊張の色が見えていた。

「何だかデカイのが来たが、あれがボスかい?」

 アーチボルトが尋ねた。丸顔は汗で塗れ蒼白であった。

「トロルの群れを率いる長、トロルの王じゃよ」

「ん? だったらその王様を倒せば、他の奴らも逃げていくんじゃ?」

 アーチボルトの問いに、アディー・バルトンは頷いて答えた。

「うむ、道理ではそうなるじゃろ。しかし、粗暴で短絡的なトロルどもが、互いに手を取り合い始めたとすれば、はたしてお前さん、どう思うね?」

「そりゃあ、不気味だな」

 アーチボルトは軽く思案して述べた。

「そうとも。方々、くれぐれもその不気味さに圧倒されてはいかんぞ。今だけでも、トロルが愚純な生物の代表格だということを忘れよ。指揮する王の出現により、奴らは賢く、そして俊敏になったと、どうか心得よ」

 老ドワーフは一同に忠告し、クレシェイドに横目を向けて言った。

「本来ならば挟み撃ちに遭っていた。と、いうところかの? 先に現れた者どもを容易く倒せたのは救いじゃった」

 そして老ドワーフは正面を見ると、突如その表情を驚愕へと変えていた。

 トロルどものずっと背後で、赤い光りが広がっているのが見えた。まず炎にちがいないだろうが、この辺りからでも見えるということは、ただの焚き火などではない。

 村が燃えているのではないだろうか。

 レイチェル達の姿が脳裏を過ぎるとともに、トロルどもの狙いはこれではないかとクレシェイドは合点した。

 もっとも、トロルが自ら火を放ったとも思えない。つまりは明らかに人のような賢しさを持つ存在に仕向けられているということになる。こいつらは、時間稼ぎというわけだ。

 仲間達の安否が殊更気になっていた。今すぐ邪魔なトロルを避けて村へ駆け付けたい気持ちであった。しかし、それは自分の後ろにいる者達も同様の気持ちであろう。

 背後が騒がしくなる。警備兵達も異変に気付いたのだ。

「いかん! 動揺してはならぬ!」

 アディー・バルトンの叱咤が飛ぶが、重たい突風のような野太い咆哮がそれを一瞬にして打ち消してしまった。

 不意に、身体によろめきを感じた。そしてクレシェイドはすぐさま鞍から飛び降りた。彼の乗っていた馬も、全ての馬達が不安定な足取りを見せた後、地面に横倒しになっていた。

 アディー・バルトンはクレシェイド同様に馬上から脱出できたが、他の警備兵達は馬とともに地面に転げ落ちていた。そしてどうやら二人が意識を失っているようであった。

 無理もない。自分とて、仮に肉体であれば彼らと同じ目に陥っていたかもしれない。言ってみればあの叫びは、鋼の槌のようなもので、それで胸を打たれたようなものだ。

 だが、状況はとても不味い。

 トロルの王が両手に握った二対の棍棒を掲げている。

 王を抜きにしても、同時に四匹のトロルを相手にしなければならない。気絶した警備兵を庇う為にも、なるべく前に出なければならなかった。

「俺が引き付ける間に、他の奴らの気付けを頼む」

 アディー・バルトンは神官だ。神聖魔術でなら治癒することができるだろう。

「わかった」

 老ドワーフが後ろで応じる。クレシェイドが歩み出すと、彼の詠唱が聞こえ始めた。

 王が唸る様な声で命じると、ちょうど地鳴りが響いた。トロル達は一斉にこちら目掛けて突っ込んできていた。

 アーチボルトを含めた無事な警備兵達も、各々得物を身構えている。緊張の面持ちを浮かべているが、固い決意の表れを同時に感じさせた。

 だが、例えば転がる岩石を真っ向から迎え撃ったところで、切っ先諸共粉砕されるのが目に見えている。

「森へ散るんだ! そして隙を衝いてやれ!」

 クレシェイドは一瞥を向けることなく警備兵達へ訴えた。トロル達は肉薄している。既に奴らを見上げねばならぬほどであり、間もなく先頭の棍棒がこちらへと振り下ろされようとしていた。

 空気を唸らせる一撃は、触れてもいないのに纏っている甲冑を激しく揺さ振り続けた。

 棍棒は巨木そのものを荒っぽく仕上げたものであった。今、それは地面を穿ち、その中に突き刺さっていた。

 だが、この反撃の機会を与えずに片端から二匹目が突っ込んできて、頑強な腕で薙いできた。

 クレシェイドは避けながら感じた。今までの攻撃は避けたのではなく、わざと外したのではないのだろうか。

 そして振り向いた瞬間、目にしたのは、三匹目の放つ得物が頭上からこちらへ振り下ろされている光景であった。

「いかん!」

 アディー・バルトンの絶望的な声が後方から聞こえてきた。

 それは愚純そうな脳と巨体からは、想像すらできないことであった。トロルどもの陽動と時間差攻撃はあまりにも絶妙過ぎていた。

 クレシェイドは、相手にしてみれば当たれば儲けものであり、こちらにしてみれば致命傷となる一撃を避けねばならなかった。

 そして身を飛び退かせた瞬間、居並んだ三匹のトロルの背を駆け上がり、月夜の下に四肢を広げた四匹目のトロルの姿があった。

 数百年という放浪生活の中でも、これほど舌を巻く事態を目にしたのは久しぶりのことであった。

 これが本命の一撃だ。避けられるか!?

 彼の意思に呼応するように甲冑の下で闇の魔力が血流の如く大きく脈打った。

 そして長らく苦楽を共にし、あらゆる面で彼を生かし続けてきた「城壁の剣」と名付けられた長剣を、両手で握り締め、本能や感覚が告げるままに大きく振り翳した。

 重い手応えすら感じず、二つになった巨体が落石のように地面にぶち当たる音と、左右の傷口から大量の臓物が飛散する生々しい音だけが聞こえた。

 唯一妙に感じたのは、腕と脚とが鋼そのものになったように力が集結し、今は氷が解けるように緩やかに失せ始めていることだけである。肉体の筋肉の収縮に似ているが、それは身体中を包む闇の魔力に間違いなかった。

 初めての感覚であった。そして、ただ悪戯に歳月を過ごしてきたことをも自覚させた。

 マゾルクとの戦いの際、もしもこの力に気付けていれば、あるいは……。

 石になったハーフエルフの少女の姿が思い出された。そして、マゾルクの姿もだ。血のように真っ赤な導師服を身に纏い、顔には貴族の舞踏会にでも出るような白い仮面をつけていた。その一見惚けたような姿に滑稽さは皆無であり、ただ得体の知れない不気味さを漂わすのみであった。

 奴は甲高い声でこちらを嘲笑うと、片腕を掲げた。その瞬間、村の方々で斃れていた亡骸達がゆっくりと手をつき、立ち上がったのだ。

 彼らは一瞬前までは生きていた。いつもと同じ日常を過ごしていたのだ。しかし、道化のような赤い来訪者の出現で、人々は老若男女の区別無く、斃れていった。苦しむ様子もなかった。

 クレシェイドの身体も同じであった。肉体の内側から意識と魂とを無理やり引き離されようとするとても抗い難い感覚に襲われていた。

 だが、懸命に踏み止まっていた。そして死に蝕まれながらも、不意に訪れた殺戮者の様子をその目にしっかり焼き付けようとしていた。こいつがやったことはただの快楽だ。その己の欲望を満たすがための殺戮に違いない。

 憎悪と怒り、そして不甲斐なさの念に駆られながらも、クレシェイドは尚も生きていた。そして一矢報いようとそのために全身に自分の意思の宿った感覚を張り巡らせようと決死の思いで努めた。

 そして見知った亡骸達が続々と集まる中、ついに己の身体を縛るような見えない糸を切ることに成功した。

 自由になった瞬間には、足元の剣を拾い上げ、復讐の一太刀を浴びせるべく、殺戮の屍術師に躍り掛かった。

 しかし、急速に身体の力が失せ、再び地面に倒れてしまった。目を向ければ、両手は血の気を失い土気色に成り果てていた。

「これほど驚いたことはないですね。手駒にするのは容易いですが、このような機会は更に五百年過ごそうとも、決して巡ってくる事は無いでしょう。あなたは狂犬になるのです。そして私を脅かし続けることこそを唯一の使命とするのです。願わくば、その身に宿る憎悪の炎が、私を討つまでに消滅せんことを」

 視界は薄れ、耳もまた音を捉えようとしなかった。しかし、屍術師の声は頭の中に直接響いてきていた。

「その身体では早々に朽ち果ててしまうのが宿命です。それに私を追う意義も、その憎悪だけでは正直心許無くも思います」

「あなたは狂犬になるのです。しかし、そうなるための時間が少ないことは言うまでもありません。あなたの傍らにある鎧を置いておきましょう。太古の昔、あなたと同じような運命の者が身に着けていた鎧です。惜しむらくは、その者が掴み取ったのは、御覧の通り完全な勝利ではありませんでしたが……。その鎧を纏うために、今一度、荒ぶる炎のような意思を見せて貰いたいものですね。……が、どうやら幸先が良く、誰かがやってきたみたいです」

 その後、彼女が兜を被せてくれ、遠くなり始めた目も耳も利くようになった。

「誰かがね、被せてあげなさいって、言ったんだよ」

 口が利ける様になった瞬間発した「何故?」という自分の問いに、ハーフエルフの少女、リルフィスは戸惑う様子も無くそう答えた――。

 三匹のトロルが我を疑うようにこちらを凝視していた。

「今だ、かかれっ!」

 警備兵の一人が声を上げ、彼らは木々の間からトロル目掛けて殺到していった。

 その叫びの主を探し出そうと、トロルは頭を右往左往させたが、その脚や脇腹に早くも刃が突き立てられ、おぞましい悲鳴を上げていた。しかし、トロル達が反撃に出る頃には警備兵達は速やかに森へと引き返し、怪物達は苛立ち途方に暮れる有様であった。

 だが、ずっと背後に控えるトロルの王が吼え声で彼らを一喝する。王の声には明確なトロル語が含まれていたのかは不明だが、三匹の手下は揃ってこちらに目を向けた。そして太い両手で掻くようにして、踏み込んできた。

 王は見える者から着実に潰せと言ったのかもしれない。

 クレシェイドは伸ばされた腕を剣で押し返し、すかさずもう一撃を叩き込んだ。トロルの腕から血が溢れ出し、半ば切断された腕が傷口からブラブラと垂れ下がっていた。天を仰ぎ、悲鳴を上げる一匹を押し退けて、左右から棍棒と太い足とが振り下ろされた。

 それらは凄まじい勢いで、地面を打ち鳴らした。

 そしてトロルの王が一吼えすると、二匹は腕と棍棒を振り降ろしながら、後退するクレシェイドを追い詰めようとする。奴らの腕は長く、目測を誤れば、絡み付く様な不意の一撃を受けてしまうだろう。かといって、二つの凶器を纏めて斬り払うことも難しい状況であった。

 このまま下がれば、後ろにいる負傷兵とアディー・バルトンのもとへ導いてしまう。

 攻勢に転じなければ。奴らの懐に飛び込んで、どうにか身体を突き刺さねばなるまい。

 決意を固めたときに、自分の脇に小柄な誰かが飛び込んできた。

「待たせて、すまんの」

 老ドワーフが言った。その手には短剣がそれぞれ握られている。彼はその短剣を各一匹ずつへと力いっぱい投げつけていた。

 短剣は弧を描きトロルの鼻面に当たった。

 トロル達が怯んだ。

「それ今じゃ!」

 言うが早いか老ドワーフは一匹の股下に飛び込み、脛に斧の刃を打ち込んでいた。クレシェイドもすぐさま続き、残る一匹の腿に剣の切っ先を深々と突き刺す。

 そして身体が前に傾いたところに、渾身の一撃を放った。

 その際に再び鎧の内側で、闇の魔力が奮い立つのを感じた。奇妙なことだが、それは骸となった己の腕に、僅かだが血の漲るような気配を思わせたのであった。

 胴の殆どを真っ二つに裂かれ、トロルは地面に崩れ落ちた。

 その亡骸へ目を向けながらも、クレシェイドは己の身体に起きた異変について考え込んでいた。

 今回体験したことは、言ってみれば、肉体に生気を感じたのである。

 しかし、それは剣を振るった一瞬の間であり、今は長らくそうであったように肉体の感覚は微塵も感じることはできなかった。そして、城壁の剣が、その名の通り、分厚く堅固な刃であったとしても、人の力では岩のような皮膚を持ったトロルの太い胴を、こうも真っ二つに分断することは難しいはずである。結果的に血の漲りのようなものは、自分の力を幾重にも強化したということにもなる。

 そしてクレシェイドは首を捻った。これを奇跡と呼ぶべきなのだろうが、永遠にも感じた放浪の月日の中で、その力にほんの僅かにでも気付くことはなかったのである。では、力が目覚めたきっかけは何だろうか。確かに窮地ではあったが、それよりも際どいことには何度も出会ってきたつもりだ。

 隣でトロルが斃れたのが目に入り、クレシェイドは考え事を振り払った。

 そうとも、今も村に火の手が上がっていることを思い出せ。

 視界のずっと先には真っ赤な光りが見えていた。

 だが、その前にはトロルの王が相も変わらず立ち塞がっている。子分こそ全滅したものの、この王はたった一人になろうとも、自分達を村へ立ち入らせる気は無いらしい。

 アディー・バルトンは、トロルの亡骸から斧を抜き取り、血を振り払っていた。

 警備兵達も手傷を負った一匹を仕留め終え、揃ってこちらへ駆け戻ってきている。

 村には住民の他、レイチェル達や、サグデンの令嬢もいる。そして警備兵達には家族がいることだろう。ここにいる誰もが、関係者であり、気の焦る一刻を争う事態に直面しているということだ。トロルの王に人手を割く余裕すら惜しい思いをしているはずだ。

 だが、俺ならば、新たな力を知った今の自分ならば、あの怪物と互角以上の戦いを出来るかもしれない。それにこの身体は疲れも知らない。

「俺が奴の相手をする。皆は村を頼む」

 クレシェイドが言うと、警備兵達は躊躇う様に、互いに目を向け合っていた。クレシェイドは老ドワーフへ目を向け、決断を促した。

「ではこうしよう。我らは村へ急行した後、状況が可能な限り、お主の仲間達を救援に向かわせる」

 相手はそう言い、クレシェイドはその提案に頷いた。

 アディー・バルトンは、警備兵達を振り返って言った。

「決まりじゃ警備兵の衆よ。森の中を行きながら、村を救いに戻ろうぞ」

 警備兵達は神妙な面持ちで応じる。そして老ドワーフと共に森の中へと駆けて行った。

 トロルの王は、彼らが入った辺りを目で追っていた。

「おい、トロルの王よ。お前の相手はここにいるぞ」

 クレシェイドが歩みながら言うと、相手は二つの棍棒を大地に打ち付け、苛立つような唸り声を上げた。

 トロルのくせに、こいつは俺を憎んでいる。クレシェイドはそう思った。部下の死を思っているのか、それとも誇りを傷つけられたのかは知らないが……。

 咆哮を一つ上げた後、一際大きな巨体が動き始めた。



 二



 トロルの王は、足を慣らすかのように進み出ると、こちらへ突っ込んできた。

 その巨躯は見る見るうちに夜空をも覆い隠し、双つの棍棒が唸りを上げ、それぞれ横薙ぎに襲い掛かってかかってきた。それはとても重いく危うい一撃であった。例え掠めただけでも、この鎧に亀裂を入れてしまうのではと、こちらに幾らかの危機感を抱かせた。

 亀裂が入れば、闇の魔力は漏れ出すだろう。その強烈な闇の力を浴びせ、敵を道連れにできるかもしれないが、自分にとって本当の死を意味することになる。

 大振りで隙のある攻撃であった。敵も筋肉質の身体の上に自ら拵えた鎧を纏っているが、それは厚い木の皮に太い蔓を巻いて重ねたものに過ぎず、貫くのは容易いことだろうと睨んだ。

 突進を避けると、相手は俊敏な動作で振り返るや、次の瞬間には巨大な棍棒が双つの落雷のように地を穿った。

 クレシェイドは気後れしたが、餌食になる寸前に飛び退くことができた。

 凶暴だが、同時に愚鈍だという概念を今ようやく捨て去れた気分であった。

 空気の重い唸りとともに、棍棒が目の前を横切っていった。

 森深き地に住まいし、怪物の王が一人よ。一体貴様は何に唆されたのだ? 燃える村と関係があるのか?

 嵐のような猛攻を凌ぎつつ、クレシェイドは怪物に対して半ば同情的にもなっていた。しかし、そんな心情を抱いていては間違いなく殺される相手でもある。

 こいつは俺を殺したら、平常どおり食らうつもりだぞ。もっとも冷え切った不味い肉に触れる前に、解放された闇の魔力によって再起不能になるだろうとは思うが。

 相手は冠の下からこちらを見下ろしていた。クレシェイドはその強面を睨みながらも、端々に視線を向け、攻勢に転じる瞬間を狙っていた。

 こちらが動くのを待つつもりならば、冒険者ギルドに出て、トロルの生態について見直すように申し出る必要があるだろう。いや、手下の連携を目の当たりにしただけでも訴え出るには十分だ。

 トロルの眼に濃い殺意の色が過ぎった。棍棒が大上段に振り上げられ、それはすぐさまこちらの脳天目掛けて迫ってきている。

 クレシェイドは懐に飛び込んだ。背後で大地が轟いた。全身にあの新しい感覚が雷光の如く走ると共に、彼の剣はトロルの向こう脛に深々と突き立っていた。

 そして、有らん限りの力を振り絞って、すぐさま引き抜いた。

 真っ赤なトロルの血が泥水の如く空中を舞った。

 トロルの絶叫が響いたが、怒り狂った相手の行動は予想以上に早かった。

 奴は二つの棍棒を落とすが早いか、豪腕を伸ばし、クレシェイドの剣の刃を握り締め、勢いよく持ち上げたのだ。

 トロルの怒りの宿った握り拳には、こちらの真の力すらも役には立たなかった。側面から鉄拳が繰り出されようとしていたので、クレシェイドは剣の柄から手を放すしかなかった。

 地に足をつけた瞬間、頭上を太い風が通り過ぎた。

 クレシェイドはゆっくり後退しながら、トロルと、今もその手の中にあるちっぽけな城壁の剣を見詰めていた。いや、次第に彼の目は空を右往左往する剣にだけ注目していた。

 人にしてみれば長剣だが、トロルが握ればまるでちっぽけな根菜に等しかった。それ故、彼の胸中はとても不安であった。もしもトロルが、その両手で剣を圧し折ってしまったら……何の変哲の無い剣だが、分厚い刃は見掛けよりも更に重く強固であった。打ったのは、久しく会っていない、ハーフエルフの鍛冶職人であった。無愛想で、人見知りの激しい男だ。柄元から折れた剣を差し出せば、平素から冷え切った双眼には、明らかな失望の色が覗くだろう。

 数奇な運命を持つ己を、古くから知るたった一人の友である。彼をがっかりさせてしまうことだけは耐えられなかった。

 しかし、トロルは両手で剣を握り、次の瞬間、鈍い音を立てて柄と刃とが二つに分かれてしまったのだった。折れた剣の破片が零れ落ちた。

「くそっ!」

 怪物の暴挙と、己に対する不甲斐なさとで、彼は思わず苛立ちの声を上げていた。

 そして素手で立ち向かうわけにもゆかず、悔しさを噛み締めながら脛に提げている短剣を抜き放った。

 こいつでどうしろと? 奴の指の一本すら切り離せないのではないか。

 鋭利ではあるが、薄っぺらい切っ先を見ながら胸の奥で舌打ちした。

 トロルの王は、冠の下にある目玉をギョロりと動かし、こちらを見下ろした。そして両手で握った剣の残骸を左右の森へと放り投げたのだった。その様も含め、表情には幾らかの余裕も見えていた。

 怪物は緩慢な動作で、それぞれの手に棍棒を拾い上げると、嘲笑うように太い足を一歩だけ踏み出した。

 クレシェイドは相手に合わせて下がった。纏う天然の鎧は問題外だが、この短剣では敵の皮膚すら傷つけられやしないだろう。唯一、敵を翻弄できるのは顔面であり、致命傷を与えられるは、目玉か、口の中ぐらいに限られる。しかし、その巨躯を攀じ登るには時間を要するだろうし、そもそもこの鎧姿で容易く組み付けるわけがない。

 正面が駄目ならと、周囲を見回し、きっかけになりそうなものを探った。

 茂み、そして森がある。身を隠し、強襲するか……あるいは、木に登って敵の背に飛び掛るか。

 他に方法も無く。彼は素早く決断した。そして短剣を鞘に収めつつ、茂みへと駆け込んだ。

 背の高い草が身を覆い始めた。背後を見ると、トロルの王はゆっくりとした動作で追って来ていた。

 そして周囲に木々が目立ち始めると、クレシェイドは、その半ばにある太い幹を選び、手を掛け、足を掛け、懸命に登り始めた。

 折り重なる枝葉の隙間から、トロルの王の迫ってくる様子が伺えた。岩石を乗せただけのような丸い頭を、ゆっくりと周囲に向けながら進んできている。こちらの行方を知らぬまま、巨体は木々の並ぶ場所へ踏み入ってきた。

 敵は幾らか焦りを覚えたように、以前よりも気忙しく周囲を探っていた。それと異なるように、足取りだけは慎重になっていた。この黒い鎧が、無数の闇に呑まれる影であることを願っていた。

 月夜を受ける王冠と、その真ん中にあるツルツルした頭皮がいよいよ真下に見えた時、クレシェイドは覚悟を決めて枝から飛び掛かった。

 トロルの肩に着地し、その首元に腕を回して身を安定させた。

 トロルの王は間の抜けた驚愕の声を上げ、必死に身をよじり始めた。

 クレシェイドも懸命に身を保ちつつ、片手で短剣を抜き、相手の目の辺りに刃を振り下ろした。

 柔らかいものを裂く感触が伝わってきた。

 トロルは絶叫した。怪物に勝つにはこの機しかない。

 トロルの両手が太い鞭のように迫る中、クレシェイドは身を屈め、短剣を抜くや、もう片方の目にも刃を突き立てようと、身を乗り出した。

 しかし、鉄槌にでも打たれたような感触が、わき腹に走り、その身は頭上の月に向かって高々と掲げられていた。

 トロルの手に捕まってしまったのである。

 欲張りすぎた。しかし、そんな後悔する間すら相手は充分に与えてはくれなかった。こちらを握る腕が強張るのを感じた。そして殺意と憤怒が導くまま、地面目掛けて力の限り振り下ろされたのであった。

 空が急速に遠ざかってゆく。身体が風になったようになった後に、背中と尻に凄まじい衝撃が走った。身体が跳ね上がり、僅かな間だが内側に纏う闇の魔力が拡散し、気が遠くなるのを感じた。

 いつもどおり、痛みは無い。闇の魔力が再び集合するのを感じると、クレシェイドはすぐに立ち上がることができた。

 彼は焦りつつ見渡せる限りの全身に目を配り、鎧に裂け目が無いことを知ると安堵の息を吐いていたのだった。

 このままでは決定打が無い。

 クレシェイドは、真新しい血に塗れた怪物の怒れる形相を見上げた。

 そういえば、未だに助けは来ない。つまり村の方は酷い状況ということだろう。ならば、極僅かな必殺の機会を見出しながらも、ヴァルクライムとライラが来るのを気長に待つしかない。頑強な鎧もそうだが、疲労に苛まれない身体にもまた複雑な心境を覚えつつあった。呪われた人生を送らなければ一溜まりも無い事態であった。

 だが、マゾルクに感謝などするものか。

 その時、聞き覚えのある声が聴こえた。

「手を上げて!」

 有翼人の少女の声が背後で響き、クレシェイドは言われるがまま右手を掲げた。

 程なくして、手の平に闇夜とはまた違う黒い渦が現れ、それはどんどん空に向かって長くなり、途端に重さを感じさせた。

 クレシェイドは渦を握ると、それは鋼の剣に変化していた。鋭利な切っ先も、厚く真っ直ぐに伸びた刀身、鍔に、柄元と、あまりにもはっきりとした形になっている。しかし、唯一違うのは全てが闇に色濃く染まっていることであった。

 ティアイエルが精霊使いであることを思い出した。これはその力の結晶だ。

 トロルは半狂乱状態になりながら、転がっていた棍棒をこちら目掛けて蹴り飛ばした。

 しかし、大木そのものの得物は、身動きするまでも無く、こちらの頭上を飛び越えていってしまった。

「ちょっと!?」

 背後で少女が悲鳴を上げたので、クレシェイドはまさかと思い焦って振り返った。

 有翼人の少女は夜空の高い位置に身を置いていた。彼女の手に提げられたカンテラの光が、その背にある翼がはためいている様をぼんやりと照らし出していた。

「ティアイエル!? 怪我は無いか!?」

「あるわけないでしょう!」

 クレシェイドが呼びかけると、少女は苛立った様に返事をした。

「そんなことより、今は自分の心配しなさいよね!」

 向き直ると同時に、トロルの王は憎悪の雄叫びを上げた。

 その轟きは、甲冑を軋ませ、あるいはその衝撃で月夜の空をガラスの如く粉砕するかと思うほどであった。

 しばし、余韻を全身に感じた後、クレシェイドは一気に巨体との距離を詰めに掛かった。

 こちらが握り締めるのに応じるかのように、右手にある漆黒の長剣は低く唸るような音を上げていた。

 トロルは出遅れ気味に豪腕で薙いだが、クレシェイドの身体はその下を潜り抜け、そのままの勢いで向こう脛に剣を突き立てた。しかし、その手応えは、期待を裏切るほど異様なものであった。

 まるで水の刀身のようだ。そうクレシェイドは感じた。黒い刃はトロルの丈夫な皮膚に当たると、皮にも肉にも骨にも、引っかかる事は無縁と言わんばかりに、一気に鍔の手前まで貫いてしまっていたのである。

 黒い刃は反対側へと突き出ていた。だが、傷口からは血が流れる様子がない。

 水の刀身? いや、むしろ光だ。黒い光りの刃だ。

 クレシェイドはそう納得した。鍔から下には物を握る感覚がある。それが不思議ではあったが、彼は刃を引き寄せるように抜くと、トロルの背後へと回り込んだ。血は出ていなかった。つまりは掠り傷一つすら負わせられなかったのだろうか。

 後退しながら半信半疑でその大きな背を凝視していた。

 トロルが不自然によろめく様を見せ、音を響かせながら地面に片膝をついたのはその時であった。

 怪物はもどかしそうに両手で頭を掻き殴った。そして弱弱しい呻き声を発した後、突然、ピタリと全身を硬直させた。

 その口から血を噴出した。そしてトロルの王は前のめりに倒れたのであった。

 手に握った闇の剣を見る。その刃は一枚の鉄とも見紛うべきであるが、その実は、闇の精霊が結晶化した魔力の集合体であった。そして、平素ならあらゆる生物の精神を傷つけ、錯乱させるほどのものが、どうしたことか身体の内部を狂わせて、致命傷とも言うべく直接的な痛手を与えたのであった。

 血の溜まりに沈みつつある巨体を眺めた。たったの一刺しがこのような結果を齎したのだ。

 カンテラの灯りが近寄ってくる。有翼人の少女の姿を確認すると共に闇の剣は霧のように消滅していった。彼女が精霊を解放したのだろう。

 少女は息を弾ませていたが、それを隠すようにして言った。

「まったく、感謝しなさいよね。本当に丸腰だなんて、自信過剰も良いところよ」

 不機嫌そうに彼女は言ったが、その態度にも、もはやこちらは慣れたものであった。

 そして彼女は俺を嫌っているかもしれないし、そうしようとしているのかもしれない。しかし、聖なる光に触れ、鎧の内側から闇の魔力が吸い込まれるように失われた際、この呪われた男の命を身を挺して護ってくれた。あれほど目まぐるしくて、無抵抗だったのは始めての出来事であった。ヴァルクライムにも感謝しているが、こうして薄れゆく意識の中での出来事を思い返す度に、彼女に対して新たに深い感謝の念が湧いていた。

「ありがとう」

 そう言うと、彼女は、まるでこちらに心があったのかと言わんばかりに目を丸くしていた。

「貸しよ。そうよ、高い利子をつけて返してもらうんだから」

 そして相手はそっぽを向いた。

 程なくして街道の先から馬蹄が聞こえてきた。

「お前達、無事か!?」

 馬上からライラが声を掛けた。後ろにはヴァルクライムもいた。

「ええ、平気よ」

 ティアイエルは宥める様に声を和らげて応じた。そして彼女は表情を引き締めると改めて言葉を続けた。

「だけど、村が酷い事になっているわ。盗賊の仕業ということだけど……」

 有翼人の少女は腑に落ちないというように声を落とした。

 村の方は未だに赤く染まっているが、それでも粗方落ち着いたように見えた。

「レイチェルと、サンダーは? いないのか?」

 ライラは我を疑うように尋ねた。

 ティアイエルは視線を落とし、溜息を一つ吐くと言った。

「手に負えなかったから、馬車と一緒に先に行かせたのよ」

 ライラは驚いたように目を丸くした。一瞬、表情が険しくなり、彼女がティアイエルを責めるのではと思ったが、そうではなかった。

 彼女は馬上から飛び降りると、ティアイエルの下に歩み寄り、その身体を思い切り抱き締めたのであった。

「すまなかった。そんな大変な決断をさせてしまって。私達も急いだつもりなのだが、思いの外、到着が遅れてしまった」

「良いのよ。ライラ、気にしないで」

 ティアイエルは悩むような顔を見せた後、当惑気味に答えた。

「こちらにもトロルの王が出たのだ」

 馬上でヴァルクライムが口を開いた。そして片手に握った、大きな銀色の王冠を掲げて見せた。ルビーとエメラルドが交互に周りに埋め込まれていた。

「軍資金にしようかと考えていたが、この分だと村の再建に役立てて貰うことが、正解なのだろうな」

 そして魔術師はトロルの亡骸の前へ馬を進ませると、突然、杖先を向けた。

 トロルの鎧から炎が吹き上がった。それと同時に、切り裂くような甲高い悲鳴が聴こえ、クレシェイド達を驚かせた。

 炎が消え、木の皮と蔓の鎧は燻ぶった煙上げる炭と化していた。魔術師は馬から下りると、ボロボロになった鎧を素手で掻き分けた。

 途端にティアイエルと、ライラが嫌悪の表情を見せた。

 鎧の下には気持ちの悪いピンク色の名残を残した生き物の屍骸があった。

「こいつは大きな蛭さ。身体からとても強力な粘液を出している。このトロルは自分の血を吸わせる代わりに、こいつを利用して鎧を身体に貼り付けていたようだ。それとも、重ね着のつもりだったのかもしれんがな」

 魔術師はトロルの頭の方へ歩み寄り、身を屈めて金色の王冠を取り去った。

「何故わかったのだ?」

 クレシェイドは思わず尋ねた。

「こいつの粘液は汚水に似た悪臭がする。大概はトロルの体臭だと納得してしまうのが落ちだがな。さて、各人、疲労困憊だろう。しかし、それよりも我らが小さな勇者達が心配だろうと察するが?」

 ヴァルクライムが、力のある笑みを三人に向けた。

「当然だ。私は今すぐにでも後を追うぞ」

 ライラがはっきりとした声で応じた。

「行こう」

 クレシェイドも賛同したが、ティアイエルは表情をやや曇らせて答えた。

「さっきも言ったけど、村がかなりの被害なのよ。盗賊やトロルがまた襲撃してくるともわからないし、警備兵と、他の数人の冒険者だけじゃ正直言って持ち堪えられないわよ」

「ならば、アディー・バルトン殿と相談の上、我らの身の振り方を決めるとしよう。お嬢様のこともあるからな、こちらの要望を最大限に聞き入れてくれるだろうよ」

 ヴァルクライムが言い、一同は村へ戻ることにした。

 ライラがティアイエルに後ろに乗るように言ったが、彼女は得意げに翼を広げて見せていた。そして並んで先に進んで行く。

 クレシェイドも続こうとしたが、その前にもう一度トロルの亡骸を振り返った。

 身体を内側から傷つけ破壊するほどの闇の剣の威力そうだが、他のトロルを剣で分断したときの得体の知れない熱い力のことが思い出された。

 馬上の魔術師の背が目に入り、思わず彼なら知っているのではないかと、声を掛けていた。

「ヴァルクライム。もしかすれば、俺の身体が戻ったかもしれないんだ」

 魔術師は馬を止めて振り返った。

「話してくれ」

 相手は驚くほど神妙な面持ちで答えたので、こちらが面食らってしまっていた。しかし、その反面、彼がこちらの身体のことを真面目に考察しようとしている態度に深い信頼を覚えた。

「どんな強い力を持った人間でも、剣でトロルの堅い皮膚と厚い胴を、一振りで真っ二つに出来ると思えるか?」

 クレシェイドが尋ねると、ヴァルクライムはゆっくり首を横に振った。

「物語に出てくるような伝説の剣でも持っていれば別だが、いずれにせよ一太刀でそこまでやれるとは考え難いな」

「しかし、見てくれ、俺はやってみせた」

 そうして、魔術師の少し先に横たわるトロルの亡骸を指して言った。

 ヴァルクライムは馬を進ませ、亡骸を見下ろした。

「確かにな。しかし友よ、肉体を取り戻したならば、それこそ以前より非力になるものとは思えないか? お前さんの言う通り、人間の力で、トロルの身体を、一刀で断つことなどできないだろう」

 クレシェイドは声を詰まらせていた。そして愕然とした。完全に舞い上がっていて、それに気付けなかった。しかし、さほど落胆はしていなかった。自分の中でも肉体を取り戻すのは、マゾルクを倒す他に有り得ないと固く思い決めていたようである。そして、ふと、思い出した。もしもここで肉体に戻ってしまえば、身体は年を重ねることになる。残されたたかだか数十年の間にマゾルクと出会える保証は無く、つまりはリルフィスの呪いを解く前に確実に寿命を迎えてしまうだろう。

 自分にも件のマゾルクにも激しい苛立ちを覚えた。

「しかし、これほど強烈な一撃を放てた原因については、後にも先にも答えは一つしかないな」

 ヴァルクライムが言い、クレシェイドは彼を仰ぎ見た。

「つまりはお前さんを動かしている闇の魔力が、一時的に活性化したのだ。無論、常軌を逸するほどにだな。ライラの居た迷宮で、お前が聖なる力に中和されようとしたときに、俺は闇の魔力を、そしてティアの嬢ちゃんは闇の精霊力をお前の身体に注ぎ込んだ」

 クレシェイドは合点した。これまでと違うのは、鎧の内側に広がる海のような闇の流れの中に、同じ特徴を持つ精霊が存在しているのだ。

「精霊は生きている。お前さんの強烈な意思で、闇の魔力が動いたときに、精霊達も感応したということだ。数千、数万、それ以上の目に見えないほど繊細な精霊達が鎧の内側に漂っていて、お前の内なる声に応じて、そいつら全員が力を振り絞ったということだ。何にせよ、マゾルクという奴に対抗できる大きな手段には違いない。まぁ、ティアの嬢ちゃんは失った闇の魔力を、短期間で生成するためにやったことだと思うがな」

 魔術師は馬を進めて行った。

 クレシェイドは先を行く少女の背と翼へ目を向けていた。

 マゾルクに敗北した二度目の俺とは決定的に違う力を、彼女が与えてくれたのだ。

 抗う手段が増え、百年振りの希望が身体を躍らせていた。

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